運命と呼ばせて
「おおー、ちょうど見頃ですね。きれいだなあ」
末崎が向正面を彩る桜を見て感嘆の声を上げる。
春の陽気のなか、阪神競馬場の桜は満開だった。スタンドのあちこちがそれに気付くたび、わっ、と華やぐ。
「去年の桜花賞の頃はとっくに散って葉桜だったからな」
「やっぱり桜花賞って言うくらいだから桜が咲いてないとですよね。……あ、そういえば、編集長が阪神競馬場の桜はここらで一番キレイだって言ってましたよ」
「ここの桜が?」
「はい」
末崎が力強く頷いた。
たしかに綺麗なことには違いないが、別にここら辺なら桜の名所くらいいくらでもあるだろうに。
末崎が言葉を続ける。
「あの桜の樹の下には桜花賞で敗れた馬たちの怨念が死屍累々と埋まってる。だから阪神競馬場の桜は信じられないほど美しく見事に咲くんだ、って」
末崎が少しも似てない声真似を披露する。また編集長がしょうもないことを言ったようだ。なにが「桜の樹の下には」だ。
「梶井基次郎かよ」
ぼそっと呟いた言葉に、末崎が怪訝な顔をする。
「……梶井? 誰ですか、それ。総理大臣かなんかですか?」
「……。ところでお前、今回の桜花賞についてはちゃんと事前に調べてきたんだろうな?」
実になりもしない話題を無理やり変える。
予想に反して待ってましたとばかりに、もちろんですよ、と鼻の穴を大きく膨らませて、末崎は手元に持ったメモ帳をぱらぱらと捲った。
目的のページを見つけたのだろう。鼻息荒く、末崎は話し始める。
「いいですか? 今回の桜花賞、注目すべきはなんといっても四王天ファームの“三本の矢”です」
なにも言わず、目線で続きを促した。ひとつ頷き、末崎が右手の人差し指を立てる。
「まず“一本目”がワンセッション。
鞍上は成海竜児。
三歳牝馬重賞のフェアリーステークスとクイーンカップを先行策から勝ち切って目下重賞二連勝中です。力強く弾むようなリズムで走ると評判で、成海さんとも手が合っています。
父であるアクセルワークの産駒がマイル戦に滅法強いのも好材料ですね。実際産駒には過去に桜花賞馬もいますし」
次に末崎は中指を立てる。
「続いて“二本目”がスコーピオングラス。
鞍上は刀坂玲。
昨年、重賞である札幌二歳ステークスを勝ち、年末の二歳女王決定戦、阪神ジュベナイルフィリーズでは三着。こちらも先行馬ですが、ワンセッションとは対照的にしなやかで柔らかい走りが特徴です。操作性が高く、賢い馬だそうです。
説明するまでもないと思いますが、刀坂騎手は昨年の桜花賞ジョッキーですし、去年の再現を期待してしまいます。
ちなみに僕の本命ですね」
しれっと聞いてもいないことを付け足した。最後もったいぶった動きで薬指を立てる。
「そして、最後の“三本目”がパリスグリーン。
鞍上はジュリオ・ルピ。
アルテミスステークスを四王天騎手で勝ったあと、ルピ騎手が乗り替わり阪神ジュベナイルフィリーズで見事に勝利を飾り、最優秀二歳牝馬に選出されました。母馬はフランスの名牝系で四王天ファームが巨額を積んで欧州から持ってきたとっておき。その牝系からはフランスのダービーであるジョッケクルブ賞の勝ち馬はもちろん、欧州最大のレース凱旋門賞の勝ち馬も出ています。
後方脚質ながら安定した走りとキレのある末脚、能力のどれもが高いレベルにある。間違いなく、今回のレースの大本命です」
力強く言い切り、満足そうにメモ帳を閉じる。
末崎の言う通り、その三頭がこのレースの一番から三番人気を占めている。元々この三本の矢はメディアが言い始めたのではなく、四王天ファーム代表の四王天嵩が発言元だ。その時の口ぶりからも、昨年の桜花賞、リアルビューティの敗戦はよほど苦々しい思い出のようであるのは察するに余りある。
あの目は鬼気迫るものがあった。
「先輩はこのなかでどの馬が本命ですか?」
本命か。
一番強い馬がどれか、というなら答えは決まっている。
パリスグリーンだ。
