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愛の逃避行

 ふわふわしている。

 夢見心地、と言えばいいのだろうか。子供の頃に思い描いた、雲に乗ってみたいという願いが叶ったのならこんな感じなのだろうか。さっきまで立っていた地面を取り上げられ、星明かりのない宇宙に放り出されたような。

 そんな初めての感覚だった。

 宙を漂う私の手を何者かが強く引く。

 傍から見れば王子様が迎えに来た囚われのお姫様にでも見えるだろうか。

 なんというか、存外ロマンチックな気分にはならないものだ。

『――ばらけたスタート! ああっと、スティレット出遅れました! 内から絶好のスタートを切ったのはワンセッション!』

 頭に音と映像が堰をきって流れ込む。

 はっとして顔を上げる。目の前には壁。ギャロップが地面を叩く音が何重にも重なり、津波のように押し寄せた。スタートを待っていたはずの発馬機は遥か後方だ。

 レースが、桜花賞が始まっている。

 ――いつ? いつ始まったの?

 心臓が早鐘を打つ。周りを走る馬の音と体から出る荒く浅い呼吸、拍動が頭にガンガン響いて五月蝿い。左手に見える桜並木がみるみるうちに流れていく。

 スタートに失敗した。

 手綱から伝わるスティレットの息遣いは荒い。このままここで控えても体力を消耗するだけだ。

 ――どうする、どうする、どうする。 

「……逃げなきゃ」

 ――このままじゃ、呑み込まれる。


 大勢の観衆が詰めかける競馬場だが、大レースになるとその桁は跳ねあがる。必然、歓声や怒号、感じる視線も普段の比ではない。

 大なり小なり場数を踏んでいるはずの騎手でも滅多に味わうことのない異常な空間。いつもと変わらずに乗れる奴のほうがどうかしている。だが、そういう異常者が一流として生き残るのが勝ち負けの世界であることもまた事実だ。

『出遅れましたスティレット、ぐんぐんと上がって先頭に躍り出ます。なおも逃げます、これで五馬身ほどのリード。まだレースは始まったばかりですが、大丈夫でしょうか?』

 スティレットの鞍上はまだ二年目の四王天愛。

 レース前は怖いくらいに落ち着いていたが、ここに来て雰囲気に当てられたようだ。才能があると言えど、まだ十九の子供と言ったところか。あまり攻めるのも気の毒だろう。

 それに、スティレットは十四番人気。去年の戦績を振り返れば桜花賞に出走できたのが奇跡みたいなものだ。人馬ともに敗戦のなかでなにか得るものがあれば御の字であろう。

 馬券を買っている者からすればたまったものではないが。

「……去年みたいに逃げれますかね?」

 恐る恐るといった具合に末崎が聞いてくる。

「無理だろうな」

 無理だ、と断定しようとするのを呑み込む。

「去年の逃げは逃げの名手である小豆畑のおっさんがスローペースを演出したから生まれたまさに職人技だ。二番手を走っていたのが桜花賞初騎乗の刀坂だったのも大きいだろう。

 だが、今回は違う。

 暴走気味のペースで逃げるのはまだ二年目の新米騎手。あの様子じゃ後ろを振り向く余裕もないんじゃないか? 気の毒だがテレビ馬になればいい方だろう。いい経験にはなったかもな」

「そんな……」

 大きく離れて先頭を往くスティレットに引っ張られて隊列は縦長になるかといえばそうではない。集団はスティレットとその他で二分された。三本の矢はというと、最後方でパリスグリーンが息を潜め、中程でスコーピオングラスが泰然自若と構える。そして、前目では成海が乗るワンセッションが虎視眈々と先頭をうかがっていた。


「はあ……」

 思わず溜息が出る。

 視界に映るのは大きく逃げるスティレット。ペース管理もできないまま二番手とは八、九馬身差ほどになっていた。

 四王天愛、ね。なにやらこの二年目連中をメディアは黄金世代なんて吹いちゃいるが、オレに言わせればちゃんちゃらおかしい。めぼしいのは由比だけ。……まあ、辛うじて日鷹が引っかかるくらいだ。

