三十分前
十五時四十分の発走時刻が刻一刻と迫っていた。
さっきまで顔を覗かせていた太陽が雲に隠れる。薄暗さは湿り気を伴い、競馬場を満たす空気を鈍重なものにしていた。
目の前の長円形のパドックをスタッフに引かれた馬が列をなして回っている。
そこをぐるりと囲むように観客がひしめき合い、幾重にも壁を織りなしていた。パドックの半分を囲むように切り取られた五階まであるスタンド、そのすべてのベランダから人々の視線が注がれる。
馬の肉体から得られる情報をひとつも逃さないように眉間に皺を寄せ目を皿のようにしているものもいれば、やれあの馬がかっこいい、やれこの馬がかわいい、と指をさしてはしゃぐものもいる。過ごし方はそれぞれだが、その誰もが皐月賞の熱に浮かれていた。
スタンドに向かい合いモノリスのように鎮座している大型の電光掲示板では、皐月賞の単勝式、複勝式、連勝式の各種オッズがずらりと表示されている。一番人気であるアレクサンダーの単勝式馬券のオッズは遂に一・四倍を切り、一・三倍になった。
そんなパドックの中心は、その取り囲む熱気とはまた雰囲気を異にしている。吹き荒ぶ台風が、その目の中はしんと静まり返っているように、そこには驚くほどに和やかな空気が流れていた。馬主やその親族友人、調教師が時に馬を眺めながら思い思いに語らっている。
競馬の本場であるイギリスがそうであるように、競馬場はただの賭博場でも競技場でもない。上流階級の社交場としての側面を持つものだ。G1の舞台ともなれば多くの人が集う。
人混みに咲島先生を探す。
レース前にクラッシュオンユーの馬主である武市さんに挨拶しておきたい。おそらく先生が近くにいるはずだ。しかし、先生は上背もないので、人混みの中ではまるで見当がつかなかった。
うーん。取り敢えず人混みに入って探すことにしよう。パドックの輪を横切り中に入る。
「うん?」
入ってすぐのところに立つ女の子と目が合った。少し茶色がかった髪を二つ結びにし、卸立てであろう正装に身を包んでいる。歳は五歳くらいだろうか。くりっとした目も合わさって、お人形さんのような可愛らしい子だった。
その目がこちらをじっと捉えて離してくれない。先に動いたほうが負けとばかりに、女の子は微動だにしなかった。
「ああ、いたいた」
その女の子の背後から仕立ての良さそうな背広を着た老人が現れた。すらりとして背広姿がよく似合う。にこにこと目尻に皺を深く刻んで女の子の横に立つと、女の子はその老人の足にぎゅっとしがみついてその陰に隠れた。老人はそんな女の子の頭を、困ったような笑顔で愛でるように撫でる。
その様子をぼんやり見ていると、老人は女の子に落としていた視線をゆっくりこちらに移した。口元には笑みが残っているが、その眼光は思わず息を呑むほどに鋭い。
「すまないね。レース前なのに。この子が君の大ファンでね。急に本物にあったからびっくりしちゃったみたいなんだ。なあ、加音」
加音と呼ばれた女の子は隠れたままちらっとこちらを窺うばかりだ。
「いえ、そんな気にしないでください。私のファンだなんて、凄い嬉しいです」
老人は相好を崩す。
「だってよ。よかったなあ、加音。
そうだ、日鷹騎手。よければでいいんだがこの子と握手でもしてあげてくれないかい」
「もちろん」
そう言って私は加音ちゃんの近くに進み出て、目線が合うようにしゃがんだ。右手を差し出す。加音ちゃんはただでさえくりっとした目をまんまるに見開いたあと、そろりと右手を差し出してきた。
その手を優しく、だがしっかりと握り返す。
「……がんばって、ください……」
消え入りそうな声で顔を真っ赤にしながら加音ちゃんは言った。
「応援してくれてありがとう。私絶対勝つね」
すると、加音ちゃんはなにか言おうと口を開いた。しかし、再び口を結んで下を向き、またもじもじと黙り込んでしまう。
思わず小首を傾げる。
なにかまずいことでも言っただろうか。
「ありがとう。じゃあ、レース頑張ってくださいね」
「……あっ、はい。ありがとうございます」
老人はそう言うと加音ちゃんを連れて人混みへと消えていった。去っていく加音ちゃんの背中に小さく手を振る。
「俺たちに挨拶する前に敵の親分と仲良くお喋りか」
振り返り見上げると咲島先生がいた。武市さんも一緒だ。武市さんと和やかに挨拶を交わした後、咲島先生のほうへと向き直った。
「いたなら声かけてくださいよ、先生。――っていうか、どういう意味です? 敵の親分って」
「親分は親分だよ」
「なんだ、知らなかったのかい。彼のこと」
武市先生が意外そうな顔でこちらを見る。咲島先生はともかくとして、武市さんの反応を見るに有名な人らしい。さっきのお爺さんが?