三本の矢と言ってはいるが、いま挙げた三頭には格の違いがある。このレースにおいてはパリスグリーンが頭ひとつ抜けている。こういう表現はあまり好きではないが、残りの二頭は不測の事態に備えたバックアップ。喩えに乗っかるのなら二の矢、三の矢だ。だが――。
「なあ、去年の桜花賞覚えてるか?」
「え? もちろんですよ。
僕の馬券が当たって、あのあと焼肉行きましたよね。美味かったなあ。そうだ、今年も行きましょうよ。今度は先輩の奢りで」
勝ったらな、と軽くあしらい話を続ける。
「去年の桜花賞、四王天ファームのリアルビューティは二着だった。強い馬だった。あの馬は、喩えるなら十回弓を射ったら九回は真ん中に当たる矢。その期待は今年の三頭を凌ぎ、さしもの四王天ファームも牝馬三冠を狙えると鼻息荒かった。それだけの実力があったし、現にその後オークスを勝っているしな。その多大な期待も決して過剰なものではなかっただろう」
四王天ファームだけではない。競馬関係者も、観客も、俺だって内心伝説の始まりを期待していた。
「――だが、矢は外れた」
去年の桜花賞、大方の予想を覆し桜の女王の座についたのはロカだった。
「競馬に絶対はない。だから、俺の本命は」
そこで言葉を区切る。末崎が焦れたように口を開いた。
「……本命は?」
「“四本目”だ」
「え? 四本目?」
末崎の声が上擦る。
「そう。俺は三本の矢を脅かす四本目になりうる馬に本命を打つ。その三頭を除いても、トキシックラヴァー、トリアムール、アンナプルナ……。他にもいい馬はいる。たしかに見劣りはするがな。
だが、当然のように当たる矢より、普段はてんで当たらない矢がズバッと正鵠を貫くのを俺は見たい」
「言いたいことはわかりましたけど……。なんか、先輩らしくないですね」
たしかに、末崎の言う通りだ。俺はいつだって紙面に載せる時の予想は固いし、プライベートで買う時だって本命党だ。だが、これだけがちがちにお膳立てされてしまっていては面白くない。
桜花賞という物語に、誰かが書いた筋書きや予定調和な結末など無粋極まりないじゃないか。
風が吹き、前髪を揺らす。ふいに、なけなしの金を握りしめて紙面とにらめっこしていた若い頃の映像が頭に流れた。
「……桜のせいかもしれねえな」
そう嘯くと、向正面の桜が揺れたのが見えた。
パドックを囲む人の数にはいつも圧倒される。
こんなに狭い空間、こんなに近くで、何十何百という視線が一斉に向けられるというのは何度経験しても居心地のいいものではない。しかも、G1レースともなればその圧は普段の比ではない。だが、今日は高揚感が上回るのか不思議とこの場を楽しんでいる自分がいた。
視界の隅に父の姿が見えた。馬主数人でなにやら談笑している。見知った顔も何人かおり、視線に気づいた一人がこちらに小さく手を振ってくれた。小さくお辞儀をする。父もそれに気づいたようだが、私を一瞥するだけですぐに話に戻った。
父の光沢のあるダークグレーのスーツ、その胸元でなにかがきらりと光る。フラワーホールには金属製の社章があった。
「あっ……」
もう一度それをまじまじと見る。
丸が二つ、その間を結ぶように線がひとつ引かれているデザイン。四王天ファームの企業ロゴだ。
そういえば幼子心にそのデザインが気になり、父に訊いたことがあった。たしかあれは、まだ小学校にあがる前だっただろうか。
「それなに? めがね? お団子?」
「ん? これかい? ちょっと違うなあ。これはね、“馬銜”だよ」
「……はみ?」
私が首を傾げると、ああー、と父は宙につぶやき、一瞬言葉を探した。
「……えっと、お馬さんの口に加えさせる器具のことだよ。これに手綱をつけてお馬さんを動かすことができるんだ」
「……?」
首を傾げた私を見て父は微笑む。父はゆっくりとしゃがんで私に目線を合わせた。
「この馬銜っていうのはパパたちが生まれるずっと昔から今に至るまで人と馬とを結びつけるとってもとーっても大事な道具なんだ」
そう言って私の頭を優しく撫でた。そして、少し難しい話をしよう、と続ける。
