阪神発最終東上便
G3毎日杯。
三月末に阪神競馬場で行われる三歳限定の牡牝混合の重賞レースである。施行条件は右回り芝千八百メートル。同じく三月に開催される重賞で、皐月賞のトライアル競争に指定されている弥生賞やスプリングステークスとは異なり、こちらは春に行われるクラシックのトライアル競争には指定されていない。
しかしながら、それらの大きなレースを狙う陣営にとって、それらのレースと同様、重要なレースに位置付けられていることは疑いようもない。言うなればこのレースは関東で行われる皐月賞、日本ダービーといった大レースへと向かうための最終東上便である。
当然、このレースで収得賞金を加算しようと関西の有力馬が集結する。敵は手強い。だが、私が乗るラットアタットだって負けてはいない。このレースで勝ち、その勢いのまま私も皐月賞に乗り込むのだ。
大きく息を吐き出すと、それを待っていたかのようにパドックで騎乗命令がかかる。
私が近付くと、ラットアタットは前脚でトントントンと地面を軽快に三回ノックした。これがラットアタットの名前の由来だ、と木曽先生が教えてくれた。人懐っこい目がこちらを興味深そうに覗く。――お前で大丈夫か? と問うてきてるようだ。
ヘルメットのベルトをいつもよりきつく締める。
「いい顔してるね。じゃあ、いこうか」
『いま飛び出していきました。
少しバラけたスタートになりましたでしょうか、絶好のスタートを決めたのは一番人気ラパンシャスール。先頭争い、ラパンシャスールが二馬身ほどリード。続いてハテノクリフ、その後ろメロウメロディ、少し離れてアメリカンクルーとストリボーグが並びます。その後ろにラットアタット――』
少し出遅れた。
ここまで春はスタートの調子が良かったが、神様だっていつまでもご機嫌なわけではないということだろう。
阪神の芝千八百メートルは向正面二コーナー奥のポケットからスタートし、最初の三コーナーまで六百六十五メートルもある長い直線を走る。大きく回るコーナーを超えると、最後に待ち構えるのが四百七十三メートルある直線だ。直線が長く、ワンターン。そのコーナーもきつくないためスピードを落とすことなく最後の直線を迎えることができる。
大勢が整って現在地は真ん中よりやや後ろ。勝負どころはまだ先だ。ここで慌てて順位を上げることもない。
「……」
いや――。
出鞭を打つ。ラットアタットはゆっくりと前進を開始した。
この馬で最後の末脚勝負に持っていくことは自殺行為だ。ただでさえ決め手にかけるのに、悠長に構えている暇はない。
前方を伺う。
フルゲート十八頭に対して十一頭が出走した少頭数のこのレース。少頭数になった原因はいま逃げている一番人気ラパンシャスールと後方に控える二番人気グレイテストマンにある。
ラパンシャスールは年明けデビューと順調ではなかったが、デビュー戦では六馬身差で逃げ切り圧勝、二戦目の一勝クラスでも悠々と勝ち、意気揚々と毎日杯に乗り込んできた。グレイテストマンは二歳重賞を勝っており、共同通信杯でアレクサンダーの三着の実力馬である。この二頭が出ることになって尻込みした陣営が少なくない数いたと聞いた。
重賞において収得賞金を獲得することができるのは二着まで。次のレース、専ら春のクラシックを目指す陣営にとって、賞金を加算できなければこの時期のレースに出る意味がない。競走馬は頻繁にレースを走ることができるわけではないのだから、それならば少しでも勝つ確率が高いレースにベットするのが賢い選択というわけだ。
しかし、裏を返せばそれにも関わらずここに出てきた陣営は死に物狂いで二頭に食らいついてくという意志を表明したに等しい。そして、それは私たちも例外ではない。
『千メートル通過五十八秒二。これは少し早いか、レースは後半に入ります』
レースはハイペースで進む。先頭を往くラパンシャスールには苦しい展開だ。しかし、レースが思い通りに進んでいるかと言えば決してそうではない。
