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皐月賞への切符

「馬鹿なことをしたもんだな」

「他人のこととやかく言える立場じゃないでしょ。お父さんは」

 みずきさんがあきれた声を出す。

 咲島先生はそんなことは意に介さずに手元の新聞をめくる。午前中の調教終わり、つかの間の休息の時間だ。新聞の見出しには大きく『番場』の文字が載っているのが見えた。

 いいニュースであれば歓迎すべきところだが、残念ながらそうではない。

 『新人・番場稔騎手、暴力行為で騎乗停止』。

 それが今回の見出しだ。

 先日、私の目の前でそれは起こった。激昂して殴りかかった番場の拳は成海さんの左頬を捉えてあたりは騒然。幸いなことに成海さんの怪我はたいしたことはなくその後のレースも騎乗したが、加害者である番場には開催四日間の騎乗停止処分が裁定委員会から下された。

「いい三歳馬にも乗ってたが、これで少なくとも春のクラシックはおじゃんだな。有力馬は全部乗り替わりだろう。いくらあの番場の息子でも乗せるメリットに対してリスクが見合わねえ」

「……私が止められていれば」

 あの時、番場のすぐ近くにいたのは私だ。私の体があと少しでも早く動いていればこんなことにはならなかったかもしれない。

 不意に背後から両肩を掴まれる。みずきさんだ。

「青ちゃんは悪くないわ。どんな理由があったって殴っちゃった子が悪いんだから。あなたが気にしちゃダメ」

「……でも」

 咲島先生が無造作に新聞を置いて立ち上がった。

「いつまでもうじうじしやがって。その同期のことよりも自分のことを気にした方が良いんじゃないか?」

「? ……どういうことですか?」

「クラッシュオンユーの次走が決まった。三月、中山で開催されるG2のスプリングステークスに出す」

「!」

 スプリングステークス。

 同じくG2の弥生賞、リステッド競争の若葉ステークスとともに春のクラシック初戦・皐月賞のトライアルレースに設定されており、規定の順位以上に入れば収得賞金※1に関係なく優先出走権を得ることができる。

「クラッシュオンユーの現時点での収得賞金は四百万円。皐月賞に出走するために必要な賞金のボーダーラインは、年によって前後するがここ最近はおよそ一千万円前後――」

「三着以内に入ればその賞金に関係なくレースに出れるんですよね!」

 裏を返せば、上記三レースで配られる優先出走権を取ることができなければ、その八枠を除いた残り十個の出走枠を争うことになる。

 しかしながら、ここを落とせば皐月賞までにクラッシュオンユーが賞金を積むことのできるチャンスはもうない。

「……ああ、そうだ。

 だが、もし三着以内に入れないようなら()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「! どうしてですか! 武市さんがそう言ったんですか?

 それに先生だって、まだG1は気にしなくていいって言ってたじゃないですか!」

「気が変わった。馬主も関係ない。

 もし結果を出せないなら、この厩舎に所属しているうちはお前をあの馬に乗せることは絶対にない。お前を下ろすことで他所の厩舎にあの馬が移ることになったとしてもだ」

「……そんな、この間のシンザン記念だってアマクニがいなかったらもっと――」

「あの馬がいなかったら、この馬がいなかったら。こんな展開だったら、あんなことが起きなければ――。

 お前の感想や言い訳なんて馬にとっちゃ関係ねえ。

 短い現役生活、馬は一戦一戦命を削って走ってるんだ。また次頑張ろうなんてものはない。

 馬にとって目の前のレースがこれからのすべてだ。

 この馬でクラシックの舞台に立つことができないなら、お前がこの馬に乗る資格はない」

「……取ってくればいいんですよね? 皐月賞への切符」

「……」

 咲島先生は無言のまま、頷くこともない。

「先生には伝わってないかもしれないですけど、私だって一戦一戦、全部のレース勝つために乗ってます。いろんな馬に乗ってきたし、いろんなレースも走ってきた。YJSでは同年代の騎手たちにたくさん刺激を貰ってきました」

「口ではなんとでも言える。そんな口だけの奴はこれまでごまんと見てきた」

「じゃあその目で確かめてください。口だけじゃないってこと。

 私、いや()()()で必ず皐月賞に出ます」


 電話が鳴る。

 着信画面に表示されているのはよく見知った名前だ。画面を指でスライドした。

「――はい、成海です。久しぶりですね卓さん」

『ああ、久しぶりだな、竜児。

 今回の件、本当にすまなかった。本当は電話じゃなくそっちに顔を出せたらよかったんだが』

 電話口の相手は番場卓。

 南関東競馬所属時代には騎手としての礼節からレースでの駆け引きまで数えきれないほどのことを教えてくれた。今の俺があるのはこの人のおかげであることは疑いようがない。

「やめてくださいよ卓さん。俺は別に怒ってません。だいたい成人してる息子の粗相に親が首を突っ込むもんじゃない」

『しかしだな……』

「これは俺と稔の問題です。

 ――はい、この話はおしまい。

 せっかく久しぶりに話すんだからほかの楽しい話しましょうよ。なんかないんですか?」

『……そんなこといってもな』

「――そうだ、卓さん。トルメンタデオロって馬知ってます?

 去年のダービー馬の全弟。

 ルピがクラシックはほかの馬に乗るから俺に回ってきたんですよ。この前初めて乗ってみたんですけどいい馬でした。ルピはうまく乗れなかったみたいですけどね。

 でも、俺は違う。

 この馬で皐月賞、いや、ダービーだって取って見せますよ」

『……ダービー、か』

「楽しみにしててくださいよ。

 まず手始めに、こいつと“スプリングステークス”勝ってくるんで」


 

※1

 収得賞金は、本賞金(レースで五着以内に入ると支払われる賞金)とは異なり、競争条件を区分するために設定されている賞金のこと。競争のクラスによりその額や参入する額の条件は異なりますが、今回のクラッシュオンユーの場合、第三戦の新馬戦一着(四百万円)のみ賞金が加算されています。

 ちなみに、二〇一九年の夏から競走馬のクラスとして一勝クラス、二勝クラス、三勝クラスというものが採用されていますが、それまではそれぞれ五百万円以下、一千万円以下、千六百万円以下という呼称が用いられておりこちらは収得賞金に由来します。

次回は1月7日(火)更新予定です。

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