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あがきを疾み(あがきをはやみ)  作者: 理猿
第四章 春、躍るクラシック
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桜のような人

 桜を抜けるとそこはさながらお祭りだった。

 天を震わすほどの叫び、地を揺らすほどの怒号。悲喜こもごもの感情が塊となって覆いかぶさってくる。

 ああ、やはり春を告げる祝祭には、有り余るほどの歓喜と喝采、――そう、狂躁が必要だ。

 しかし、人間はなんと恐ろしい生き物だろうか。

 この声はどれだけの騎手を救い、どれだけの騎手を地獄の底に叩き落としてきたのだろう。

 ああ、日本に来てよかった。

 ここまでの声援は欧州、ましてやイタリアにいた頃には味わうことができなかった。いつまでもここで溺れていたい。

 だが、それももうすぐ終わる。

 哀しくはない。

 夢は醒め、人は死に、春は去るように、この世のすべてのものは終わりがあるからこそ美しく愛おしいのだから。

 ――さあ、そろそろ行こう。


『四コーナー回って、最後の直線! 先頭を走っていたスティレットはここで失速! 二番手トリアムールを躱して、上がってきたのはワンセッション!』

 完璧な追い出しだ。

 ワンセッションが、スティレットの後退で僅かに乱れた馬群を尻目に加速する。

 残り四百メートル。

 ワンセッションを追随してスコーピオングラスがするすると馬群を縫って上がってきた。ゴールへと近付くごとに二頭が馬群から千切れていく。ワンセッションとスコーピオングラスの一騎打ち。

 普通のレースであればそうだ。

 しかし、この競馬場にいる誰一人としてその決着を思い描いてはいない。

 先頭の二頭から後方に視線を移す。

「……来た」

 隣の末崎が息を呑む。

 三本目の矢が、先頭をめがけて飛来した。

『外から上がってきたのはパリスグリーン! 凄い脚! あっという間に先頭と差を縮めます!』

 後方からパリスグリーンが滑らかに加速する。まるでパリスグリーンの周りの時が止まったかのような錯覚に陥った。栗毛の馬体が春の日差しを受け、光沢を帯びて輝く。

 観衆の目がその一点に吸い寄せられる。

 瞬間、誰が女王たるかを人々は悟った。三本の矢などと括るのがどれだけ不敬であり、どれだけ愚鈍であるか。このレースで彼女に並び立つ者など、はじめからいなかったのだ。

 ゴールラインを割る前に勝者は決した。

「……こりゃあ、強いな」

『一着、パリスグリーン! これは強い!

 桜色の阪神を鮮やかに塗り替えました! 二着ワンセッション! 三着スコーピオングラス!』

 ルピは馬上で手を掲げたあと、歓声を一心に受け止めるように大きく両手を広げた。獣のような叫声が阪神競馬場を揺らす。

「憎たらしいくらい絵になる男だな」

 パリスグリーンが強いのはもちろんだが、ルピの騎乗も完璧だった。馬群後方、あの難しい密集地帯を見事に捌いて外に出し、一馬身差で差し切った。

 那須を魔術師と呼ぶ者がいるが、それに倣えばルピはお姫様を輝かしい舞踏会へと導く王子様といったところか。

 ルピには強い馬を勝たせる流儀がある。

 強い馬を勝たせるというのは、簡単そうに見えてそうではない。弱い馬を勝たせるのとはまた違った難しさがあるものだ。

 こんな話を聞いたことがあるだろうか。

 アメリカにおいて親が一番就いて欲しくない仕事の話だ。

 世の中、必要だろうがなんだろうが敬遠されたり、嫌われる仕事は多い。たとえば俺たちみたいな記者を蛇蝎のごとく嫌う連中は少なくない。――なに? 雑誌記者が必要かって? ほら、こういう連中のことだ。

 ――そんなことはさておき、ブルシット・ジョブなんてものがこの世にたくさんあるなかで最も就かせたくない仕事。

 さて、それはどんな仕事だろうか。

 暇さえあればドーナツを咥えている腹の出た警察官? ポテトの揚がる電子音を延々と聞かされるファストフードの店員? たいして美味くもない冷めきった料理を運ぶ配達員?

 いい線いっているが、残念ながらどれも違う。

 答えは「アメリカンフットボールのキッカー」だ。

 日本では馴染みが薄いが、北米四大スポーツのなかでもアメリカンフットボールが群を抜いて人気のスポーツであることは疑う余地もない。

 そのなかのポジションのひとつであるキッカーは、縦百二十ヤードのフィールドの両端に設けられたY字型のゴールポストにボールを蹴り入れて点を取る仕事である(ほかにも得点後のプレー再開時にボールを蹴ることも大きな仕事なのだが、ここでは関係ないので割愛しよう)。アメフトはコンタクトスポーツだが、キッカーはほかの選手と身体的に強く接触することもなく、試合には多くても十数プレー、試合によっては片手で数えるほどしかプレーをしない。それなのに大金を稼ぐことができる、まさに夢のような仕事だ。

