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風光る

 一夜明けて阪神一回四日目。

 今日最初のレース、任されたのはキディドール。ダートで未勝利の三歳牝馬だ。栗東の……田知花厩舎の馬である。

 これまでに騎乗依頼はなく、田知花調教師とはトレセンで挨拶を交わすくらいだ。まともに話したのもこのキディドールの調教のときが初めてだった。

「今日はよろしくお願いします! 精一杯がんばりま――」

 先生が手でこちらの言葉を遮る。こちらを見ることなく、手で眼鏡を直した。

「お前の意気込みに興味はない。

 由比が珍しく頼み込んできたから乗せてやるだけだ。結果を出すなら今後も使う。ダメならこれきりだ」

「は、はい……」

 こちらに構わず先生は進める。

「調教の時にも話したが今日乗ってもらうキディドールはレースになると入れ込む嫌いがある。パドックでは落ち着けるために目隠しするがレースでは使わん。返し馬はくれぐれも刺激を与えんようにしてくれ。

 以上」

 一息に話すと先生は去っていった。

 大きく息を吐きだす。

 私の気持ちとは裏腹に、見上げた空は晴れ渡っていた。


 騎乗命令後、パドックで二人引きされるキディドールに近づく。すでに興奮気味なのか、ちゃかちゃかして落ち着きがない。荒い鼻息が伝わって来る。

 ――どうか暴れてくれるなよ。

 心のなかで手を合わせ、祈る想いで顔を上げると不意にキディドールと目が合った。綺麗なアーモンド形の真っ黒な瞳が私を吸い込まんばかりだ。

 その瞳に私が映る。強張った顔をした私が。

 我ながらひどい顔をしているな。苦笑いが漏れた。

「……!」

 ……そうだ。こんな顔では誰も近づいてこない。

 私が怖がれば、馬も怖がる。私が不安になれば、馬も不安になる。

 馬は私を映す鏡だ。

 馬は臆病で繊細な生き物。ただレースを走るだけの乗り物ではない。わかっているはずなのに、私は私が上手くなることだけに囚われていた。

 両頬を二度強く張る。じーんとした痛みが世界を明瞭にする。視線が一斉にこちらに向けられるがそんなことはいまどうでもいい。

「ごめんね。怖い顔して」

 キディドールの頬に触れる。脈打つ拍動とともに熱が手のひらから伝わってくる。

 ああ、君も必死に生きているんだ。

「私はあなたを勝たせるために力を貸す。だから、あなたも私に力を貸してほしい」


 春を迎えた阪神だが、今日は三月にしては少し冷える。スタンドの観客もまだ厚着をした人が多い。

「先輩、見てくださいよ。今日の弥生賞の一番人気、アマクニがもう三倍を切りそうですよ」

「競馬場でスマホばっか見てるんじゃねえよ」

 こちらに向けられた末崎のスマートフォンを手で払った。末崎が不満げに下唇を突き出す。

「でも気になるじゃないですか。ここまで三歳世代はアレクサンダーの一強ムード、アマクニが勝ったらようやくライバル誕生ですよ」

「ライバル、ねえ……」

 共同通信杯後、アレクサンダーのこれまでのレースを改めて見直したがやはり他の三歳馬とは役者が違う。アマクニもいい馬であることは間違いない。

 去年の二歳G1ホープフルステークスを勝ったピクチャレクスや、いまだ日の目を浴びていない馬もいるだろう。だがそのどれもがアレクサンダーを脅かす絵を描くことができない。去年の二冠馬であるデザートストームの同時期と比較しても軽くそれを凌駕している。

 突如として観客席がどよめく。

 すでにパドックでの周回も終わり、本馬場入場、第二レースの返し馬へと入っている。どよめきの理由はすぐにわかった。

 キディドールが首を大きく上下に振り、勢いよく馬場を駆けている。明らかに興奮した様子だ。

 返し馬は馬場状態や馬のコンディションを図る最後のタイミングになる。ここでイレ込んだり、覇気がないような馬はレースでもあまりいい着順にはこない。

 いったい誰が乗って――。

「! ……日鷹か」

 昨日の開催からずいぶんと気性難の馬ばかり乗っていると思ったが、今日もか。これまでそれなりの結果をおさめているといってもその腕はまだ若手なり、お世辞にも気性難の馬の扱いが上手いとは思えないがどうなっているんだ。

