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『スタートしました! 内から押して行ったのはアフィラドール、大外から負けじとセイホーランデブーが上がってくる! 二頭の激しい逃げ争い、最初の坂を上がっていきます!』

 レースが始まった。

 皐月賞はイギリスのクラシック競走である二千ギニーを範として創設された競走であり、二千メートルという距離は牡馬のクラシック三冠レースにおいて最も短い。皐月賞は「最もはやい馬が勝つ」という格言の通り、「最速」の馬を決める戦いだ。そして、牡馬にとってのクラシック初戦ということもあり、最も仕上がりの早い馬を決める戦いでもある。つまり、「速さ」と「早さ」、その二つが皐月賞馬に求められる素養ということになる。

 スタンドからの歓声を間近で浴びながら、最初のコーナーまでのホームストレッチの坂を十八頭は駆け上がっていく。

 皐月賞はこの坂を二度登る。

 一度目がスタートしてから第一コーナーまで。そして二度目が最終の第四コーナーからゴールまでだ。最初の位置取り争いと最後の競り合い、どちらも勝負どころで待ち構えるこの坂へどのようにアプローチするのかも騎手の腕の見せ所だ。

 このレースにおける二頭の逃げ馬、アフィラドールとセイホーランデブーは当然この一度目の坂で勝負を仕掛けた。その二頭に引っ張られるように十六頭の馬たちも勢いよく駆け抜ける。

 そのなかにおいても内ラチ沿いはぽっかりと空いていた。

 レース開始時の馬場状態は稍重。

 普段のレースであれば、距離や体力のロスを抑えるため内ラチ沿い、俗に言う経済コースを取りにいくところだが、馬場は想定よりも回復していない。

 どの馬も最内を攻めあぐねていた。

 第一コーナーを越え、アフィラドールが先頭、セイホーランデブーが三馬身離れて続く。この二頭の逃げ馬を見て、その後続はまた四馬身ほど離れた。有力馬であるピクチャレスク、アレクサンダーなどはここに控える。少し後ろにバショウセン、最後方にはアマクニ、クラッシュオンユーと並んだ。

 スタンドの声が遠くなった頃に第二コーナーを迎える。

「今日は逃げじゃないんだ。青ちゃん」

 少し前を行く那須さんがこちらを横目で見る。その口調はこちらを侮ったり、嘲るものではなく、我が子に対するそれに似ていた。

「スプリングステークス、すごく良かったのに」

「逃げじゃいけないんです。今日は」

 穏やかなその瞳をまっすぐと見つめる。

 那須さんは目を細めると、何も言わずに口角を少し上げ、前を向き直った。

 このレース、アマクニの出方は私にとって大きな鍵になる。同じ追い込み馬、しかも鞍上は那須さんだ。

 生きた参考資料であると同時に、乗り越えなければいけない高い壁。

 シンザン記念ではなにもできずに終わったが、それをここで繰り返すつもりはない。 

 馬群は縦に引き伸ばされ、位置取り争いは小康。

 早くも中間地点である千メートルを通過した。

 通過タイムはゆうに六十秒を切る。距離にもよるが、千メートル通過タイムのおよそ六十秒を境にしてペースはハイかスローにわけられる。

 つまりこのレース、ペースはハイだ。

 皐月賞と同条件の中山内回り二千メートルで行われる重賞レースはいくつかある。そのなかで、三歳牡馬が皐月賞までに走ることのできるレースがホープフルステークスと弥生賞の二つ。この二つのレースで上位を走った馬に人気が集まるのも当然といえる。

 しかし、直近の弥生賞、ホープフルステークスともに千メートル通過タイムが六十二秒、六十三秒とスローペースのレースであったため、ハイペースになった今回の皐月賞とは必ずしも結びつかない。雨が降り、馬場が重いなら尚のことだ。