 四王天ファームの娘だとか、地方競馬の伝説の息子だとか、所詮は他人の褌で踏ん反り返っているお坊ちゃんお嬢ちゃんでしかいない。

 ――さてさて、論外は置いといて現状を整理するとしよう。

 暴走しているスティレットを除けば、ペースはやや早いくらい。例年の桜花賞くらいのペースで流れている。隊列は概ねレース前の想定通りだ。 

 つまり、敵はパリスグリーンとスコーピオングラスだけということになる。

 馬の力、騎手の力を総合的に鑑みて他の馬は敵じゃない。これは慢心ではなく事実だ。那須さん、猿江、一星三兄弟の長兄など何人か腕が立つ騎手はいるが、残念ながら馬の力が足りない。三着まではまぐれがあるだろうが、一着はこの三頭、三本の矢のなかでの争いだ。

「ちっ」

 思わず舌打ちが出る。

 しかし、この三本の矢ってのは気に入らねえ。この三頭のどれかが勝てばいい? ふざけやがって。

 あんたはパリスグリーンに勝って欲しいんだろ?

 去年の桜花賞の後、あんたの顔最高だったぜ。お気に入りの馬が負けてよっぽど堪えたみたいだな。今年は保険をかけるなんて女々しいことまでして、パリスグリーンが勝てなくても気にしてませんよ、ってか?

 だったらお望み通り俺がパリスグリーンを叩き潰してやる。

 オークスは厳しいが桜花賞なら話は別だ。  

 三歳春のこの時期は適性よりも本来持つ能力がまだ物を言うとは言え、純粋なマイラーとしての能力を持つのは三本の矢のなかでこの馬だけだ。パリスグリーンもスコーピオングラスも真価を発揮するのはもう少し長い距離だろう。一年も経った頃には、マイルではワンセッションにとっての敵じゃない。

 だが、それじゃあ面白くない。

 今日ここで勝って、俺をパリスグリーンに乗せなかったことを後悔させてやる。

 桜花賞は牝馬三冠の最初の一冠目でありながら、オークスよりも重視している陣営が少なくない。それは牝馬の適性距離が牡馬に比べて短いこと、そして桜花賞が牝馬三冠レースにおいて「最速」を決するレースであるからだ。

 クラシックレースが優秀な種牡馬、繁殖牝馬の選定レースという性格を持つ以上、絶対的なスピードの裏付けは繁殖牝馬に申し分ない素養となる。

 お高く止まったパリスグリーンを倒す舞台に相応しい。

 そんなことを考えていると、視線の先、なにかから逃げるようにスティレットのペースが上がった。それに追随する者はいない。

「酷えもんだな」

 もはや呆れる。それでよくこの舞台にのこのこ顔を出したものだ。

 去年の先輩を見て勘違しちまったか?

 まったく、罪な女だなあ。刀坂ちゃんよお。

 

 愛ちゃんは大丈夫だろうか。

 馬番が隣ということもあり発走前に様子を見ていたが、彼女はどこかうわの空だった。ゲートの出遅れから慌てて先頭へ上がっていく時の顔も血の気が引いて真っ白になっており、周りも見えていなかい様子だった。私の馬とも危うく接触しそうになったくらいだ。周囲の騎手からも怒号が飛んでいた。

 大丈夫だろうか。

 ――いや。

 頭を振る。

 これ以上心配してもしょうがない。それに彼女もレースで競い合う騎手のひとり。どんな理由があれ、過度な心配は彼女に対して失礼だ。

 私は私のレースに集中しなければ。

 スコーピオングラスは阪神ジュベナイルフィリーズ前にパリスグリーンの乗り替わりに伴って私に回ってきた。四王天ファームの馬には巡り合わせかこれまであまり乗る機会がなかったが、あの時愛ちゃんの弟にもっと乗せてほしいと冗談めかして言ったことが功を奏したのかもしれない。