このレース、スローで進めばラパンシャスールを楽に逃げさせることになる。しかし、その一方で、ペースが上がれば後方で息を潜めているグレイテストマンの思うつぼだ。あちらを立てればこちらが立たない。さながらそれは禅問答のように私たちの頭を悩ませる。
様々な思惑が入り乱れ交錯するなか、畢竟、ひとつの大きな群れはラパンシャスールの方を潰すことを選んだにすぎない。
レースは終盤。このコーナーを抜ける前に残り三ハロン(六百メートル)を迎える。
大きく息を吸う。ドクンドクンと全身の血管が激しく脈を打った。顔に当たる風が上気する頬を冷ます。ひととき音が消え、陽光を受け輝く新緑のターフに私だけがひとり取り残される。
鞭を握り直す。
「――いくよ。ラット」
残り三ハロンを前に鞭を振るう。ラットアタットは馬群を割るように前進を開始した。
ラットアタットはじり脚で融通の利かない馬だ。
だが、武器が少ない馬ならその武器を極限まで研ぎ澄ませればいい。敵に思い通りに走らせないのが戦術であるように、自分の馬を一番いい形で走らせることもまた戦術である。
さあ、全馬持てる手札は出尽くした。あとは、正面から叩きあうだけだ。
このレース、負けるわけにはいかない。
今日の開催、予定されていたレースが無事にすべて終わった。シャワーを浴び、服を着替えて調整ルームを出る。日はすっかり落ち、観客の去った阪神競馬場には夜の闇が溶けていた。
「今日はありがとう」
少し歩いたところに木曽先生が立っていた。辺りにはほかに誰も見当たらない。わざわざ私のことを待っていたのだろう。
「お疲れ様です。こちらこそありがとうございました。いい馬に乗せてもらえて」
「見事な騎乗だったよ。これで胸を張って春のクラシックに挑むことができる。君に頼んだのは正解だった。流石、咲島先輩のお弟子さんだね」
木曽先生はそこで言葉を切る。一瞬、その瞳に逡巡の色が見えた。再びゆっくりと口を開く。
「……日鷹さん、春のクラシック、このままラットアタットに乗る気はないかい?」
ぎこちない笑顔で、木曽先生は言葉を絞り出す。
「無理なことを言ってるのはわかってる。君が主戦騎手のクラッシュオンユーは咲島先輩のところの馬で随分期待されている。ここで降りたら不義理になるだろうことも重々承知だ。それでも――」
それでも乗ってほしいのだ、と木曽先生は続けた。少しの沈黙のあと、私は口を開く。
「春はこの馬には乗れません」
自分でも驚くほどに冷たい声が出る。
「……。そうか。わかった。……すまない、勝手だと思うだろうがさっきのことは忘れてくれ」
木曽先生はこちらが拍子抜けするほどにあっさりと引き下がった。だが、言葉とは裏腹に下を向くその顔は少し老け込んで見える。慌てて続く言葉を頭で掻き集める。
「あの、謝らないでください!
私が乗らなくたって、あの子がいい馬だってことは間違いないし、違う騎手が乗ってもきっといい走りをしてくれるはずです」
嘘ではない。ラットアタットは間違いなくいい馬だ。
最高速度に乗るのこそ遅いものの、スタミナ、勝負根性はいいものを持っている。これから先、ステージが上がっていってもきっといい結果を残すことだろう。
間違いなく、いい馬だ。
――けれど、ラットアタットには怖さがない。
クラッシュオンユーに乗っている時のような怖さが。もし、ラットアタットがクラッシュオンユーよりも強い馬だったら私の心は揺らいだだろう。
だが、そうではなかった。
いまここでクラッシュオンユーではなくラットアタットを選ぶことは、騎手としての私に嘘をつくことになる。
私の心の内など知らずに、木曽先生は笑顔を作って顔を上げた。
「ありがとう。そう言ってもらえてうれしいよ。これからはライバルだな。この春、君と戦えるのがいまから楽しみだ」
「……。はい。私も楽しみです」
三月の終わり。ふと見上げた空に月は見えない。
ラットアタットに別れを告げ、私は皐月賞に向かう。
次回は3月18日(火)更新予定です。