春を喰らふ獣
スプリングステークスを控えた木曜日。
最後の追い切りを前に厩舎スタッフと打ち合わせをする。咲島先生が顎に剃り残された無精ひげを撫でながら口を開いた。
「じゃあ、次のレースプランだが」
「先生」
右手を挙げる。咲島先生は面倒臭そうにこちらを睨みつけた。
「……なんだ?」
「次のレース、私に任せてほしいんです」
「……ほお、そういうからにはなにか策があるんだろうな?」
「はい!」
「……。聞くだけ聞こうか」
咲島先生は腰を下ろした。私は先生に向かい合って気持ち背筋を伸ばす。輪を囲む調教助手の市口さんと厩務員の生島さんが心配そうな顔でこちらをじっと見ていた。
「追い込みにこだわらないでいきたいんです。スタートが上手くいったら逃げたっていい。いや、むしろ逃げたいです」
「……理由は?」
「はい。スプリングステークスが行われる中山芝千八百メートルは小回りで最後の直線も短い。加えて高低差も大きいからスローになりやすいコースです。当然、追い込み馬は極めて不利な状況になりやすい。
逃げて単独で先頭に立てれば馬群にも揉まれないしクラッシュオンユーにも負担にならない。今回のレースで必要なのは勝利ではなくて三着以内に入ることです。それなら追い込みは捨てて、逃げ残りを狙うのは悪くない」
「お前らの意見は?」
先生は市口さんと生島さんを順に見やる。市口さんが口を開いた。
「たしかに日鷹さんの言うことも一理あるでしょう。クラッシュオンユーは気性的な面があって追い込みで走ってますが、元来スタートは悪くない馬です。逃げることもできなくはない」
市口さんの話に、でも、と生島さんが口を挟んだ。
「クラッシュオンユーの武器はやっぱりあのキレのある末脚っす。逃げの走りは未知数。一番前を走った時、ちゃんと抑えが利くのかもわからないっす。もし、この大事なレースでそんなことになったら……」
ちらちらとこちらを見ながら、生島さんの声がだんだんと弱弱しくなっていく。私が皐月賞に出られなければクラッシュオンユーに乗れなくなることは厩舎関係者には周知の事実だ。
「だとよ」
咲島先生はぶっきらぼうにこちらに話を振り直した。だが、その態度とは異なり作戦を否定してはいない。こちらに覚悟を問うているのだと分かった。
「クラッシュオンユーと私ならやれます。
ここで追い込みにこだわって守りに入るくらいなら、初めてでも逃げて攻めたいです」
先生はこちらをじっと見た後、そうか、とだけつぶやいた。
ゲートが開く。
クラッシュオンユーは跳ねるようにゲートを飛び出した。その勢いのまま最初の坂を登り、内枠からあっという間に先頭へと躍り出る。
想像以上の好ダッシュである。手綱がぐいっと強く引かれる。いい滑り出しだ。だが、このペースではいかんせん早すぎる。
クラッシュオンユーの気持ちを削がないように慎重に、それでいて思い切りよく手綱を引いた。荒々しい動きが徐々に削ぎ落とされ、手に馴染んでくる。
よしよし、いい子だ。
後方とは三馬身ほど離れて先頭。
「よし……!」
思わず口元から笑みが漏れる。理想的だ。このまま、千メートルを六十秒、いや欲を言えば六十一秒ほどのスローで通過したい。ペースが緩むほど、前につけた馬が有利になるのは当然の道理だ。
そのためにこの位置に着いた。
焦るな。大丈夫だ。いける、絶対に。
『先頭を行くのはクラッシュオンユー。
四馬身ほど離れてグッドリザルト、トルメンタデオロが続きます。馬群は少し縦長になってきました。また少し離れて――』
騎手、観客、この場にいる誰もが想定していなかったクラッシュオンユーの逃げ。
それは俺も例外ではない。
勝負は正々堂々だけがすべてではない。むしろ、騙し合い、化かし合いの駆け引きこそが勝負の真髄であるともいえる。そういった点において、日鷹は見事に俺たちの意表を突いた。
それが好手か悪手か、ということは脇に置くとして、だ。
これはいわばトランプにおいて切り札を初手で切ったようなものだ。とっておきの手札は温存しすぎれば腐ってしまうが、早々に手の内を晒してしまえばじり貧である。
しかし、どちらにしてもクラッシュオンユーと日鷹がこのレースの主導権を握ったことはたしかだった。
「なにをしてくるかと思えばとんだ浅知恵だな!」
成海さんが跨るトルメンタデオロが速度を上げて先頭で逃げるクラッシュオンユーへと近づいていく。レース中盤に差し掛かる頃には、その差は一馬身差ほどになった。
「逃げて俺たちの意表を突いたつもりか?
得意になってるかもしれねえが、そんなのは奇策じゃなくて猿知恵っていうんだよ!
