バカ正直
由比駿明。
栗東トレセンの名門・由比厩舎の調教師だ。私の同期である由比一駿の実父である。
“大王”と呼ばれた三冠馬イスカンダルの調教師であり、三冠馬を育て上げた調教師でいまだ現役であるのは彼だけだ。そして、現在クラシック最有力であるアレクサンダーを管理している誰もが認める名伯楽である。
「レース開催日、次のレースの予定がある調教師に不躾に迫ってくることが君のなかでは大真面目だって言うのかい?」
由比調教師は静かな口調でこちらを咎める。
「……急に会いに来るのは失礼だってわかってます。しかも開催日に。それは本当にすみません。
――でも、今日でも遅いくらいなんです」
「君の志は買おう。だが物事には順序がある。そんなことはまず所属先の咲島に頼むことだ」
「咲島先生じゃダメなんです」
咲島先生から乗せてもらえる騎乗数はいまが上限であることは薄々感じられた。
「咲島に断られたのに、私に頼んで上手くいくと思っているのかい?」
「それは……わかりません。
でも、なにもしなきゃなにもはじまらないから。先生には得はないかもしれません。それでも、乗せて欲しいです」
「正直なことだ」
「……ありがとうございます」
「けれど私は正直なことは美徳だとは思わないよ。交渉をしようとするならときに狡猾に嘘をつく必要がある。自分の感情の赴くままを口に出すなんて子供のやり方だ」
「……」
「――すまない。次の予定がある。失礼するよ」
腕時計を見て由比調教師はくるりと身を翻し歩き出した。慌ててそのあとを追いかける。
「! ま、待ってください! 話を――」
由比調教師は歩みを止めることなく、通路の奥へと進んでいく。後ろ姿はどんどんと小さくなっていく。
このままではだめだ。なにか、なにか言わないと。
「こ、怖いんですか!」
通路に私の言葉が大きく反響した。由比調教師が足を止めこちらに振り向く。
「……。怖い? 急になんのことだ?」
「私が上手くなって、クラッシュオンユーにアレクサンダーが負けるのが怖いんでしょう?」
由比調教師の目の光がすっと消える。怒り、いやこちらに対する失望の目だ。
「……なにを言い出すかと思えば。そんな安い挑発に乗るとでも?」
「答えてください」
暑くもないのに額を汗が一筋伝った。
ここで引くわけにはいかない。どういう理由であれ由比調教師は足を止めてくれた。
どうせこちらには碌な手札などないのだ。
ここでなにもせずに帰られるのと、みっともなく足掻いて帰られることに違いはない。だったら最後まで足掻いてやる。
次に発する言葉を選ぶために頭を巡らせる。
「……怖くないレースなどないよ」
「え?」
想定外の返答に思わず声が裏返る。返す言葉を探すが咄嗟の出来事に言葉が出ない。
「日鷹君、私は下手な騎手が嫌いだ。なぜかわかるか?」
「……え? なんでって、それは、……下手だから?」
突然脈絡のない質問を返され、なんとも間抜けな答えが口をつく。
「下手な騎手は馬を不幸にするからだ。
レースで結果が出ない馬の未来は決して明るくない。競走馬の名の通り彼らは生まれながらに“競争”の宿命を背負う。
たったひとつのレースがその馬の命を決めるんだ。こんなに恐ろしいことはない。この歳になってもいまだに夢に見るレースだってある。
君はどうだ?
鐙に足を掛けるとき、手綱をその手に握るとき、その重みを感じているかい?」
由比調教師は滔々と言葉を紡ぐ。
大勢の観衆が押し寄せている競馬場でこの場所だけがやけに静かに感じた。
「君に騎手としての意地があるように、私にも調教師としての矜持がある。
私は下手な騎手を乗せるつもりはない。
そもそも君が乗せる価値のある騎手だったら私に懇願に来ることなどなかったはずだ。だが、いま君は私の目の前に立っている。
私が言うまでもなく、君自身が一番自らの評価をわかっているだろう?」
一度ゆっくりと目を閉じ、大きく息を吸う。その間、由比調教師はなにも言わずにこちらを見ていた。
「……たしかに私がもっと上手ければ、もっと騎乗依頼は増えていたと思います。
これまでもたくさんチャンスはもらいました。咲島先生に、父に、ほかにもたくさんの人から数えきれないくらい。
それを活かせなかったのは私のせいです。
たしかに私は先生の言う下手な騎手だと思います。でも、……いや、だからこそ上手くならないといけないんです。
下手な騎手のままでは、いられないから」
「……それで言いたいことはすべてかい?」
由比調教師の言う通り、もっと上手い言葉はあるだろう。しかし、いまこの瞬間、私の気持ちよりも相応しい言葉を見つけることができなかった。
「はい」
目を逸らさず、できるだけはっきりと返事をした。
しばらく無言が続く。少し経ち、由比調教師は首を小さく左右に振った後、小さく息を吐いた。
「……一か月、君に馬を回そう」
「! ……ほ、本当ですか!」
「ここで断ったらどうせほかの調教師のところへ行くんだろう? そんなことをされても迷惑だ」
「……! ありがとうございま――」
「勘違いをするな」
由比調教師は勢いよく頭を下げる私を制する。
「……はい?」
「私は君を認めたから馬を回すわけじゃない。
いうなればただの気まぐれだ。君が口だけだと私が判断したら、その段階で馬を回すのは終わりにする。いいな?」
「……! わかりました。
絶対に後悔させません。必ず私、上手くなります!」
数日後、栗東トレセン。
調教スタンドからトラックを眼下に見下ろす。今日は所属馬の最終追い切りの日だ。
少し経つと俄かにあたりがざわつき始めた。咲島が険しい表情で肩を切ってこちらに近寄って来るのが見える。こちらに気付くと足早に近づいて来た。
わざとらしく音を立てて咲島が隣に腰を下ろす。
「……俺が見てねえところで随分と余計なことをしてくれたな」
目がギョロリと動きこちらを睨みつける。
「……彼女に一瞬、鳶島の姿が重なって、ついね。私も歳をとってしまったな」
「なにが目的だ?」
「目的? 別にそんなものはないよ。私は馬を用意してあげただけだ」
咲島の胸元で携帯が鳴る。出るように促すが、咲島は誰からかかってきたのかを確認することもなく携帯を切った。
「昨日からこの調子だ。田知花のクソジジイからもかかってきやがった」
「私の管理馬では彼女を乗せられるような馬には限りがあるからね。ほかの調教師にもお願いした。
彼女の希望に沿っただけだ。なにか問題があるかい?」
咲島に胸倉を掴まれる。不思議なことに不快感よりも懐かしさが勝った。若い時はお互い血の気が多かったものだ。
「そういう内容の電話じゃねえってお前もわかってるだろ」
「……馬には乗せる。だが、私がいま彼女にしてあげられるのはこれだけだ」
大きく舌打ちした後、こちらを掴む力がさらに強くなった。
「由比。お前、あいつを潰す気か?」
次回は2月4日(火)更新予定です。