 皆諸手を挙げ、こぞって殺到しそうなものである。しかし、そうではない。

 なぜか。

 それは、キッカーが「成功して当たり前の仕事」であるからにほかならない。

 米国のプロリーグであるNFLにおいてリーグ全体の得点に絡むキック、いわゆるフィールドゴールトライにおいての成功率はおよそ八十パーセント弱。十八・五フィートの幅を通すフィールドゴールの成功率は、当然ゴールポストとの距離が近くなるにつれて高くなる。

 そして、極めつけはタッチダウン後に設けられるポイント・アフター・タッチダウン(PAT)の場面だ。

 PATはタッチダウン後のいわばご褒美であり、これに成功すれば一点が加算される。この時ボールの置かれる位置がゴールポストまで二十ヤードほどの距離ということもあり、その成功率はなんと「九十九パーセント」を誇るのだ。

 通常のキックでの得点は三点、エクストラポイントでの得点は一点と、タッチダウンの点数である六点に比べれば小さいが、当たり前に決まるからこそ、その一点の失敗は致命傷になる。

 たとえ百回に九十九回ゴールを決めても、ただの一度ゴールを外せば観客席から落胆の溜息が漏れる。もし、それが優勝を決する大一番なんてことであれば、満員の観衆から口に出すのも憚られる罵詈雑言を雨霰と浴びることだろう。試合後のロッカールームでは「You're Fired」と書かれた張り紙だけが、「やあ、待っていたよ」と彼を出迎えてくれるに違いない。

 でも、それはしょうがないことだ。「当たり前」のことができないのだから。

 強い馬に乗るというのもこれに似ている。

 強い馬に乗って勝つのは当たり前。結果を出せなければ騎手のせい。

 そんな極限のプレッシャーのなかで勝つことができる物怖じしない精神力。一秒ごとに目まぐるしく変化するレースを読む冷静な観察力。繊細でありながらも勝負どころでは大胆な一手を打つ判断力。時にレース場の狂気をも味方につけるカリスマ性。

 そのすべてを備える男。

 それがジュリオ・ルピだ。

 肉体的なピークを超えた那須ではなく、ルピが現役ナンバーワンの騎手だという声も多い。その実力は四王天ファームが一番信頼を置いている騎手であるということからも折り紙付きだ。

 俺自身そのことについて大きな異論はない。一昔前が那須の時代であったように、今はルピの時代というだけである。

 ――あの事故がなければ、あの人の時代があったのかもしれないな。ふと、そんなことが頭に浮かぶ。

「……結局、三本の矢で決着しましたね」

 興奮も冷めたのか、少ししらけたような顔で末崎がつぶやく。大方馬券が外れたのだろう。それか上位三頭の組み合わせでは配当が低いのでトリガミにでもなったか。

「逆張りなんかするもんじゃねえな。やっぱり賭けるなら本命だ」

「焼肉、どうします?」

「は?」

「いやあ、先輩か僕のどっちかは勝つと思ったんですけどねえ」

 末崎はそう言って下唇を突き出して後頭部を掻く。

 お前は焼肉の心配をしていたのか。まったく呆れたやつだ。

「アホ、んな金ねえよ」

「ですよねえ……。楽しみにしてたんですけど」

 末崎がわかりやすく肩を落とす。

「……焼き鳥なら連れてってやるよ」

「本当ですか! ご馳走様です!」

「誰も奢るって言ってねえだろうが」

 調子良く抱きついて来た末崎の肩を小突いた。

 

 検量室前には多くの報道陣、関係者が待ち構え賑やかだった。その視線の多くは優勝を飾ったルピさんに注がれている。

 そのなかに私を捉える視線があった。

 あっ、と声が出る。記者会見の時にいたあの女性記者だ。その目には哀れみの色が浮かぶ。慌てて視線を逸らした。

 ――出走するからにはもちろん優勝を狙います。

 力なく乾いた笑いが出る。よくそんなことが言えたものだ。

 ……あの女記者がいるのということは、あの記者の男がいてもおかしくない。鼓動が速くなる。体を丸めて逃げるようにその場を離れた。

 すれ違う人がこちらを怪訝な顔で振り返る。数原厩舎の面々も目に入った。

 ――この子との、皆さんとの出会いは運命って呼びたい。

 ――このレース必ず逃げ切って、私がこのお姫様を女王の座までエスコートします。

 頭で言葉が渦を巻き反響する。

 なにが運命だ!

