最終追い切り
目覚めるといつの間にかベッドで横になっていた。
部屋の電気は点いたまま。寮に着いたあと着の身着のまま寝てしまったらしい。
枕元の携帯が短く二回振動する。
明るくなった画面に表示されている時刻は深夜零時を回っていた。
着信が大量に来ている。
そのほとんどは勇だった。途中で電話は諦めたのかメッセージがいくつか入っている。流し読みしただけでも、読んでいるこちらが恥ずかしくなるような言葉が羅列されていた。
まあ、勇らしいといえばらしい。そんなことを思いながら、ありがとう、と短く返事を返す。
「ん?」
着信履歴を確認していると、勇と母に交じって意外な名前があった。父だ。父から連絡が来ている。着信時間は三十分ほど前だ。
「……」
考えるより先に折り返しのボタンを押していた。
なぜ押したのだろう。自分でも不思議だった。……五回だ。五回コールして出なかったら切ろう。
――三回。
――四回。
――五回。
『はい。もしもし』
五回目のコールが切れかけるところで父が出た。
「あっ……出た」
『出た、って……人を幽霊みたいに。かけてきたのはお前だろ』
「お父さんが電話してこなかったら私からかけることはなかったわ」
『寂しいことを言うなよ』
父の言葉にむっとして返したが、レースが終わったからだろうか、いつもより父の声が柔らかい。
その時、電話口から少し離れたところで弾けるような笑い声がした。
「……もしかして飲んでるの?」
『ああ、バレたか。祝勝会だよ。桜花賞のな』
桜花賞という言葉が胸にチクリと刺さった。父が酒を飲む姿を見たことはないが、いつもより少し調子が外れ、呂律が怪しいことからみても強くはないのだろう。
「勇もいるの?」
『あいつは大学があると言って先に帰った。別に講義の一回や二回サボってもいいだろうに』
「ふーん……真面目だこと」
成程、勇の電話が途中からメールに変わったのは新幹線に乗ったからか、と一人腹落ちする。
「それで? なんで電話かけてきたの?」
『ん。あー……』
父は煮え切らない返事をする。その様子が勇と重なった。もごもごと一言二言話すと、意を決したように切り出す。
『まあ、なんだ。今日のレース、がんばったな』
予想にもしてない言葉だった。それは紛れもなく騎手ではなく、娘としての私に対してかけられた言葉だ。嬉しくないと言えば嘘になる。だが、同時に心に薄く靄がかかった。
「それって、私のこと騎手としては見てないってこと? 無様に負けた騎手にかける言葉じゃないと思うけど」
『おいおい、ひねくれたことを言うのはやめてくれよ。今は桜花賞も終わってノーゲームじゃないか。娘に労いの言葉をかけてもいいだろう?』
「勇に言われたの? 私のことちゃんと褒めてやれ、って」
電話口の向こうで沈黙が流れる。どうやら図星のようだ。これみよがしに大きくため息をついた。
「やっぱり」
『……勇に言われなくてもこれは私の本心だ』
「じゃあ、間髪入れずにそう言って欲しかったわ。まあ、別に私はお父さんたちに褒めてもらうためにやってるわけじゃないからいいけど」
暫し沈黙が流れる。父が再び口を開いた。
『……愛が騎手になったこと、私はまだ良かったとは思ってない』
「……いまその話する?」
父はこちらの話が聞こえないかのように話を続ける。
『馬に関わる仕事に就いてくれることは嬉しい。だが騎手だけは別だ。四王天の名前を背負ってレースに出る限り、きっとその騎手人生は辛く苦しいものになる。親はいつだって子供の幸せを望むものだからな』
「たしかに、お父さんの言ってることは間違ってないと思う。でも心配しないで。そんなこと全部吹き飛ばしてやるくらい、私は強くなる。たとえ、どんなにきつくて辛いことがあっても、私は騎手を辞めない」
もう逃げないし、もう涙は見せない。
「今みたいにお情けじゃなくて、本気で四王天ファームの馬に乗せたいって思わせてあげる」
少しの沈黙のあと、父がふっと小さく息を吐く。
「……そうか」
父はそれ以上何も言わなかった。
「――それにしても、こんな時間まで祝勝会なんて、ずいぶん余裕なのね。皐月賞が来週だっていうのに。四王天ファームにとって桜花賞より厳しい戦いになるはずでしょ。
ライバルにはアレクサンダーがいて、アマクニがいて、そしてクラッシュオンユーもいる。四王天ファームから出るピクチャレスクは弱くはないけどその馬たちに勝てるかと言えば厳しいはずよ」