 では、今回のレース展開はどの馬に利するのか。

 ハイペースは基本的には差し、追込の馬に有利に働く。しかし、ここ中山競馬場が大箱に似合わぬトリッキーなコースであることを忘れてはならない。

 小回りかつ、最終コーナーを抜けてからゴールまでの直線が三百十メートルと短い(同じく関東にある東京競馬場は直線距離が五百三十メートルほどある)ことから、差しが決まらずに粘り込んだ逃げ、先行馬がゴールに雪崩込むということも少なくないのである。

 展開から見れば後ろ有利、コースから見れば前有利。悪戯な天候はそのどちらにも微笑み、そして嘲笑った。すべてが渾然と混ざり合い、レースを混迷に陥れる。

 依然として勝利の女神の横顔も窺えなかった。

 冷たさがひとつ頬を打つ。

 面をわずかに上げると、間を置かずに頭上からさあっと音を立てて雨が落ちてきた。それはあっという間に全身を濡らすほどの激しさだったが、いまさら雨が降りだそうとこのレースの大勢に影響はない。

 手綱を握り直した。

 レースは着々と進む。

 向正面の直線でも大きな動きは見られない。

 最後のコーナーから直線に向け、各馬が力を溜めているのだろう。

 息苦しい時間が続く。腹のあたりが重く淀んだ。

 時を経るにつれ選択肢は確実に少なくなっていくのに、迷いは止め処なく膨れ上がる。

 いよいよ第三コーナー、残り八百メートルの標識を通過した。

 ――まだ動かないのか。

 眼前のアマクニはいまだ沈黙している。

 顔を打ち付ける雨に混じり汗が顎を伝う。

 直線が短い中山競馬場。追い込み馬といえど、早めに仕掛けなければ先頭に届かない。

 ――動け。動いてくれ。

 そう念じるがアマクニは微動だにしない。

 そして、いよいよ第四コーナーが見えた。

 馬の群れが唸りながら速度を上げる。肌が総毛立つ。

 ここだ。ここで、勝負が決まる。 

『さあ、いよいよ第四コーナーを迎えます』

 アマクニは動かない。

「くそっ……!」

 その時、思わず息を呑んだ。

 それまで流れていた映像が写真のように止まった。 

 白い線を引いた雨が、無数の粒となって宙に静止する。幾重にも重なった馬蹄の轟きが突如として消え去った。

 唖然としていると、網膜に映った光景に目を疑う。

「……道だ」

 小さく言葉が溢れた。

 黒々とした馬の群れが第四コーナーで膨れると、内ラチが大きく開けた。あまりに突然、あまりに大胆な空隙。それは艱難を打破するためのアリアドネの糸か。それとも迷い子を呑み込まんと大口を開けた怪物か。

 浅くなる呼吸で思考が鈍る。

 一度大きく息を吸った。肺に満たされた空気が血管を巡り脳を駆ける。

 落ち着け。このスペースが開くのは当然だ。降り続いた雨、度重なるレースにより荒れた馬場。その大地はもはやコースとしてみなされていないのだから。

 それに――。

 左前方に顔を向ける。そこにはアマクニが変わらずにいた。

 それに、那須さんだってこの状況で外を回るのだ。まだ勝機は外にある。きっと、あるはずだ。 

 きっと――。

 ……本当にそうだろうか?

 それで勝てるのか?

 先程の那須さんの顔が過ぎる。

 それを振り払うように目を閉じ、瞬刻、強く見開いた。

 雨が再び白い線を引き中山の景色を霞める。轟音は耳だけではなく、体全体を襲った。

 私は馬鹿か。

 自分の行く道は自分で決めろ。 

 泥濘みに脚を取られようとも、荊に肌が裂かれようとも、志半ばに散ろうとも、ここを進まなければ私たちに勝利はない。

 なにを迷う。

 なにを恐れる。

 正道であれ、王道であれ、勝利に続く道はご丁寧に均されてなどいないじゃないか。道がないなら無理矢理切り開けばいい。

 右手を引き内に進路を取る。

 手綱が掌に食い込んだ。

 いざ、

「いくよ! クラッシュ!」 

 