 そんな言葉に酔っていたからこんなレースをしてしまった。桜花賞で優勝する? この結果ではオークスにすらあの子を連れて行くことはできない。

 あんなに、あんなに一生懸命走ってくれたのに。

 景色が流れが早くなる。もう消えてしまいたかった。

 その時、なにかが私の腕を掴んだ。


「――青」

 愛の潤んだ瞳と目が合った。

 大きなレースの前に声を掛けるのは憚られたので、レース後に愛を待ち構えていたのだが、急に走り出したので慌てて掴んでしまった。

「……離してくれる?」

 愛はその険しい表情にそぐわない努めて明るい声でそう言った。しかし、掴んだ腕はまだ小さく震えている。

「……いや」

「……離して」

 愛はこちらをキッと睨み、語気が強くなる。

 こちらを振り払おうとした腕をもう一度引き寄せた。愛の眉間の縦皺はますます深くなる。

「なに? ひとりにしてよ。今は青と話す気分じゃない!」

「……やだ」

「はあ? 子供みたいなこと言わないでよ」

 愛は呆れたような声を出す。

 愛の反応は尤もだ。だが、私だって後先考えず咄嗟に掴んだだけなのだから少し待って欲しい。それに、ここで離してしまったらきっと後悔してしまう気がする。

 暫し睨みあう時間になった。

 どれくらい経っただろう。根負けした愛が目を伏せ、ひとつ息を吐いた。

「……わかったわよ。その前に、手、離してくれる? ちょっと痛い」

「えっ? あっ……ご、ごめん!」

 無意識のうちに力を入れすぎていた。慌てて手を離す。愛は無言で腕をさすりながらこちらが話し出すのを待っていた。

「……なんで逃げたの?」

「青には関係ない」

「……たしかに私には関係ないかもしれない。

 でも、愛が逃げたらスティレットはどうするの? たしかにレースの内容は不本意だったかもしれない。でも、そんなレースでもあの子は頑張って走った。その一番の理解者であるべきは愛じゃないの?

 ここで逃げちゃったら、スティレットはひとりになっちゃうよ」

 愛が下唇を噛んだ。その口から出る言葉は震える。

「あの子が頑張ったのは青に言われなくてもわかってる。あの子の背中で、呼吸を、鼓動を、体温を、一番近くで感じたのは私だもの。だから……、だから、あんな風に乗った私が許せない。

 あんな醜態晒して、どんな顔であの子に向き合えばいいのよ……!

 ……もう私にはあの子に乗る資格なんてない」

 涙交じりの声、愛の拳が小刻みに震える。

「そんなこと――」

「降りるのは、僕が許さないよ!」

 私が口を開いた瞬間、不意に背後から男の声が被せるように割って入る。そこに立っていたのは数原先生だった。走ってきたのだろう、両の手を膝につき、肩を大きく上下させて息が荒い。

「……数原先生? だ、大丈夫ですか……?」

 さしもの愛も目を大きく見開き、動揺を隠せない。

「やっと……、やっと見つけたんだ。スティレットが思いっきり走ることのできる騎手を。君は、スティレットにとって、僕たちにとって紛れもない“運命”の騎手だ」

 数原先生が「運命」という言葉を強調する。そしてその言葉が口をついた瞬間に愛の顔には影が差した。息も絶え絶えだが、数原先生は愛から目を見て話を続ける。

「僕は、運命って言葉が好きだ。

 僕が馬に出会ったのも、この仕事をしているのも、きっと運命だって信じてる。この仕事はきっと天職だ。――でも、それでも辛い時もある。苦しい時もある。当然だ。運命は決して辿り着く先じゃない。そこからが始まりなんだから。 

 運命をいいものになるか、悪いものになるか、それを決めるのは自分次第だ。

 そして、そのためには強さがいる。 

 強さといっても喧嘩が強いとか足が速いとかそういうものじゃない。いつ終わるかもわからない冬の厳しさに耐え、こちらを倒さんとばかりに吹く嵐に抗い、春が来るのを待つ桜ような、そんな芯のある凛とした強さだ。

 君はその強さを持っている」

「……そんなの、私にはありません。先生の買い被りです」

 愛は目を伏せ、力なく話す。数原先生は大きく首を横に振り、愛のところまで歩を進め近付くと、その両肩を強く掴んだ。

 愛が驚いて顔を上げる。 

「じゃあ、今日から強くなればいい!

 今日負けただけじゃないか。君にもスティレットにもまだこれからがある。

 あの蕾はもう咲かない、と下を向いてしまえば、蕾が綻ぶ瞬間を見ることはできない。花が笑いかけるのは、最後まで上を向いていた者にだけだ。

 だから、強くなろう。一緒に」

 数原先生はじっと愛を見据えた。愛の震える唇が小さく開く。

「…………先生、……私は本当に強くなれますか……?」

 その言葉の最後はほとんど聞き取れなかった。

 数原先生は力強く頷く。

 その瞬間、愛の目から大粒の涙が溢れた。それは頬を止め処なく流れ、顎を伝って地面を濡らす。

 愛は数原先生にしがみつき、子供のように泣いた。

 視界が滲む。

 私はそれを右手で拭った。

 私も強くならなきゃいけない。皐月賞は、もうすぐそこだ。

次回は4月15日(火)更新予定です。

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