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クラシックの季節

 桜前線が日本列島を九州から関東まで瞬く間に駆け上がり、寒々としていた枝ぶりも色めき立つように薄紅色の衣を羽織った。鮮やかさに一時目を奪われると、ふわりと吹いた風が戯れに後ろ髪と踊る。

 春が来た。

 街を歩く人々の表情もどこか柔らかい。しかしながら、ここ美浦トレーニングセンター、いや、栗東トレーニングセンターを含め、日本中央競馬会に所属している人々の顔は、春が近づいているというのに冬を耐え忍ぶように日に日に険しくなった。

 競馬に携わる者にとって、春はクラシックレースの季節だ。春の訪れを桜の花が報せるように、クラシックレースの幕開けもまた桜花が告げる。

 桜花賞から始まり、皐月賞、オークス、日本ダービー。四月から五月にかけて行われるこの四つに、秋に行われる菊花賞を加えた計五つのクラシックレースは、日本に数あるG1レースのなかでも特に伝統と格式あるレースだ。

 今年、第一戦となる桜花賞の舞台に立つのは、ここまで熾烈な戦いを潜り抜けてきた十八頭、十八人。大きな戦いを控え、戦士たちが殺気立つのは当然のことであった。

 今週末にレースを控えた水曜日、美浦トレセンでは桜花賞に向けた共同記者会見が執り行われる。美浦トレセンから出馬する七頭、そのそれぞれの騎手、調教師が集められた。

 私もその一人だ。

四王天(しおうてん)さん、お願いします」

 側に控える職員に小声で促され、会場の正面に設けられた長机とパイプ椅子の簡素な会見席に座る。記者の顔が後ろまでよく見えた。伸ばしきった背筋をもう一度伸ばす。

 進行役の職員が私が準備できたと判断したのだろう、銀縁の眼鏡を一度直すと機械のように抑揚のない声で話し始めた。

「続いて数原厩舎所属のスティレット号に騎乗する四王天愛騎手に移ります。質問がある方は挙手をお願いします」

 記者席からパラパラと手が上がる。

 進行がそのなかの紅一点、髪を短く切りそろえたパンツスーツ姿の若い女性を指名した。女性はよく名の通った大手メディアの社名と自らの名前を誇らしげに発してから質問を始めた。

「この度は桜花賞への出走おめでとうございます。デビュー二年目での出走、加えて同期の中で一番乗りとなるクラシックデビューですが、今の心境を伺ってもよろしいでしょうか?」

 思わず綻ぶ口元を引き締める。一番乗りというのは何事においても気持ちがいい。

 デビュー初勝利も、重賞初勝利も、G1初勝利も、すべて一番を奪われた。今回ようやく私が初めて一番を取ったのだ。

 まあ、そのすべてを手に入れた男がいる手前、大手を振って威張ることができるものでもない。クラシックが牝馬のレースから始まるという日程の都合のおかげであることも重々承知だ。だが、「四王天(めぐみ)が同期で初めてクラシックに挑戦する」というのは紛うことなき事実である。

「はい。まだ若輩者である私にこのような機会をいただけることを光栄に思います。スティレットのオーナーを始め、管理している数原調教師、スタッフの皆様、そして所属厩舎である仙葉先生並びにスタッフの皆様、日頃から親身に相談に乗っていただいている刀坂騎手、応援いただいているファンの皆様に心から感謝いたします。

 歴史あるクラシック、桜花賞の舞台に同期に先んじて挑むことについては緊張もありますが、それ以上にワクワクしているというのがいまの率直な気持ちです。出走するからにはもちろん優勝を狙いますし、それができる馬だと思っています」

 その後二、三言葉を交わした後、ありがとうございました、と満足気に女性記者は椅子に座り直した。間を置かずに次の質問者へ移る。当たり障りのない質問に卒なくこなしていくうちに緊張も和らいでいった。

 何人目になっただろうか、進行は次の記者を指名した。

 当てられたのは最初の記者とは対照的に、身なりが少し疎かな男性だ。年齢は四十代くらいだろうか。

 席に近づいてきた職員から乱暴にマイクを奪い取る。喉の調子を確かめるように、あー、と何度かマイクに繰り返したあと、話し始めた。

「四王天騎手、今回のクラシック、四王天ファームの馬で出走しないのはやはり確執があるという噂は本当なんですか?

