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皐月賞来たる

 週の半ばから重く垂れ込めた暗い雲は、その重みに耐えきれず大地に止め処ない雨となって降り注いだ。先週まで満開の花を湛えていた桜にその面影はない。つい先日の桜花賞が遠い日の夢のようだ。

 そんな降り止まないかと思われた季節外れの長雨は昨夜ようやく止み、今朝は雲間からいつぶりかの日が差した。

 ほっと胸を撫でおろす。

 せっかくの晴れ舞台、どうせならその言葉の通り晴れのなかで迎えてほしいのが親心というものだろう。決して親バカというわけではない。

 今日の天気の予報は昨夜から変わらない。今日は一日を通して曇りではあるが幸い雨は降らなそうだ。とは言っても、念の為に鞄には折り畳み傘と合羽を忍ばせておこう。

 競馬場に足を運ぶのはいつぶりだろうか。青のレースはテレビやラジオで見たり聴いたりするばかりで実際に競馬場で行ってはいない。しかし、これほど大きな舞台で戦うことになる娘のことを見に行かないなんて何事だ、とそろそろ天国にいるであろう彼が怒り出しかねない。それに、こういうきっかけでもなければ私は二度と競馬場に立ち入ることができないような気がした。

 ――中山競馬場か。

 神様という奴がいるのだとしたら、よほど意地が悪い顔をしているに違いない。気付くと手が震えていた。大きく深呼吸をする。

 大丈夫。絶対に青は大丈夫だ。

 目を閉じ、そう何度も頭のなかで強く念じる。

 しばらくして目を開けると、テーブルの上の写真立て、そこに映る大洋が私に微笑みかけていた。不思議と手の震えがぴたりと止まった。

 写真立てを持ち上げ、手元に引き寄せる。それを鞄の半分まで入れ、考え直して元の位置に戻した。ウォルナットで縁取られた写真立てがことりと音を立てる。

 苦笑いが出る。

 これは流石に感傷に浸りすぎだ。せっかく雨が上がったというのに私が湿っぽくなってどうする。

「あなたは空から見守ってちょうだい」

 ついでにこの鬱陶しい雲もどっかにやっちゃってよ。

 腕時計に目を落とす。まだレースまでは時間があった。しかし、このまま家にいても気ばかり張っていけない。

 足に馴染んだ白いレインブーツを履き、まだ水溜りが点在する街へと繰り出した。


『さあ、最後のコーナー回って短い直線に入ります! 先頭、駆けてきたのは――』 

 足下の芝を駆ける音に、微かにパシャパシャと水気が混じる。

 第二レース現在、馬場状態は芝、ダートともに「重」。だが、このままいけば、皐月賞が行われる第十一レースまでには、ほぼ「良」に近い「稍重」にまで回復するのではないだろうか。

 競馬場の馬場は、ただ闇雲に地面へと芝を植えているわけではない。

 表層の芝の下の路盤は上層と下層で分けられ、そこには下に行くにつれ目の粗くなるように排水性の高い土や砂利が敷き詰められている。加えて、各所に排水のための暗渠管を仕込まれているのだから、その排水能力はそこらの地面と比べるまでもない。

 こういった工夫には、すべての馬にとってより良い条件でレースが開催されるようにという主催者側の並々ならぬ努力が窺える。しかしながら、そんな技術の粋が用いられていても、今日のうちにパンパンの良馬場にまでは回復しないことだろう。

 クラッシュオンユーはダートを二戦走った経験があり、そこで勝ち負けのレースがあったことからも恐らく馬場が重い事自体は苦にしない。それよりも、緩くなっている馬場から泥や芝が跳ね、クラッシュオンユーが機嫌を損ねることが一番の懸念材料だった。

 JRAの主催レースは全国十の競馬場で行われ、うち東京、中山、京都、阪神の四つが大規模レースを開催する俗に主要四場と呼ばれている。

 しかし、それらのレース場すべてを毎週毎週使うわけではない。芝を休ませ、コースや施設の設備を整備する関係もあり、主要四場を核として各競馬場を基本的に週末の四週八日を一開催として東西満遍なくローテーションさせていく。

 たとえば今日を例に挙げると、阪神競馬場が第二回開催八日目、福島競馬場が第一回開催四日目、そして中山競馬場が第三回開催八日目といった具合である。

 来週は福島競馬場の開催はそのままに、阪神、中山から東京、京都へと開催地は移ることになる。

 そう、つまり今日の皐月賞はこの第三回開催の最終日に執り行われるのだ。

 何百という馬が走ったことにより芝は所々禿げ上がり、週半ばから降り続いた雨が地面をぐずぐずにしている。いくら天下のJRA馬場造園課といえど限界があり、特にコースの内側は酷い有様だ。他の騎手もそれは承知で、コースの内ラチから大きくスペースを空けて大回りに走っている。

『一着スキッパーズシガー!

