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Born to be "The Great"

 僕は騎手になるために生まれてきた。

 生まれたときから馬に囲まれ、騎手、調教師、厩務員、馬に携わる仕事をしている人たちのなか、栗東トレーニングセンター、俗に言う競馬村で育った。そうしたなかで僕が騎手を目指したのは至極当然だったと言っていいだろう。

 曾祖父は当時騎手として八大競走を完全制覇し、厩舎を開いてからも数々の名馬を輩出した。祖父と父は騎手としては曾祖父ほど奮わなかったが、調教師としてはいづれも曾祖父を凌ぎ、祖父は調教師として八大競走を制し、父の代に至ると見事由比家の悲願であった三冠馬イスカンダルを育て上げた。

 日本競馬の歴史において、由比家は輝かしい栄光の軌跡を描いてきた。

 時々考えることがある。

 今の立場に生まれていなかったのなら、僕は騎手になっていただろうか、と。そして、そのたびに同じ答えに行き着く。

 ――僕はきっと騎手になっていない。

 競馬学校で初めて競馬村以外で育った人と生活を共にし、なぜ彼女たちがこの世界に飛び込み騎手を目指したのかを知った。それを語るときにその口から迸る情熱を、その瞳に滾る輝きを、僕は持っていない。

 騎手以外の人生なんて考えもしなかった。

 それは情熱にほだされたわけではない。僕にとって騎手になることは当たり前だった。それだけだ。

 しかし、僕にとっての当たり前は、彼女たちにとっては思い焦がれて、人生を賭けて挑戦するような「夢」だった。

 願っても決して得ることのできない渇き。

 それを羨ましく思ったと言ったら、贅沢だと言われてしまうだろうか。  

 そんなことを考えていると、決まって頭に流れてくる言葉がある。

「血を繋げていくのが儂らの仕事だからな」

 今は亡き祖父が僕が幼い頃からよく口にしていた言葉だ。

 血。

 すなわち血統を競馬というスポーツは何より重んじる。

 より良い競走馬を生産するため、生産者は繁殖牝馬に最適な種牡馬を選定する。そして、生まれた仔の中からまた新たな繁殖牝馬と種牡馬が生まれ、そしてまた仔が生まれるという循環のなかで競馬は発展してきた。

 その過程で重要になるのが、その馬の血の履歴書である血統だ。

 「奇跡の血量」や「ニックス」というような結果論的で科学的根拠が希薄な血統理論がいまだに支配的な背景には、人間にとって馬の能力を推し量る材料が詰まる所、その体に流れる血にしかないという現実があるのは言うまでもない。

 競走馬は調教によってその素質を大きく伸ばすものもいるが、父母からの遺伝はその素質の前提となる土台部分を形作るのだから、ここを疎かにすれば満足な花を咲かせることができないのも自明だ。しかし、どんな完璧と思われる配合をしたところで、走るかどうかは結局生まれてみなければわからないのもまた事実である。

 血統を重視するのは、結局のところ、トンビが鷹を生むよりは、鷹が鷹を生む確率のが当然高いだろうという確率論に過ぎない。そして、わざわざ分の悪い方に賭けるのは少数派であるし、敢えて賭けるもので長く生き残るものは稀だ。競馬の世界において血統が重んじられるようになったのは当然の帰結であった。

 そんなブラッドスポーツである競馬を語るとき、必ずと言っていいほど引用される言葉がある。

「ノーザンダンサーの血の一滴は、一カラットのダイヤモンドより価値がある」

 一九六一年カナダに生まれたノーザンダンサーは、現役時代はカナダとアメリカで活躍した競走馬である。競走馬としてケンタッキーダービーを当時のレコードで勝利する圧倒的な実力がありながら、後年彼が語られることになるのはその種牡馬としての実績だ。

 ニジンスキー、リファール、ヌレイエフ、サドラーズウェルズ、ダンチヒ、ストームバード……。多彩な距離や馬場、国で活躍した彼の直仔たちを挙げていけばきりがない。そのどれもが種牡馬として大きな成功を収め、ノーザンダンサーの血は現在まで脈々と受け継がれることになった。特に欧州において生産馬の実に八割がそれらを束ねたノーザンダンサー系に分類されるほどだ。現在の欧州競馬においてもその血筋であるプトレマイオスが圧倒的な種牡馬成績を収めている。

 現代日本の競馬界においては主流血統とはいかないまでも、たとえばノーザンダンサーの仔であるノーザンテーストは当時の日本競馬界に種牡馬として輸入され、日本競馬の礎として大きく寄与したのは言うまでもない。

 まさに二十世紀を代表する大種牡馬。それがノーザンダンサーであった。

 競馬の世界において、ノーザンダンサーのように優れた血はそれまでの世界をがらりと一変させてしまう。それ故、サラブレッドの血を後世に繋いでいくことには大きな責任が伴うのだ。

 祖父の言葉は、競馬関係者であれば改めて言葉にするほどのものでもない当たり前のことである。だが、祖父は事あるごとにこの言葉を口にしていた。いまにして思えば、祖父の言葉の意図はそれだけではなかったのだろう。