 パリスグリーンも無理やり降ろされたとか」

 会見場が微かな音を立てざわつく。他の記者は取り繕っているが、動揺を隠しきれていない。なるほど、四王天家に確執あり、は記者たちの間ではもはやただの噂ではなく、聞いてはいけないタブーになっているらしい。

 まったく、下らない。

 小さく鼻を鳴らす。

「確執はありません。パリスグリーンはもともとあのタイミングでの乗り替わりが決まっていましたし、四王天ファームの馬への騎乗回数が少なくなったのは偶然です。有り難いことにほかの馬主さんや先生方からの依頼が増えましたので」

 半分嘘だ。

 パリスグリーンは降ろされたし、スティレットに乗って以来四王天ファームからの騎乗依頼は目に見えて減った。しかし、そのおかげと言ってはあれだがその分ほかの依頼は増えた。私を「四王天ファームの令嬢」ではなく、「騎手」として評価してくれている人がいるのだと知ることができたのは、思いもよらないうれしい誤算だった。

 質問してきた男はぎこちなく口元を歪める。笑っているのだと少ししてから気づいた。

「本当ですかね? 今回乗るスティレットだって父親への当てつけに、四王天ファームの依頼を断って乗ったって話も聞きましたよ。ほかの記者だって聞いてます。本当になにもないんですか?」

 こちらを巻き込むなとばかりに、座っている数人がその記者を睨みつける。当てつけ、という表現は気になるが記者の言うことは概ね正しい。だが、だからなんだというのか。

 ここは桜花賞のレース前会見をする場だ。私と父の不和を面白おかしく曝け出す場ではない。

「そんなに気になるなら私じゃなく父にでも取材に行ったらどうでしょうか。それとも、門前払いでもされましたか?」

 記者は図星を突かれた顔をする。それを取り繕うように記者は少し早口になった。

「連れないなあ。これだけじゃないんですよ? 他にもたくさん――」

「いい加減関係ない質問は慎んでください」

 進行の男が記者の質問を遮る。感情は読み取れないが、有無を言わせない威圧感があった。記者はくぐもった声を出したあとパイプ椅子に腰を下ろし、言葉を発することはなくなった。安堵のため息が出る。

「――ほかに質問ある方はいますか? ……いないようですので、次の騎手に移ります。

 四王天騎手ありがとうございました」

 銀縁眼鏡のレンズが光る。無機質な声によって記念すべき私の会見は終了した。

 

「それで機嫌悪いんだ」

『そうよ』

 電話の向こう、低く唸るような愛の声がおかしくて思わず言葉が跳ねる。愛は胸に溜め込んだ不機嫌を吐き出すように続けた。

『勝手に憶測ばっかり言って。なんなのあの記者は。だいたいあれは桜花賞の会見なのよ? 失礼極まりないわ』

「……まあ、ねえ」

 こちらが言葉を濁すと、すかさず愛は噛み付いてくる。

『なに? (いさみ)。なにか言いたいことでもあるの?』

「ないって。僕に怒りの矛先を向けるのはやめてくれよ。……でもさ、愛が怒るのはわかるけど、そういう好奇の目に晒されるのはしょうがないだろう?

 愛も僕も父さんに下駄、いやシンデレラのガラスの靴を履かせてもらっている立場だ。履いてる間はそりゃあチヤホヤされもするし、妬まれもするさ。だって、僕たちは四王天家の一員なんだから。