「兵主景介。
ベルリン、ボストン、ウィーンにシカゴと世界の名だたる交響楽団を渡り歩いてきた超一流の指揮者だよ。僕も実際に劇場で見たことがあるんだがね。凄いんだよ、彼の指揮は。なんというか、こう、陳腐な言い方になってしまうが魂が揺さぶられるようでねえ」
「はあ……」
気に抜けた声が出る。
指揮者と言われてもそちらの方面には明るくない。どこかの馬主の懇意にしている関係者ということだろうか。
咲島先生はこちらの反応に半ば呆れ気味に溜息を吐いた。
「こう言えばいいか?
アレクサンダーの馬主なんだよ。あのご老体は」
「まさかこんなに早く皐月賞に出れるなんてね。まだ新参馬主なのにバチが当たるんじゃないか」
目の前に立つ兵主景介がそう言って笑った。先程まで蝉のように足にしがみついていた女の子は母親のもとへと縋る木を変えた。
「年数なんて関係ないですよ。父や祖父の代から何十年とやってきても勝てない人もいれば、数年でするするG1を勝っちゃう人もいる。いわゆる持ってる人ってことですよ。馬主をやる人はそういう人がやっぱり多いもんだが、その中でもまた持ってる人ってのがいるもんです」
そう言って父が肩を竦める。
「それは嬉しいねえ。それでいうと君の息子さんも持ってる側の人間じゃないかい?」
父と話しながらも兵主の目がこちらを捉える。その目にはこちらの反応を窺うような好奇の色があった。歳に似合わぬ、悪戯小僧のような目だ。
父はこちらを一瞥するが、すぐに兵主に視線を戻す。
「いや、こいつはまだまだ半人前なので。あんまり褒めんでください」
「厳しいなあ。自慢の息子さんじゃないか。騎手にもなってくれて、将来は厩舎を継ぐんだろう。
羨ましいねえ。うちのは二人とも娘だったし、孫も女の子ばかりだから。やっぱり男の子も欲しかったなあ。子も孫も嬉しいことにみんな音楽の道を歩んでくれたけど、やっぱり女の子相手だと厳しくいけなくてねえ」
「先生に指導されたらそれは立派な指揮者になりそうだ」
父の言葉に兵主は髪と同じく真っ白に染まった片眉を上げて顎を撫でる。
「どうかなあ。音楽はやらせただろうが指揮者の道なんてのは茨の道、いや、道なんて生易しいものはないからねえ。
僕が今指揮者をやれてるのも奇跡みたいなもんだ。
指揮者ってのは、音楽の神様の声を伝えるために生まれた神託者なんだよ。世界に溢れんばかりの音をなんとか掬いあげようと日々足掻く奉仕者と言ってもいいかもしれない」
兵主の視線がいきなりこちらを射抜く。
「騎手もそうだろう?」
「そう、……ですかね」
急に「指揮者」の話から「騎手」という言葉が出てきて戸惑ってしまう。兵主は宙を見つめ、節ばった指で小さくリズムを刻みながら話を続けた。
「そうとも。言葉ではなく、その血潮が打つリズムを感じ、骨、腱、筋肉それぞれの奏でるメロディを拾い上げて至上のハーモニーに仕上げる。指揮者が音に対する奉仕者だとすれば、騎手っていうのは競走馬にとっての奉仕者ってわけだ」
兵主が視線を横に向ける。つられてそちらの方を見ると、その先には電光掲示板があった。
「一・三倍というオッズはアレクサンダーの強さを物語るだけじゃなく、君の腕に対する評価でもある。アレクサンダーは一流の馬で、君も一流の騎手。それを疑う者はいないだろう。
君がアレクサンダーの主戦騎手でよかったよ」
「ありがとうございます」
「――だが、これからもそうとは限らない」
それまで穏やかだった空気が一瞬で張り詰める。父の口の端がひくついた。兵主は微笑みを崩さないが、それが却って言いようのない恐怖を想起させた。
「ただ強いだけの騎手ほど、つまらないものはないからね」
落ち窪んだ目の奥が光る。
無言で目線を交わす。口を強く結び、手に力を込めた。
これから、ではない。兵主が今の僕に満足していないのはその口ぶりから明らかだった。
風音に遠雷が微かに混じる。
「だいじょうぶだよ」
沈黙を破り、どこからか聞こえた声に驚く。
左右に目を動かしたあと視線を下げると、母親にひっついていた女の子がいつの間にか兵主との間に立っていた。丸く開かれた目がじっとこちらを見る。
「おじいちゃんのおうまさん、『あれくしゃんだー』はすっごくつよいんだから」
「おっ、加音。よくわかってるなあ」
兵主の顔が孫を甘やかす祖父の顔に戻る。
舌足らずに馬の名前を唱える少女の目には一点の曇りもない。口からふっと息が漏れる。
図らずもこの小さな女の子に救われる形になった。
加音ちゃんの前で片膝をつく。
「そうだね。君の言う通りだ」
そこで何かに気づいたように少女は目を見開いた。
「あっ、でも、あおちゃんがかっちゃうかも。あおちゃん、おうまさんにのるとすごくかっこいいの!」
「あおちゃん……?」