『……そうだな。難しく厳しい戦いになる。だが、こういうレースもまた血が滾るよ』
意外にも父はそう言った。桜花賞の時のひりひりとした空気が翳を潜めている。これもお酒の影響だろうか。
「そう。私は外から見させてもらうわ。
――でも、あの二人は私みたいに甘くないから、覚悟しといたほうがいいわよ」
壁がそり立つように延々と坂が続く。
朝の冷たい風が体を包む。聞こえるのは地面を規則的に蹴り上げる音と荒々しい息遣いだけだ。
栗東の長い坂路を登り切ると、ゆっくりと速度を落としていく。
皐月賞に向けた坂路での最終追い切りを終えた。
調教自体の出来は最高ではないが、最悪でもない。だが、それは特に気にすることでもないだろう。
クラッシュオンユーは元々調教駆けする馬ではない。
調教の出来のとおりに走る馬もいれば、レースだけやる気を出すトラックマン泣かせの馬もいる。クラッシュオンユーはどちらかといえば後者であり、突き詰めれば調教はあくまで調教でしかない。調教ではクラッシュオンユーがリズム良く走れているのが分かればいい、これは私だけでなく咲島厩舎全体の共通認識だった。これはレースで爆発的な末脚を披露するためのストレッチでありウォーミングアップなのだ。
坂路から調教トラックのほうへ戻ると、なにやら人集りができていた。水曜の今日、コースでは週末のレースに向け多くの馬が最終追い切りを行っている。
お目当ては当然、今週日曜に控えた皐月賞に出走する三歳の牡馬たちである。目下重賞二連勝中の那須さんが騎乗するアマクニ、そしてスプリングステークスを勝ったクラッシュオンユーにもその熱い視線は注がれた。
だが、彼らの本命はクラッシュオンユーでもアマクニでもない。
「おい、来たぞ!」
報道陣の塊がざわつく。
その視線の先にはアレクサンダーと由比がいた。
アレクサンダーの最終追い切りは、ウッドチップコースでの僚馬との併せ馬だ。
僚馬が先行する形で走り、アレクサンダーがそれを追走する。
アレクサンダーの悠然たる走りは一見まったく力感がないが、騎手が強く追うこともなく悠々と僚馬を追い越し、先着した。一週前、二週前と強く追っていることもあり今日は馬なりの追い切りだが、アレクサンダーの強さを再確認するには申し分のないものだ。
「一緒に走った馬、ペーパームーンじゃないか?」
「え? ペーパームーンって、この前G3勝った馬だろ?」
「比べてやるなよ。アレクサンダーとは可哀想だが格が違う」
記者たちから驚嘆が湧き出たかと思えば、憐れむような冷笑が漏れる。すでにアレクサンダーの強さを疑うものはおらず、勝つかどうかではなく、どういう勝ち方をするのかに人々は注目していた。
由比がアレクサンダーを調教助手に預けこちらに近づいてくる。
調教トラックから出るには私たちがいる調教スタンドのほうへと進まなければいけない。必然、報道陣の待ち構える場所を通ることになる。
我先にと記者やカメラマンが由比へと駆け寄っていた。由比はあっという間に包囲され、矢継ぎ早に質問が浴びせられる。
人気者は大変だな、とぼんやり遠巻きに見ていると不意に由比と視線が交錯する。
ひょろりとした記者の男がそれに気づき、こちらを振り返る。記者は由比と私を交互に見て、いいことを思いついたとばかりに口角を上げ、その記者は声を張り上げた。
「日鷹騎手! こっち来てくださいよ! ぜひ由比騎手と一緒にインタビューお願いします!」
たくさんの目がこちらに一斉に向けられる。群がっていた記者たちは一様にその記者の提案に賛同し、私は押し出されるように由比の隣へ並ぶことになった。
「今回のレース、アレクサンダーはもちろんですがクラッシュオンユーもダークホースとして注目されていますが今の心境は?」
「やっぱり同期対決は意識されてるんですが?」
「この前の桜花賞の四王天騎手について一言お願いします」
間髪入れずに質問が襲い掛かる。
記者の目には好奇の色がありありと浮かぶ。同期の若手騎手、しかもどちらも有力馬に乗っているとあれば私と由比は彼らにとって格好のネタだ。
ひとつ質問に答えると、新しく十の質問が飛んできて、その熱気は徐々に狂気へと移り変わっていった。人垣に押しつぶされそうな錯覚が襲う。
堪りかねた由比が体を私と報道陣の間に差し入れたその時、
「痛あっ! なにするんですか!」
突然の頓狂な声に全員の視線がそちらに注がれる。
――今だ!
