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Rat a tat

「いやあ、すまんかった。驚かせるつもりはまったくなかったんじゃ。ああ、そうだ、名乗ってなかったな。わしは交告(こうけつ)(はじめ)。五年ほど前から馬主をやっとる」

 大男、あらため交告さんは周りの目を憚らず大きな声を出した。

 検量室前ではさすがに衆目を集めるので、口どりのあと人気の少ないところへと移動した。幸いなことにこのあと最終レースの予定はないので体は空いている。馬を生島さんたちに任せ、咲島先生も渋々付き添ってきた。

「あの、馬に乗ってくれってどういうことですか?」

「どうもなにも“毎日杯”でうちの馬に乗ってほしいんだ」

「……毎日杯って、もう来週じゃないですか」

 あまりに急だ。

 競馬における騎手の選定は、馬主の意向はもちろんだが、調教師の人脈、相性など複合的な要素が相まって決まる。もちろん、乗る馬のことを熟知しているものが望ましい。まして毎日杯は重賞レース。重賞に出るともなればこれまで騎乗してきた息の合う騎手もいるはずだ。それがレース一週間前にも関わらずいまだ鞍上が不在とは腹落ちしない話だった。

「逃げられたのか?」

 咲島先生が呆れの混じった声で小柄な男、木曽先生を睨んだ。木曽先生はばつが悪そうに口籠る。

「……いや、そういうわけじゃ……」

「わしが言って降りてもらった」

 交告さんがけろっとした様子で話す。眉間に深く皺を刻み咲島先生は訝しんだ。咲島先生が交告さんをあまり気に入っていないのは明らかだった。

「どういうことです。なにか気に食わないことでも?」

 交告さんは大きく頷く。

「木曽先生の調教に難癖をつけてきた。わしは先生を信じて馬を預けとる。同じ方向を向けん者とは一緒に戦えん」

 鼻息荒く交告さんはまくし立てた。

 咲島先生は声には出さないが、ほう、と息を吐いた後、口角を上げた。木曽先生が取り繕うように慌てて間に入る。

「い、いや、僕の言い方も良くなかったんです。彼にも彼の言い分があるのは重々承知してるつもりです」

「なにを言うとる木曽先生! あんたは間違っとらん!」

 交告さんに背中を叩かれる木曽先生がなんとも小さく見えた。

「でもなんで私に?」

「この三月勝ちまくってる騎手がおるって木曽先生から聞いてな。ほいで今日生で見てみたんじゃが……期待以上やった。君に乗ってほしい」

 心が浮足立つのがわかる。騎手としてその腕を認められ、求められることほどうれしいことはない。

「ほかに伝手はなかったのかよ」

 水を差すように咲島先生は木曽先生に毒づいた。

「僕にそんなものはないって先生も知ってるでしょ。頼みますよ、昔のよしみで」

「なにが昔のよしみだ。一年も一緒のところにいなかったじゃねえか」

「こういうのは長さじゃなくて深さでしょ? 後生です」

 念じるように木曽先生は手を頭上で合わせ頭を深々下げた。交告さんも隣でそれに倣う。咲島先生は面倒臭そうに後頭部を掻いた。私の視線に気づいたのか、咲島先生がギロリとこちらに視線を移す。

「……日鷹、お前が決めろ」

 私が決めていいのなら答えはひとつだった。

 

「これがラットアタット号だよ」

 週明けの月曜日、私は栗東トレセンにある木曽厩舎にいた。

 木曽先生が馬房にいる馬を指す。小柄な馬だ。クラッシュオンユーよりは少しばかり大きいだろうか。

「ノッキンオンハートの産駒はやっぱり小柄な子が多いんですかね」

「たしかにノッキンオンハート自体が小柄な馬だったからそういう傾向はあるね。あんまり小さくなりすぎないように相手の牝馬は体格がいいのをあてがってるらしいけど」

 目の前のラットアタットはクラッシュオンユーと同じくノッキンオンハートの産駒だ。

 ノッキンオンハートの産駒はまだ二世代しかデビューしていない。そして、その種付け頭数も決して多いとは言えなかった。種牡馬デビューした年は今は亡きイスカンダルと重なり、ひとつ上にもひとつ下にも血統のいい有力馬が数多く引退していた時期でもあり、イスカンダルに勝ったといってもG1の勝利は有馬記念ひとつのみとあっては、質、量ともに十分な肌馬を集めることができなかった。