 愛も僕もまだ二十歳になってもいないただの子供なのにね」

『やめてよその洒落臭い喩え方。お父さんみたい』

「それは喜んだほうがいい?」

『お父さんが二人なんて考えたくもないわ。――それで、用件はなんなの?』

「用件?」

『そうよ、あんたからわざわざ電話かけてきたんでしょ? まさか、桜花賞頑張って、なんて言うためにかけてきたわけじゃないでしょ?』

「いや、そのためにだよ」

『嘘』

「嘘なもんか。それだって立派な用件だろ? 僕はいつだって愛の味方だからね。こういうときにそれを表明しとかないと」

『きもい』

 最後まで言い終わる前に電話は切られた。ひとつ息を吐いたあと、携帯をポケットにしまう。

 飲み物を取りに行こうと階下のリビングに降りるとスーツ姿の父がいた。時刻はまだ十五時を回ったばかりだ。

「なにしてるの、こんな時間に」

「……勇か。お前こそ大学はどうした」

 父は手元の荷物を確認しながら顔を上げない。

「大学はまだ春休みだよ」

「ああ、そうだったか」

 父は淡々と手を動かす。キャリーケースの中に次々と物が収まっていく。替えの衣服、パソコン、紙の資料……。

「もう関西(あっち)に行くの?」

「ああ。あっちで色々やることがあるからな」

 そう言いながらも父の手は止まらない。

 父は多忙だ。家にいる時間も少ない。なるべく仕事以外の無駄な時間は減らしたいのだと言っていた。家にいる時間が無駄かはさておいて、それならば荷物の準備くらい母にしてもらえばいいのに、と言っても父は頑なに自らの荷物は自分でまとめた。

 よくわからないところでこだわりがあるらしい。

「こんな早く向こうに行くなんて随分気合いが入ってるね」

「当たり前だ」

 父が手を止めて顔を上げた。 

「一昨年、昨年と桜花賞では苦杯を嘗めた。今年こそその雪辱を果たす。

 今年出走する四王天ファーム生産の馬は十頭、そのなかで四王天ファームが所有する馬は五頭。特にパリスグリーン、スコーピオングラス、ワンセッションの重賞馬たちの力は抜け、それぞれに最高の騎手を確保した。

 この“三本の矢”で、今年は必ず桜花賞のレイを手に入れる」

 三本の矢、と口のなかで小さく復唱する。三本の矢を束ねると一度に折ることは難しい、という話だったはずだが、言い換えれば一本の矢を折るのは容易いということではないのか。果たしてその喩えは正しいのだろうか。

「どの馬も簡単に折れるような矢じゃないさ」

 こちらの考えていることなどお見通しとばかりに父は言った。ここでの「三本の矢」は結束の尊さを説いた教訓ではなく、万全の準備を施しているという自負の表明でしかないということだろう。

 父は視線を落とし、再び荷造りに戻る。

「……その三本の矢もいいけどさ、桜花賞には愛も出るんだよ? 知ってる?」

「当たり前だ。レースの情報はすべて調べている。

 スティレットはここまで六戦二勝、リステッドのアネモネステークスで二着に入り桜花賞の出走権を獲得した。父であるアクセルワークの産駒は千二百から千六百の距離では優秀な成績を上げているが、スティレットの兄弟には目立った馬はなし。地方でそこそこ走っているのが一頭いるくらいだ。

 ここまで運良く勝ってきたみたいだが、手の内の割れた逃げ馬では桜花賞では力不足。無視することはできないが、特段気にするような馬じゃない」

 父の口からは馬の情報がスラスラと出てくる。いまは馬ではなく愛の話をしているのに。

「……そうじゃなくてさ、応援とかしないの?」

「なんで私が応援するんだ」

「なんでって……。騎手になってまだ一年ちょっとでクラシックに出るんだ。しかもうちの馬でじゃない。凄いことだよ」

「早く出たから偉いわけでもないだろう。それに、そんなことは他所の馬に乗るアイツを応援する理由にならない」

 頭の芯の部分がほんの少し熱くなる。

「なにそれ。それでも親子かよ」

「歴史を振り返れば、たとえ親子であっても己が野心のためとあらば時に干戈を交えることもあった。戦場において、情にほだされた者に勝利はない。いつまでも甘えたことを言うな」

 キャリーケースを閉じ、父は玄関に向かった。行ってくる、と誰になくつぶやき父は出ていく。

 ひとり残された家でため息があてもなく彷徨い、消える。

「……そうじゃなくてさ」 

 視線の先、どこからか持ってきてしまったのだろう桜の花弁が床に落ちていた。拾い上げると、その小さな体はまだかすかに春の匂いを放っている。

 ――ああ、今年もクラシックが始まる。

次回は3月25日(火)更新予定です。

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