 ――くそっ。

 位置取りを誤った。

 縦に伸びていた馬群はいよいよ先頭との距離を縮める。第四コーナーが迫っているのに、バショウセンは思いもよらず前後左右を囲まれる形になった。

 いや、これは少し正確ではない。

 一番人気であるアレクサンダーを囲むように警戒している馬たちに巻き込まれたのだ。アレクサンダーにとってみればこちらが邪魔者ということになる。

 ここまで来たらコーナーで馬群がうまくばらけるのを祈るしかない。最後の直線が勝負だ。

 第四コーナーを迎える。

 内ラチを避け、馬群は大きくコーナーを膨らんでカーブし、その塊が解けた。 

 視界が一気に開け、果てなくまっすぐとした道が広がる。

 ――よし。

 鞭を振り上げる。

 その時、視界の端に黒い影が横切った。その姿に、瞬間、目を奪われる。

 ――嘘だろ。

 黒、白袖、海老鋸歯形の勝負服。

 青毛の馬体。紫紺のゼッケンに「14」、そして「クラッシュオンユー」の黄文字。

 小回りのコーナーを大きく弧を描いて回るこちらを嘲笑うかのように、クラッシュオンユーが内ラチに切り込んでいる。弧の両端にピンと張った弦のように一直線に、だ。

 ――ありえない。

『さあ、四コーナー、先頭はアフィラドール! アマクニは大外から行く! アレクサンダーはまだ控えたまま――。

 おっと、ここで内からクラッシュオンユー、クラッシュオンユーが来ています! 一気にアフィラドールに迫る!』 

 たしかに大きく膨らんだ馬群の内側にはゆうに馬数頭が走ることのできるスペースがある。……たしかにあるが、そこは素人が一目見てわかるほどに泥濘み、荒れた道だ。昨日、今日とここでレースに乗っている日鷹がそれを知らないはずがない。

 そこに走れる空間があることは、そこが走れる道であることを意味しない。

 馬場状態は競走において重要な要素だ。馬場の良し悪しで走破タイムは大きく変わる。皐月賞においても重馬場と良馬場の時、それぞれの優勝馬のタイム差は実に三秒ほどある。競走馬において三秒は距離にして六十メートルほどにもなる大差だ。

 千、二千と走って〇・一秒、否、〇・〇秒の中でのハナ差、アタマ差で鎬を削る世界。その僅かな差が天地を分かつのは年季を重ねた騎手であれば嫌というほど肌身に感じている。

 だからこそ、皆この内ラチを避けたのだ。 

 もちろん重馬場を得意とする欧州由来の血統も少なからず存在する。しかし、欧州の自然を切り開いたような雄大な競馬場と異なり、整然と作られ管理された人工的な日本の競馬場ではその血統に由来するタフさやパワーよりも純然たるスピードが要求される。もとより、レースの大半が良馬場で行われるなかで重い馬場を得意とする馬をわざわざ作る必要などない。

 畢竟、日本において生まれる競走馬の大半は「整備されたコースを速く走る」ことに特化している。

 クラッシュオンユーとて例外ではない。

 暴走と言ってもいい一手だ。

 だが、クラッシュオンユーは勢いよく四コーナーの内ラチ沿いを一直線に駆けると、ひと息に馬群を置き去りにした。


 激しい雨で視界が霞む中、前方、傘で埋まる一階スタンドをまっすぐに見つめる。

 右半身すぐ側に内ラチがある。このままコーナーに沿ってはいけない。弧ではなく、一直線にスタンドへ。この悪路を走るのは最小限に、四コーナーを抜け、直線では馬場のいいところに入る。

 ここで先頭に立つことができれば――。

 残り三百メートルを切った。

 時間にしてあと十五秒もない。

 直線、馬が織りなす地響きを背に、海鳴りのような喚声を半身に受け、ついに先頭に立つ。

 にわかに心臓が跳ねた。

 ――勝てる。いや、絶対に勝つ。

 私たちが、皐月賞を獲る。

次回は5月13日(火)更新予定です。

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