 前が総崩れ、後方から脚を伸ばしたスキッパーズシガーが初勝利を飾りました! 二着――』

 どう走るべきだろうか。

 レースが終わり、騎手控え室までの道中に考えを巡らせる。

 前走のスプリングステークスでの逃げの走りは間違いなくクラッシュオンユーの走りの幅を広げたし、少なからず他の陣営も私たちがどう打って出るのかを逡巡しているはずだ。だが、前走はあくまで皐月賞へと出るために三着以内を狙った、謂わば権利取りのための走り。クラッシュオンユーの真価は追い込みの時の末脚であることには変わりない。

 そういった点で、スプリングステークスとは異なり、ここでは勝ちにこだわった競馬をできるのは大きかった。

 意外に思うかもしれないが、皐月賞に出走するのは勝ちを狙う馬ばかりではない。

 皐月賞では五着に入った馬まで日本ダービーへの優先出走権が与えられる。言葉に出さないだけで、三歳牡馬、いやすべてのホースマンにとっての一大目標であるダービーへと出るために五着狙いの陣営がいくつかあるのだ。

 幸い、クラッシュオンユーはスプリングステークスの一着でダービーへの収得賞金は足りており、仮に今回のレースで最下位に沈んだとしてもダービーには出走できる。

 なにも迷うことはない。今日のレースですべきことは勝つための走りだ。

 だから「追い込み」でいく。

 皐月賞の出走馬が出揃ってから、レース展開で考えられるパターンを何十パターンと洗い出してきた。時に咲島先生や厩舎のみんなと、時にひとり、部屋のなかで。

 しかし、課題は山積みだ。

 まず、追い込みを選択するなら、最後のコーナーから直線にかけて、雨で荒れた馬場の外を回る馬群のさらに外を走らなければいけない。ただでさえ瞬発力の削がれる馬場でその展開に持ち込まなければならないのは、クラッシュオンユーといえど苦しくなる。追い込み策はクラッシュオンユーには最適の作戦だが、レースにおいては決して最適な策ではない。

 だが、何処かにあるはずだ。

 クラッシュオンユーが勝つための道が。

 考えろ。

 正解の道は、必ずある。


 午後に入り、皐月賞の発走まで四時間を切った。

 中山競馬場はすでに多くの観客が詰めかけている。

 子供を肩車して馬場を眺める親子、初々しく手を繋いでパドックの方へと向かうカップル、競馬新聞を片手に馬券を買うために券売機へと並ぶ男たち、手元のスマートフォンに目を落とし喧々諤々とネット馬券を買い求める若者グループ。

 競馬場ではいろんな人生が交錯する。

「うわっ、やっぱりアレクサンダーすごい人気ですよ」

 取材の合間の休憩時間。

 食事を終えてひと息ついていると、向かいに座る末崎がスマートフォンをこちらに向けてきた。そこには皐月賞に出走する馬が人気順にずらりと並んでいる。競走馬毎に簡易的に馬名、騎手、オッズが左から列挙されていた。

 上位の馬はこんな具合だ。

 

1番人気 アレクサンダー/由比      1.4

2番人気 クラッシュオンユー/日鷹   11.7

3番人気 ピクチャレスク/ルピ     12.5

4番人気 アマクニ/那須        14.8

5番人気 セイホーランデブー/小豆畑  23.1

6番人気 トルメンタデオロ/成海    38.0

7番人気 アフィラドール/一星(陸)  41.4

8番人気 バショウセン/猿江      47.3


「一・四倍ですよ。一・四倍」

 興奮気味に末崎は話す。

 皐月賞で単勝式馬券のオッズが一倍台になるのは父であるイスカンダル以来のことだ。

「一・四倍って、馬券を百円分買ったら百四十円返ってくるってことですよね」

「ああ。単勝支持率でいえばざっと六十パーセントくらいか。売り出された単勝式馬券のうち六割がアレクサンダー、残りの四割を他の十七頭の馬で分け合ってることになるな。

 グレード制導入以降、皐月賞で単勝一・五倍以下の支持を得た馬は何頭かいたが、すべて『負けなし』。それほどに人々が強さを認めてる馬だってことだ」

 ここまで走ってきた新馬戦、朝日杯フューチュリティステークス、共同通信杯、三戦すべてで圧倒的な走りで他の馬を圧倒してきた。それに父親であるイスカンダルに瓜二つの容姿とくれば無敗の三冠馬となった彼の姿を重ねずにはいられないだろう。