「馬の奥歯と臼歯の間の部分には隙間、歯槽間縁という部分がある。ここに人類史に残る偉大な発明、馬銜というピースが見事にはめ込まれたことで人は馬を意のままに操ることができるようになった。
でもね、馬が特別なのはこれだけじゃないんだよ。
鞍をつけ、人を乗せても堪えられる程に硬く丈夫な背骨。呼吸による動きが少なく、しっかりと鞍をつけるための腹帯を巻ける胴体。人を乗せられる程度に賢く、従順な気性。そのどれもが人が乗るうえで理想的な動物、それが馬だ。そのおかげで人類は発展してきたと言っても過言じゃない。
そして、この馬銜はそれを象徴する。神様からの贈り物である馬と人とを結びつけた道具ってわけだよ」
「……神様からの贈り物」
「そう。だからパパの会社は人と馬がともに生きていることへの感謝とそれを守っていく責任を忘れないためにこれを胸に付けてるんだ」
「ふーん」
小さかった私は父の言うことはよく分からなかったが、楽しそうに語る父の顔がとても晴れやかで、それはきっと素晴らしいことなのだろうと思った。
「本当に、この世界に数多いる動物のなかでこうして巡り会えたのは奇跡、――いや、“運命”なのかもしれないね」
父はうっとりと目を細める。思い出のなかの父の表情は優しく、そのどこか夢見がちな話し方も様になっていた。
遠い昔、いまでは御伽噺の一ページのことのようだ。
「……運命、か……」
「え? ごめん、なにか言ったかい?」
気づかぬうちに言葉が口から溢れていた。そわそわとしていた数倉先生がこちらを不思議そうに覗き込む。
「……先生。運命って言葉あるじゃないですか
私、嫌いだったんです。運命って言葉。なんか、全部決められたシナリオの上で私たちは踊らされているだけなんじゃないかって」
「え!」
そうなの、と続けた言葉は消え入りそうに小さく、語尾はほとんど聞き取れなかった。明らかに挙動不審になってその巨体が揺れる。ああ、そういえば私とスティレットの関係を運命だと最初に口にしたのは数倉先生だった。
「いやね、スティレットと君のことについてはまったくそんな深い意味は――」
必死な様子が可笑しくて思わず笑ってしまった。
「違うんです。感謝してるんですよ、先生には。
いまは運命って言葉嫌いじゃありません。いや、この子との、皆さんとの出会いは運命って呼びたいって、はじめてそう思えました。
――だからこのレース必ず逃げ切って、私がこのお姫様を女王の座までエスコートします」
少しの沈黙のあと、呆けた顔で数倉先生がぼそっと呟いた。
「……君も案外、ロマンチストなんだね」
頬が猛烈に熱くなる。
これでは父のことも勇のこともとやかく言えたものではない。
パドック、本馬場入場、輪乗り、枠入り、と分刻みのスケジュールが滞りなく進む。騎手たちの緊張が伝わるのだろうか、発走時刻が近づくにつれて賑やかだった観客席にも重く澱んだ空気がのしかかった。言いようのない不安と緊張が阪神競馬場に満ちる。
ゲート脇、明るいクリーム色のジャケット、チャコールグレーのハットを被ったスターターがゆっくりと準備に入った。
赤い手旗が振られる。
それを合図に、弾むようなファンファーレが産声を上げた。
その声は春風のように軽やかにのびのびと仁川を吹き抜け、観客席は春を思い出したように再び息を吹き返す。
そう、こうでなくてはいけない。
春を告げる祝祭には、有り余るほどの歓喜と喝采が必要だ。
ガガッ、と音を立ててからスピーカーから声が流れる。
『天候は晴れ、馬場状態は良。
今年は満開の桜の下迎えた桜花賞。阪神競馬場には多くの人々が詰めかけました。桜色の花道とあたたかい歓声が、ここまで辿り着いた十八頭を迎えます。
咲くは桜、散るも桜。今宵、盃を高らかに掲げて笑うのは誰になるのでしょうか。
いのち短し走れよ乙女。
美しく咲いた桜には、少しの間だけ主役を譲ってもらいましょう。
――桜花賞、まもなくスタートです』
スターターのピストルが天を衝いた。
次回は4月1日(火)更新予定です。