 そうこうしているうちにレースは始まった。無意識のうちにキディドールを目で追う。

 中団前目、こちらの心配をよそにかかることなく折り合っている。ダート千二百メートルの短距離戦、見事な位置取りだ。返し馬が嘘のようにキディドールは落ち着きを取り戻していた。

 もしかして――。

「……返し馬のあれはわざとか?」

 返し馬でのイレ込みは気性の面においても、体力の面においても良い影響を与えない。だがそれはあくまで一般論だ。多くの馬には適用するが、すべての馬に適用するわけではない。

 人間が緊張をほぐす方法が多様にあるように、馬にとってもそれぞれにあうやり方があるのは当然といえば当然だ。キディドールの場合、それが先ほどの返し馬。返し馬で上手くガス抜きしたことで本番のレースに余計な力みなく臨むことができたということだろう。

 ――しかし、日鷹はこの短い間でその答えを見つけたというのか?

 昨日の彼女とはまるで別人のようだ。

 そんなことを考えているうちにあれよあれよとキディドールは先頭へと抜け出し、一着でゴールラインを通過した。


 鼓動が早い。

 こんなに気持ちよく乗ることができたのはいつぶりだろうか。高鳴りはまだ収まらない。

 ゴール後、検量室前に向かうとそこには田知花先生が待ち構えていた。ひと呼吸して馬から降りる。

「……若いくせに俺の指示を無視しやがって、いい度胸だな」

 眼鏡の奥の表情はうかがえない。一着を取ったが先生の指示を無視したのは事実だ。田知花厩舎からの依頼がこれきりになっても文句は言えない。

 勢いよく頭を下げる。

「すみませんでした! 先生の指示を無視するつもりじゃ――」

「ははは! やるじゃないか!」

 破顔一笑。仏頂面が服を着て歩いているような先生がうれしそうに私の肩を叩いた。

 いきなりの出来事に茫然としてしまう。

「お前みたいに生意気な奴は久しぶりだ。若い奴はこうじゃなきゃいけねえ」

「……いや、でも、私は先生の指示を――」

「たしかに指示も守れない奴は大抵使えない人間だ。――だがな、指示通り回って来るだけの騎手は騎手という仕事をやる資格がない。指示を無視してでもときに自らの信念を貫くことも必要になる。

 俺たちがなに言おうが最後に馬とレースに臨むのは騎手だからな。

 まあ、今後は事前に相談しろよ。俺みたいな調教師ばかりじゃない。咲島みたいにひねたやつもいるからな」

「は、はい……」

 よくわからないが怒ってはいないらしい。先生がこちらに手を差し出す。

「ともかく気に入った。今度からお前にも馬を回してやる。

 ……あー、そうだ。咲島や由比(バカ共)にいじめられたらすぐ言えよ。俺が絞めてやるからよ」

 そう言って先生は豪快に笑った。

 

『ゴールイン! 一着マルデルタスクエア!

 また持ってきました日鷹青! 本日これで破竹の四連勝! そしてこれで通算三十一勝目、G1騎乗の権利を獲得しました!』

 この四連勝、一戦目からそれぞれ六番人気、五番人気、八番人気、四番人気……。人気薄の馬を一着に持ってきた。

「……なにか掴んだか」

 今日、たしかに彼女はひとつ上の段階へと進んだ。私の想定を遥かに超えて、だ。

 背中を冷たいものが走る。デビューから一年余り、異常なスピードだ。

 ひと握りの超一流の騎手の凄さ、それは理屈ではなく、もっと感覚的なところにある。どれだけ技術を磨き、どれだけレース経験を積んでもそれだけでは決してたどり着くことができない境地。

 その輝きの片鱗が彼女にはある。

 日鷹くん、君のそれは一瞬の輝きか、それとも長きに渡って君の騎手人生を栄光という名の光で照らすのか。どちらだろうね。

 ――しかし、たいした置き土産を残していったものだな、鳶島。お前とこの景色を見れないのが残念だよ。

「……日鷹くん。たしかにアレクサンダーにとって、そして一駿にとって君は脅威になり得る存在だ。

 ――戦えるのを楽しみにしているよ」


 日鷹青。

 勝鬨を上げて目指すは皐月賞。

 晴れ空の下、スプリングステークスへと視界は良好だ。

次回は2月18日(火)更新予定です。

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