 顔に走った特徴的な稲妻形の流星もまた、独特な威圧感をアレクサンダーに纏わせていた。

「あっ、でもアレクサンダーばっかり目が行きがちですけど、クラッシュオンユーも二番人気ですよ。まだ二年目の騎手が一番人気と二番人気で並ぶなんて凄くないですか? しかも、下級条件のレースじゃなくて皐月賞で」

 そこまで早口で捲し立てて、末崎は首を傾げた。

「……でも、ピクチャレスクは去年ホープフルステークスを勝ったG1馬、アマクニはシンザン記念、弥生賞で重賞二連勝中なのに、なんでクラッシュオンユーより人気ないんですかね。

 鞍上だってルピさんと那須さんですよ」

 末崎の意見も一理ある。

 だが、ルピと那須の乗る馬が存外人気しないのはそれぞれ明確に懸念点があるからだ。

「たしかにピクチャレスクは昨年の二歳G1・ホープフルステークスの勝ち馬だし、アレクサンダーと並んで牡馬の二歳王者。四王天ファームの三歳牡馬筆頭だ。だが、陣営に思惑はあれ、そのホープフルステークスから今回のレースまでの約四ヶ月間一走もしていない。まあ、今時このくらいの間隔を空ける馬なんて珍しくもないがな。

 ここでの一番の懸念点は、ホープフルステークスで負かした馬たちも軒並み低調で、このレースに出てきた馬がピクチャレスクを含めて僅かに二頭のみってところだろう。その実力には疑問符がつく」

 なるほど、と末崎は頻りに頷く。

「アマクニは年明けのシンザン記念ではクラッシュオンユーを下し、皐月賞と同じ条件で行われる弥生賞を勝ち重賞二連勝中。それだけ聞けばアレクサンダーを倒す最右翼と言っても憚られないかもしれない。

 だが、シンザン記念のクラッシュオンユーは力を出し切れたとは言えない走りだったし、肝心の弥生賞は期待に反してアタマ差の決着だった。

 そもそも二歳の時に中距離で勝てなくて、三歳ではマイルに使おうとしていたと昔取材のときに菊原調教師も零してたからな。やはり二千メートルは距離が合ってないのではという見方が増えても不思議じゃない。今日は雨で水も吸って馬場が重いしな」

「成程、それでクラッシュオンユーが二番人気に押し出されているってことですね」

「ああ、だからクラッシュオンユーが二番手だからといって、その馬たちから力がひとつ抜けているとは言えない。

 たしかに、クラッシュオンユーはこのなかで唯一ダートの出走経験があり、道悪でも走るのではないか、という判断材料がある。これはほかの芝や良馬場しか走ったことない馬たちに比べて最低限の裏付けになるっていうのはそのとおりだ。

 まあ、それがなくとも前走の勝ち方には驚いたがな。抜かれたかと思ったところを再び加速して抜き返したのはインパクトがあった。

 あとは騎手人気だろう。お前がさっき言ったルピや那須が鞍上だから、ってのと同じで日鷹にも人気する要因がある。まだ二年目の女性騎手で、父親が夭逝した天才騎手・鳶島大洋とくればミーハーも玄人もついつい応援馬券に手が出ちまうってもんだ」

「ふーん……。じゃあ、オッズに僅かに差はあれ、その三頭は横並びってところですかね。でも、それなら他にもトルメンタデオロとかもっと人気しても良さそうですけどね。スプリングステークスでもクラッシュオンユーに惜敗だったし。鞍上も今関東リーディングトップの成海さんでしょう」

 末崎は手元のスマートフォンに映し出される出馬表を眉間に皺を寄せながら睨む。

「いや、トルメンタデオロは妥当じゃないか。

 去年のダービー馬の全弟だが、これまで強いと思わせてくれるレースはなかった。お前が言った前走のスプリングステークスだってどちらかといえば成海のレース運びに助けられてたし、結局のところ、あそこで勝ち切れないのがこの馬の実力を物語ってる」

「辛口だなあ。僕はトルメンタデオロ好きですよ」

「だったら買えばいいだろ。俺は俺の意見を言っただけだ」

 腕時計に目を落とす。少し長く喋りすぎてしまった。

「ほら、休憩終わりだ。行くぞ」

「え? ちょ、ちょっと待ってくださいよ」

 末崎が荷物を慌てて纏める。

 それを横目にふと遠くの空を見ると、競馬場の盛り上がりに反して薄っすらと暗い雲が立ち込めていた。



次回は4月29日(火)更新予定です。

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