由比の腕をむんずと掴み、人混みを抜け出す。こちらに気付いた記者たちがなにやら声を上げているが、そんなものには見向きもせずに私たちはただ走った。
「ちょっと先輩。なんなんすか急につねらないでくださいよ」
末崎が泣きそうな顔で自らの腕を撫でる。
「たまにはお前のでけえ声も役に立つもんだな」
「はあ?」
末崎は眉間に皺を寄せ、渋い顔をする。
「なんなんだよ、もう」
「せっかくチャンスだったのに」
ぶつぶつと不満が漏れる。
ふと視線を感じてそちらを見ると、ナナフシみたいな奴がなにやらこっちを恨めしそうに睨みつけていた。ここでは見たことない顔だ。こんな時にしか取材に来ない癖にでかい顔しやがって。大舞台を控えた若手騎手に水を差すようなことするんじゃねえよ。
視界の隅で日鷹と由比が走り去るのが見えた。
「日鷹、ちょっとストップ。もう巻いたよ、たぶん」
由比の言葉に足を止める。
振り返ると、たしかに記者らしき人影は見えなかった。安堵とともに急に呼吸が苦しくなる。心臓がバクバクと脈を打っているのに気付いた。
「ありがとう。なんだか日鷹にはいつも助けられてばかりだね」
「……え? うん」
息を整えながら曖昧に返事をする。応えながら、由比の腕を掴んだままだったことに気付いた。さりげなくそこから手を離す。
「なにしてるんだ、一駿。……ん? 日鷹くんもいるのか?」
横を見ると困惑した顔で由比調教師が立っていた。トレセンのど真ん中で息を切らした二人組がいたらそんな顔もするだろう。
改めて辺りを見ると、丁度由比厩舎のところまで逃げてきていたらしい。
「ちょっとトラックの方で記者に囲まれちゃったから逃げてきたんだ」
「……ああ。この時期は普段トレセンに来ない礼儀のなっていない記者連中も多いからな」
由比の言葉に由比先生が片方の眉を吊り上げ、顎を撫でた。
「それなら落ち着くまでうちで休んでいくといい。私が外の様子を見といてあげるよ」
こちらの返答を待たずに、厩舎のロッカー兼ミーティングルームへと通された。ここまでされて無下に断るわけにもいかない。
「適当に座って。お茶でいい?」
由比が部屋の隅に備えられた給湯スペースで慣れた手つきで茶葉の入った筒を取り出した。
「あっ、いいよ、そんな気を使わなくて」
「僕も飲みたかったから」
そう言って、由比は急須に茶葉を入れ、ポットの頭を押した。コポコポとお湯が注がれていく。
手持ち無沙汰になり、辺りを見回す。背もたれに寄り掛かると、パイプ椅子は小さく軋んだ。
堆く積まれた紙の束、写真、賞状、色褪せたファイル。そのどれもがこの由比厩舎の長い歴史を物語るものだ。この場所で今は亡き三冠馬イスカンダルや名だたる名馬たちが育ってきた。そして、今ここにはアレクサンダーがいる。
そう思うと、皐月賞を前にしてこれをじろじろと見るのは、相手の手の内を覗き見するようで少し気後れした。
「はい」
由比にお茶が入った白いカップを差し出される。小さく頭を下げてそれを両手で受け取ると、由比は少し離れた斜向かいのパイプ椅子に座った。
「ごめんね。巻き込んじゃって」
「いや、由比は悪くないし。悪いのはあの記者たちだから」
そうだ、由比が謝る必要はない。それにあんな形で巻き込まれなくても、あんまり取材がしつこいようだったら多分私は文句の一つや二つ言いに割り込んでいただろう。
沈黙が流れる。気まずくはなく、心地よくすらあった。
お茶を一口啜る。静かに揺れる水面に視線を落とした。
「……負けたくないなあ。皐月賞」
ぽつりと言葉が漏れる。
桜花賞のレース終わり、泣きじゃくる愛の顔が浮かんだ。
ひとつ言葉が漏れると、二つ三つと言葉が次々と口から零れ落ちていく。
「那須さんにも、ルピさんにも、成海さんにも、猿江先輩にも、……誰にも負けたくない。でも一番負けたくないのはあなたよ」
手元のカップから視線を上げ、由比の方を見る。由比は静かにこちらを見ていた。
「私、ここで由比と戦えて嬉しい。
これまでもレースで一緒に走ったことはあるし、YJSでも競い合った。でもやっと、この最高の舞台で、お互い最高の馬に乗って戦うことができる」
「僕も嬉しいよ。この機会を待ってた」
由比の澄んだ瞳がこちらをまっすぐ捉える。
図らずも見つめ合う形になり、どうにも気恥ずかしくなったので視線を外した。後頭部を掻く。
「これ、さっき記者に囲まれたときに言ってればもっとカッコついたかもね。今から取材受けてこようかなあ、なんて」
そうおどけて笑った。
由比は表情を変えずに私の方をじっと見たままだ。ゆっくりと口を開く。
「いいよ。僕たちがわかってれば、それでいい」
その言葉に胸が高鳴る。さっき走ったときのあれとはまた違う。
私は彼のその透き通るような瞳にしっかりライバルとして映っているのだ。
「そうだね。その通りだ」
カップの水面に映る顔が静かに揺らいだ。
次回は4月22日(火)更新予定です。