 デビューした産駒の勝ち上がり率もあまり芳しくないこともあって、いまのところ生産者の下した判断は正しいことになる。産駒の重賞勝利もこの間のスプリングステークスが初だ。重賞への出走回数自体も少なく、のべ出走数は二桁に満たない。そのなかで今回ラットアタットの騎乗機会を得るというのはなにか運命めいたものを感じないこともない。

「ここまで四戦走って一勝、二着一回。脚質的には逃げ先行。じり脚気味で少し決め手に欠けるところがある。体格以外はあんまりノッキンオンハートに似てないかな。でも決して弱い馬じゃないよ。その馬を活かした競馬をすればいいだけだ。

 そうじゃなきゃ、僕たちがいる意味がない。そうだろ?」

「そうですね」

 この前のオドオドした感じはどこへ行ったのか、馬のことになると饒舌でその言は熱を帯びる。咲島先生があの唐突なお願いを無下に断らなかったのがわかる気がした。

「交告さんはちょっと強引なところもあるけど、僕みたいな零細厩舎に良くしてくれるし、いい馬も卸してくれた。そして、五年目でやっと重賞で勝てるかもしれない馬が出てきたんだ。

 僕は、この馬で絶対に勝って恩返ししたい」

 木曽先生は拳を力強く握った。

「……ちょっとこれは気合入れ直さないとですね」

 ハッとした顔で木曽先生がこっちを見る。

「いや、違うんだ! プレッシャーをかけようってわけじゃなくて。それぐらい僕は気合が入ってるってだけで……」

「でも、それでも今回私を乗せようってなったんですよね。こんな光栄なことないです。私も気合たっぷりでやらせてもらいます」

「……! ありがとう……! 木曜の最終追い切りの時もよろしく頼むよ」

「はい!」


 木曽厩舎での顔合わせを終え、咲島厩舎へ戻る。

 厩舎スタッフへの挨拶もそこそこに早速馬房へと向かう。いつもの馬房にはクラッシュオンユーがいた。先日レースを終えたばかりのクラッシュオンユーだったが、飼い葉の食いもよく、レースでの疲れも残ってないように見える。小さい体で存外丈夫なものだ。

「おはよう、クラッシュ。元気そうだね」

 クラッシュオンユーはこちらをちらりと上目遣いで見るが、すぐに食事に戻った。

「……。可愛くない奴」

 地面に腰を下ろし、馬房の柱に背中を預ける。

 日に一回、短い時間でも私は必ずクラッシュオンユーと二人になる時間を作るようにしている。私が一方的に話すだけであるが、植物に声をかけて育てると美しい花をつけるとなにかで見たことがあるので、馬に話しかけてもなにかいいことが起こる、かもしれない。だからといって美しくなられても困ってしまうが。

「いつまでもそんな態度だと違う馬に乗り換えちゃうよ」

 勝手にしろとばかりにクラッシュオンユーは鼻を鳴らした。

「クラッシュオンユーは我儘な子供みたいっすね」

 世話をしているときに生島さんがよくつぶやく言葉を思い出す。言葉とは裏腹に生島さんはどこか嬉しそうだった。手がかかる子ほど可愛いというやつだろうか。

 クラッシュオンユーの能力は間違いなく高い。だが、一方で精神的な面はあまりにも脆い。些細なことでも走る気をなくすこともあれば、突如解き放たれたように暴走するときもある。

 ノッキンオンハートもクラッシュオンユーのような気性の馬だったのだろうか。同じくノッキンオンハート産駒であるラットアタットももしかして同じように気性が荒いかもしれない。その疑問を解消しようにもノッキンオンハート産駒への騎乗経験が私にはあまりにも少なかった。

 馬房のなかを振り向く。

「クラッシュ、今度乗る馬あなたとお父さんが同じなんだけどなんかアドバイスとかない? ……あー、でもこの業界だと他人になっちゃうのか」

 言っている途中で気付く。

 競馬における兄弟とは「母が同じ」である必要がある。父にあたる種牡馬は多いものだと年に二百近い頭数種付けする者もおり、それを兄弟として括るのはあまり適当でないのかもしれない。

 首筋に息がかかる。見上げるとクラッシュオンユーがこちらを覗き込んでいた。日を受け、美しく輝く青毛の馬体に束の間目を奪われる。声をかけ続けていた甲斐があったということかもしれない。

「おや、アドバイスですか? クラッシュさん」

 わざと畏まってクラッシュオンユーに訊く。クラッシュオンユーはこちらをじっと見つめたまま動かない。暫し見つめ合う。

「……やっぱなに考えてるかわかんないや」

 クラッシュオンユーは黙ったままだ。

 

 春の匂いが強くなり、あっという間に毎日杯の日を迎える。

次回は3月11日(火)更新予定です。

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