――あおちゃん。……あお。……青。ああ、日鷹のことか。随分可愛らしいファンがいるものだ。
思わず口元が綻ぶ。
「じゃあ、『あおちゃん』に負けないくらい、僕もかっこよく乗ってくるよ」
こちらをじっと見た後、加音ちゃんは小さく笑い控え目に頷いた。
生憎の空模様だが、中山競馬場の中は人で溢れていた。久しぶりの競馬場とあってなかなか勝手が掴めない。混み合った通路を掻き分けるのにも疲れ、並んで歩く男女を人除けにして数歩後ろにくっつく形で進むことにした。
大学生くらいのカップルだろうか。
「ねえ、そういえばなんで『皐月』賞なのに四月に開催なの? 弥生賞は三月に、フェブラリーステークスは二月にちゃんとやってるよね」
涼し気なワンピースを着た女が青年のほうへ尋ねる。ハイヒールのせいか、青年が小柄なせいなのか、女のほうが少し背が高い。
青年は小さく鼻を鳴らして、眼鏡のブリッジの部分を指で押し上げる。
「そんな大した理由じゃないよ。元々は一九三九年に|横浜農林省賞典四歳呼馬《よこはまのうりんしょうしょうてんよんさいこば》として創設されたレースを紆余曲折を経て皐月賞と呼ぶようになったんだけど、その時はその名の通り五月開催だったんだ。
でも、すぐに他のレースとの兼ね合いで四月開催になっちゃった、ってだけ。たしか一九五〇年代の頭の方からだったかな」
「じゃあ、四月開催のほうがずっと長いんじゃん。もう『卯月賞』とかにしたほうがいいんじゃないの」
青年は苦笑する。
「卯月賞、って名前はもう卯月ステークスってレースが別にあるから難しいんじゃないかなあ。それに、僕は三歳牡馬最初の一戦目の名前が皐月賞っていうのは相応しいと思ってるよ」
「ふむふむ、その心はなんだい?」
女はそうおどけた後、手元のプラカップのストローを口に咥える。
「じつは昔ネットで調べたことがあるんだけど、『さつき』って言葉の由来は『早苗月』だって言う説があってね。早苗って、田植えに植えるタイミングの稲の苗のことを言うんだけど、僕、婆ちゃんの家が農家で小さい頃は手伝ってたからよく覚えてるんだ。
広い田圃に植えられたばかりの苗って、すかすかでちゃんと植えてあるのか不安になっちゃうくらいなんだけど、秋には黄金色の稲が溢れるくらいに田圃を埋め尽くすんだよ。それが凄く綺麗でさ」
そこまで夢中で語ると、ハッとして女の方を見て、分かりやすく取り乱し、とりとめなく散らばりかけた話をまとめだした。
「いや、なにが言いたいかっていうと、彼らもまだ早苗みたいだな、ってこと。まだ青くて小さいけど、これから僕たちの思いも寄らないくらいに大きく実るかもしれない可能性の塊。それってワクワクしない?
ここには三冠馬もいるかもしれないし、海外で勝ったり、G1を何勝もする馬がいるかもしれない。
だから僕は皐月賞って名前はぴったりだと思う」
「三月とか六月にやっても?」
女は少し意地悪く訊き、実に楽しそうに笑う。男は困ったように眉根を寄せて頭を掻いた。
――さつき、ってのはどうかな。
ふと、昔の記憶が勢いよく蘇る。あれはまだ青が生まれる前、私のお腹の中にいた頃の話だ。たしか散歩で立ち寄った大きな池のある公園でのことだった。
「さつき、ってのはどうかな」
「なにが?」
大洋が鼻白む。
「なにが、って生まれてくる子供の名前だよ。皐月賞からとって『さつき』。どう?」
そう得意気に鼻を鳴らした。私は眉を顰める。
「なんで皐月賞からとるのよ。四月や五月に生まれてくるわけじゃあるまいし」
「だって俺が初めて勝ったG1なんだぜ、皐月賞。俺たちの初めての子供だしさ。いいだろ、『さつき』。可愛いじゃん」
「冬生まれの予定なのに『さつき』はちょっとねえ」
「……んー、じゃあ、『めい』ってのはどう? これも可愛い」
「……一応理由訊いておきましょうか」
「『さつき』って英語で『May』って言うから――」
「却下」
なんでだよ、と口をとがらせた大洋を見て思わず吹き出す。大洋もそれにつられて破顔した。
青が生まれる直前まで「さつき」が名前の候補に残っていたことが芋蔓式に思い出される。今振り返っても余程気に入っていたようだ。だが、最後に「青」という名前をあの子につけたのもまた大洋だった。
人混みに揉まれスタンドに辿り着くと、カップルから別れ、コースからできるだけ離れた席に腰を下ろす。スタート地点はスタンド側だが、ここからだと豆粒ほどにしか見えない。だが、これくらいの距離がちょうどいい。
雄大なファンファーレが鳴り、人々の声で中山競馬場が揺れる。
少しの間目を閉じ、膝の上で重ねた両の手を握った。心で祈る言葉は、勝ってきて、でも、頑張って、でもない。無事にゴールして、ただそれだけだ。
ゆっくりと目を開ける。
ゲートが開いた。
次回は5月6日(火)更新予定です。