 競走馬の血を繋げていくことは勿論だが、そのためには由比家の血も脈々と繋げていかなければならない。それも仕事、いや使命だと幼子に暗に示していた。

 そして、そのためには結果を出し続ける必要がある。結果を出さなければ、厩舎を存続することはできず、そうなれば、いずれ競馬界を去らなければいけなくなるだろう。

 祖父も父もこの血を今に繋げてきた。

 今度は僕の番だ。

 獅子が生まれながらにして王たる宿命を負うように、僕に課せられたこれもまた宿命である。

 日鷹。君が憧れ、辿り着いたこの夢の場所は、僕がこれまで当たり前に生きてきて、これからも生きていかなければいけない現実だ。

 だからここは夢を見る場所じゃない。

 僕はこの名を背負っている以上勝つ。それだけだ。

 行こう――、

「――アレクサンダー」

 鞭を振るう。

 瞬間、競馬場に蓋をした厚い黒雲を稲光が切り裂き、中山を白く染める。喧々たるスタンドから音が消えた。

 濡れそぼった大地を一際強く踏みしめる馬蹄の音。

 それは、荘厳に、傲然に、大王の出陣を告げる。

『そ、外からアレクサンダーが上がってきたああ!』

 少し遅れて爆発的な声の塊が圧となってターフに押し寄せた。

 外を回ってきたアレクサンダーが抜け出し、先頭を往くクラッシュオンユーを猛然と追う。

 それまでクラッシュオンユーに賛辞として浴びせられていた歓声を、アレクサンダーが一瞬にして掠め取った。歓声は雨音を掻き消す。それは狂気であり、もはや叫声と怒号と表現したほうがいいものだった。 

 直線、徐々に、だが確実にクラッシュオンユーとの距離が縮まる。

 あと三馬身。

 クラッシュオンユーの鞍上、振り返った日鷹と目が合った。


 ――嘘だ。

 目に映る光景に唖然とする。

 アレクサンダーが他馬を率いて猛然と近付い来ていた。四コーナーの荒れた内ラチを突いたことで、一頭、距離のアドバンテージを得ることはできた。だが、アレクサンダーはそれを一笑に付すように圧倒的な実力で捻じ伏せんとしていた。

 これが三冠馬イスカンダルの息子。

 これが現三歳最強馬。

 顔に走った稲妻形の流星がなんとも禍々しく驟雨のなか浮かび上がる。もう一度空が白く光った。

 はっ、として前を向き直る。

 先程まで間近に見えていたゴールが、今は遥か遠くにあった。アレクサンダーの猛追を背に、それはあまりに果てしなく遠い。

 地面を打ち鳴らす馬蹄の音が一歩、また一歩と近づいてくる。

 大きく。

 力強く。

 それは鼓膜を通り抜け、震え上がる脳に襲いかかり、今にも破裂しそうな心臓を鷲掴みにする。

 もう、背後を振り返ることはできなかった。

『アレクサンダー、ここでクラッシュオンユーに並んだあ!』

 並んだ。息が詰まるほどの威圧感を半身に感じる。

 だが、それも一瞬のことだった。

『――しかし、アレクサンダーあっという間に躱していく! 先頭、アレクサンダー! 強い、強すぎる!』

 アレクサンダーはあまりにもあっさりとクラッシュオンユーを追い抜いていく。

 ――負ける。

 突きつけられる現実を前に、どうしようもない無力感が押し寄せた。

 視界が暗く、狭くなる。 

 相手が悪かった。

 相手はここまで無敗のG1馬。こちらも重賞馬とはいえ、力が及ばなくてもしょうがない。よくやったじゃないか。

 強豪馬ひしめき合うなかで二着なら充分な結果だ。武市さんも、咲島先生も、生島さんも、市口さんも、きっと喜んでくれるに違いない。

 きっと――。

「……ふっざけんな……!」

 自らを慰める無様な言葉を頭から振り払う。

 二着で充分? 冗談じゃない。

 あいつが強いからなんだというのだ。

 それは勝つことを諦める理由にならない。

 口に鉄の味が広がる。自分でも信じられないほどに歯を噛み締めていた。

「くそが……!」

 まだだ。

 抜かされたがアレクサンダーからはまだ一馬身と離されていない。

 まだ終わっていない。 

 追え。追えば絶対に活路はある。

 ゴールまでの距離はもう僅かだ。限られた選択肢のなかで勝つためにやれること――。 

 ――併せる。

 それしかない。

 アレクサンダーと馬体を併せることでクラッシュオンユーの闘志を呼び起こす。スプリングステークスでクラッシュオンユーが見せたあの「怖さ」を再現できればまだ勝機がある。

 負けるもんか。

「勝つんだ!」

 クラッシュオンユーを、そしてなにより自らを言葉で奮い立たせた。全身のバネを使い馬を追う。ここですべて出し切れるなら、腕が千切れようが、足が千切れようが構わない。だからどうか、ほんの少しでいい、私の力よクラッシュオンユーに届いてくれ。

 流れる汗はとうに尽きた。

 いま皮膚を濡らすのは激しく打ちつける雨だけだ。

 瞳に映るアレクサンダーの後ろ姿が大きくなっていく。一度は躱されたクラッシュオンユーが再びアレクサンダーに並び立たんと追い縋り、差は再び二分の一馬身差ほどに縮まった。

 足下が俄に隆起し、唸りを上げる。

 ――来た。

 全身が粟立つ。あの感覚だ。

 クラッシュオンユーが、「怪物」に変わる。

次回は5月20日(火)更新予定です。

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