 スコーピオングラスは去年走ったロカと違って大人しい馬だ。調教でも心配になるほどおっとりしており走るのか不安だったが、レースでの乗りやすさは想像以上だった。自分の思う通りに走ってくれる。これまでいい馬に何頭も乗せてもらったが、ここまで頭に思い描いたイメージと乗った時の感覚がずれない馬は初めてだった。

 ジュリオが乗り替わりになった時に名残惜しそうにしていたのも頷ける。

 そうなれば人間欲が出る。

 もう一度桜花賞を取りたい。

 二年連続で桜花賞を制した騎手は数えるほどしかいない。そのどの騎手も歴史に名を残す名騎手ばかりだ。私はまだその器でないこともわかっている。

 だが、短い現役生活、大きな舞台で勝ち負けを争える馬に乗れることは当たり前ではない。ここで取らなければ、この先何年、何十年、……いや引退するまであの歓声を浴びることはないかもしれない。過去の栄光に縋り付いて騎手人生を終えるなんて惨めなことは御免被る。

 だから、今年も一位を取る。

 そしてこれからもっとたくさんいい馬に乗るんだ。

 成海さんにも、もちろんジュリオにも負けない。


 パリスグリーン。

 巴里の緑。いい名前だ。

 ロンシャン競馬場のある青々と茂ったブローニュの森を思い出す。そうだ、パリスグリーンがあるならローマングリーンというものはないのだろうか。三色旗(トリコローレ)のあれは違うかな。あとで調べてみよう。

 パリスグリーンは十九世紀初頭に生まれ、その独特な青みを持つ鮮やかな緑色は、時の皇帝ナポレオンをも魅了した。部屋の壁、布の染料、本の表紙。人の目に映るあらゆるものを彩り、世界を塗り替えた。パリスグリーンで染められた豪奢なオートクチュールのドレスは得も言われぬ美しさを今日まで伝えている。

 まさに我が世の春とばかりに持て囃された色。それがパリスグリーンだ。――その美しさが、人体を蝕む猛毒であるということがわかるまでは、だが。

 パリスグリーンは日本名を花緑青(はなろくしょう)と言い、ヒ素に由来する強い毒性を持つ毒物だ。美しい顔料として、蝶よ花よと愛され華やかな一生を送るかと思われたが、晩年は一転、殺鼠剤や殺虫剤に用いられ毒としてその生涯を静かに終えた。かくしてパリスグリーンという色は人々の前から消えてしまったのである。その強い毒性がなければ、その色はいまでも皆に愛され用いられていたことだろう。

 ――いや、そうじゃない。

 その暗い翳があったからこそ、パリスグリーンはこの世のものとは思えない妖艶な美しさを誇っていた。人を殺すような毒を持つがゆえに、永遠に人々が触れることの叶わない完全な美となったのだ。

 そして人々は、今もその色に焦がれ、夢を見る。

『――まもなく最後のコーナー、パリスグリーンはまだ後方で息を潜めます。さあ、ここからどう勝負に出るでしょうか』

 向正面の直線もそろそろ終わり、コーナーを抜ければ最後の直線だ。

 聴こえるかい?

 みんなが君を待っているよ。パリスグリーン。


 スタートから長い直線、左手には延々と桜が続く。さっきまであれだけ綺麗だと思った桜に、いまはおどろおどろしい不気味さしか感じない。コースに迫りくる黒々とした梢は、私を逃すまいと伸ばされた無数の手のようだ。

 四コーナーを回り、桜が途切れる。

 ――逃げ切れた!

 もう私を追ってくるものはいない。

 そう安堵したのも束の間、役目は終わりとばかりにスティレットの速度がすーっと落ちる。慌てて鞭を振るう。

 ――待って! もう少し頑張って!

 その想いは無情にも風に浚われる。間を置かず後方から轟々とした音が襲いかかり、余韻を残すことなくあっという間に去っていった。

 桜のなかに、私だけが取り残される。

次回は4月8日(火)更新予定です。

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