可哀想になあ、お前に乗られてその馬も泣いてるんじゃないか?」
「少し黙ってください!」
日鷹は振り返ることなく、矢継ぎ早に浴びせられる言葉を一言で切り捨てた。
成海さんは舌打ちする。
トルメンタデオロはクラッシュオンユーを激しくつつく。単騎逃げから二頭での競り合いの形に移った。必然、ペースは上がる。
日鷹には気の毒だがこの展開はこちらにとって好都合だ。このままのペースで流れるなら末脚鋭いバショウセンの力を存分に生かすことができる。先頭にクラッシュオンユーを見て、バショウセンとともに後方で控えた。
……五十七、……五十八、……。
千メートルを通過した。
通過タイムは、――およそ五十八~五十九秒。当初スローペースに持ち込もうとした思惑は残念ながら打ち砕かれる。それどころか例年スローに流れることの多いスプリングステークスにおいてこのタイムは相当なハイペースだ。
原因は明白。二番手につけるトルメンタデオロのせいである。
いまはこちらから一馬身離れ、静観の様相を呈しているが、先程の競り合いの影響でペースは上がったまま。クラッシュオンユーに息を入れることもできない。なんとも嫌らしい位置に張り付かれた。静観というよりは、捕食者が獲物が疲れるのを息を潜めて待っているといったほうがより正しいか。
それに、トルメンタデオロにだけ気を取られるわけにはいかない。後ろにいる十五頭、自分以外のすべての馬から狙われている感覚。自分から作戦を口に出したものの、どうにも逃げの競馬は性に合わない。
第四コーナーを通過する。
祈る思いで最後の直線を迎えた。
すべての馬のギアが一段階上がる。ターフを蹄が打つ音がひと際大きくなった。その音もすぐにスタンドからの歓声に呑まれる。
はじめに視界に飛び込んできたのはトルメンタデオロだ。黒いメンコ、荒々しい鬣が風になびく。鞍上の成海さんは先程までとは打って変わり、無言で前だけを睨んでいた。
私も前を向き直る。
『ここで先頭、クラッシュオンユー苦しくなってきたか! トルメンタデオロ並んでくる! 外から、バショウセン、デギズマンが上がってきました!
――ここでトルメンタデオロついに躱した! 残り二百!』
ゴール目前、トルメンタデオロがクラッシュオンユーを交わす。先頭が入れ変わった。
背後からも後方で息を潜めていた馬たちが襲い掛かって来る。クラッシュオンユーの勢いが徐々に落ちているのがわかる。
――ここまでか。
しかし、一着を取れずともこのままいけば三着以内はほぼ間違いない。これで皐月賞に出場することができる。よくやっ――。
瞬間、足元がうねるように隆起する。
間を置かずに強い力で手綱が引かれた。どうしたわけか躱されたクラッシュオンユーが息を吹き返したのだと、一拍遅れて気づく。
呼吸が荒い。馬という器を突き破るようにクラッシュオンユーの体内から獰猛な本性が噴き出る。全身の皮膚が足元から一気に粟立つのを感じた。
「! クラッシュ……?」
クラッシュオンユーは唸りをあげ前進し、先頭に躍り出たトルメンタデオロを再び抜き返した。
成海さんがこちらを振り向く。時を同じくして、ゴールラインを通過した。
『今、ゴールイン! 一着クラッシュオンユー! トルメンタデオロを再び抜き返し、人馬とも重賞初勝利!
いま、鞍上の日鷹騎手が噛みしめるようにゆっくりと右手を上げました!』
歓声が爆発する。
勝った。しかし、まるで現実感がない。ふわふわとした現実を逃さぬように、掲げた手をしっかりと握った。
「やったっすね!」
クールダウン後、検量室前まで来るといの一番に生島さんが駆け寄ってくる。その顔を見て、ようやくこのレースで勝つことができたのだという実感が湧いてきた。
馬から降りて、喜びを分かち合う。咲島先生は一歩引いて神妙な顔をしている。勝ったときくらい素直に喜んでくれればいいのにと思ったが、その顔の意味するところはうっすらとわかっていた。
当のクラッシュオンユーは素知らぬ顔をしている。
「……あの、先生――」
「日鷹騎手!」
大声で名前を呼ばれる。すべての視線がその声の方に吸い寄せられた。声の正体、派手な服装をしたガッシリとした男性が歩み寄ってくる。歳は四十後半くらいだろうか。
少し遅れて申し訳なさそうな顔で小柄な三十半ばほどの男性が加わる。
「なんだ木曽。いちゃもんでもつけにきたか?」
咲島先生に睨まれた小柄な男が、そんなまさか、と大袈裟な身振りで否定した。大柄な男はそんなことお構い無しとばかりにこちらに一歩進み出る。
思わず仰け反ってしまうほどの迫力だ。一体何だというのか。
「日鷹騎手! 頼む! ワシの馬に乗ってくれ!」
「……え? どういうことですか?」
頼む、と大男は体の前で祈るように手を組んだ。間違っても、断れば握りつぶす、という意味を持ったポーズではないと願いたい。
次回は3月4日(火)更新予定です。