春と修羅
あっという間に二月を駆け抜けて三月。春に向けて競馬の世界も熱を帯びていく。
一回阪神三日目。
桜花賞の前哨であるG2チューリップ賞が開催されるこの日も多くの観客がここ宝塚にある阪神競馬場を訪れていた。パドックには老若男女が詰めかける。
「ねえ、あれ見てあの馬!」
「ん? どれ?」
若い大学生くらいのカップルの女のほうがパドックを歩く一頭の馬を指す。その指の先では鹿毛の馬が一頭、厩務員二人に引かれていた。
「あの馬、尻尾にリボン着けてるよ。かわいいー」
その言葉の通り、馬の尻尾には真っ赤なリボンが括られ歩くたびに左右に跳ねるように揺れていた。
「ほんとだね。かわ――」
男が相槌を打ったその瞬間、その馬は後肢を思いっきり後方へ蹴り上げた。突如として整然とした輪は乱れ、パドックにはどよめきが起きる。先程まで無邪気にはしゃいでいた若いカップルは飛び上がり短い悲鳴を上げた。
厩務員が二人がかりでなんとか興奮した馬を宥める。
「……青、あれに乗るの……? 本当に大丈夫?」
騎手控え室前、隣に立つ愛が心配そうにこちらの顔を覗き込んだ。大丈夫、と返す代わりに生唾を飲み込む。
競走馬のなかには尻尾や頭にリボンをつけている馬がいる。
しかしながら、これは私たちのようにお洒落というわけではない(もちろんお洒落のためにたてがみを編み込んだりする馬はいる)。尻尾につけるリボンは蹴り癖のある馬に、頭につけるリボンは噛み癖のある馬に用いられる。こういった馬は気性面に難があり発馬機にたどり着くのも一筋縄ではいかない。
そう、このリボンは私たちに危険を知らせるものなのだ。可愛いなんて呑気な感想を述べている場合ではない。
騎乗命令がかかる。去り際、愛はこちらに目配せした。
「青からは少し離れて乗ることにするわ」
「……。助かる」
私がこれから乗る馬、ウッディパークも見ての通り蹴癖がひどい馬である。
先日、由比調教師との交渉に成功し早速乗り馬が増えたはいいものの、紹介された馬はこのウッディパークをはじめとして癖馬ばかりだった。由比厩舎はもちろん、ほかの厩舎から紹介された馬も程度の差はあれ同様である。
「……。今日はよろしくね」
血走った眼を見開いたウッディパークと目が合った。
時は少し戻り、栗東トレーニングセンター調教スタンド。
私と由比が相対するなか、それを囲むように人々が集まっていた。
「君も調教師ならわかるだろう? この時期、急に回すことのできる馬がどんな馬かなんて」
咲島を宥めようとするが、こちらの襟首を掴んで離す気配はない。
「そんな馬回すくらいならアイツの頼みは断るのが道理だろうが! 癖馬なんて怪我のリスクもあるからベテランだって嫌がる。ましてや一年目、二年目の奴に乗せるなんて――」
「そんなことはわかっている。
だが、もう用意したんだ。そんなことを話す段階はとうに過ぎてるよ」
「過ぎてねえよ……! いますぐに下ろせ。そして二度と勝手なまねをするんじゃねえ」
「……らしくないな」
「なに?」
「咲島、自分では厳しく振る舞っているつもりなのかもしれないが、彼女に対してはだいぶ過保護だね。君が彼女を引き受けると聞いた時も驚いたもんだが……。
まだ引き摺ってるのか? あのことを」
動揺なのか、咲島の眼球がわずかに揺らいだ。咲島は一度開いた口を真一文字に結びこちらの首元から手を離した。
「……勘繰るんじゃねえよ。あれは関係ねえ」
「……。そうか。悪かった。でも、少しは信用してあげたらどうだい?
私と違って、君は彼女の師匠なんだから」
向こう正面、レースはよどみなく進む。
『――おっと、ここで早くもウッディパークが上がってきます! ここで先頭に変わりました! ……しかし、これはかかっているでしょうか?
レースは後半に入ります』
「――くそっ!」
ここまでなんとか抑えてきたが、馬群に興奮したのかウッディパークのスイッチが入ってしまった。手綱を引いて抑えようとするが構わずにぐんぐんと前に進んでいく。制御が利かない。いま乗っているのが私の十倍ほどの重さのある筋肉の塊だということを嫌でも思い知らされる。
振り落とされないことに騎乗におけるリソースを大幅に割かざる負えない。全身の筋肉が悲鳴を上げる。
『――ここでウッディパーク先頭から陥落! 先頭変わって――』
体力が削られるのは騎手だけではない。当然、馬と喧嘩した状態でレースが進めばその分余計な疲労は馬に蓄積されていく。ほかの馬に少し遅れてウッディパークはゴールラインを割った。
レースが終わりウッディパークから下馬する。調整ルームのほうへ歩を進めた。
ようやく今日のレースがすべて終わった。
ずっしりとした疲労感が身体を襲う。騎乗回数が増えたのはもちろんだが、ウッディパークをはじめ一癖も二癖もある馬の騎乗が増えたこともある。今日のレース、ゴールまで乗って回ってくるので精いっぱいだった。
もはや感覚もなくなってきた手のひらを見る。下唇を噛んだ。
「なんだよ泣きそうな顔しやがって、もうギブアップか?」
猿江先輩が立っていた。できるだけゆっくり頭を振り、笑顔を作った。
「全然。そんな顔してませんけど」
「……ふーん、俺の気のせいか」
「はい、気のせいです」
猿江先輩が馬場の方を振り返る。少し遅れてそちらに視線を移す。厚い雲が空を覆っていた。
「……そういえば初めてお前と阪神競馬場で走ったのが一年前か。デビュー戦だったっけ? あのレースは酷い騎乗してたな」
そうか、あのデビューから一年経ったのか。そんなことを考える余裕すらなかった自分に苦笑いが出る。
……一年、か。一年で私は変わることができているのだろうか。
「……いまはどうですかね? 少しは上手くなってます?」
「……。そんなこと俺に聞いてどうするんだ?」
おどけて返した私に、猿江先輩はにこりともしない。気まずくなり視線を落とす。視界には灰色が広がった。
「――二週間後のスプリングステークス、俺も出る」
「え?」
「皐月賞の出走ボーダーライン際の馬だ。絶対に負けるわけにはいかない。誰がどんな思いでレースに臨んでいようと、だ」
猿江先輩がスプリングステークスに。私が勝ちます、という言葉が喉につかえる。
「……待ってるぞ」
そう短くつぶやいて、猿江先輩は去っていった。
この日、六レース乗って勝ちなし。
通算三十一勝まであと三勝。
スプリングステークスまで、――あと十五日。
次回は2月11日(火)更新予定です。




