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いさなとり

 先程までの雨は嘘のように上がり、レースが再開される。

 発表された馬場状態は“不良”。

 水を含んだコースにはところどころ水溜りが浮かんでいる。

 YJSファイナルラウンド第二戦が行われるのはダート千六百メートル。観客席側ホームストレッチからスタートし、コースを一周する設定だ。先程の短距離戦より六百メートル長い、いわゆるマイルレースであることもあって、さらに騎手の駆け引きが問われてくることになるだろう。

 ゴーグルを四重にかける。

 道悪になれば砂は泥へと変わり、跳ねた泥は時に視界を覆う。一瞬の判断が勝敗に、そして生き死にに関わる競馬においてそれは致命的なことだ。

 ダートを走るときにはゴーグルに加え、ダート板と呼ばれる透明なプラスチックの下敷きのようなものをゴーグルの上に着けるのだが、この馬場状態で一レース持つ保証はない。泥を被ったダート板やゴーグルは逐次レース中に使い捨てることになる。

 もし最後の一枚が泥を被ったらどうするかって?

 その時はその時だ。その時どうするかは未来の私に任せてある。よろしく。

 ふと、隣から視線を感じる。由比だ。

「……なんか言いたいことでもあるの?」

「いや、さっきはありがとう。少しすっきりした」

 そう言って由比が小さく笑った。普段にこりともしないくせに気味が悪い。

「アンタって笑うことあるんだ」

「……僕をなんだと思ってるんだよ。笑うくらいするさ。

 それに昔からお笑いが好きなんだ。お笑い芸人を目指してたこともあるよ」

「……。真顔で言うのやめてくれない? ボケかどうかわからなくなるから」

「ボケじゃないよ。

 ……まあ、まだ馬にも乗ったことがないくらい小さい頃の話だけどね」

「そう。芸人じゃなくて騎手になってくれてよかった」

 どう高く見積もってもお笑いの道は向いてないだろう。神様もひどい罠を仕掛けるものだ。

「そうだね。騎手になったおかげで日鷹やいろんな人と競うことができてるし。父には感謝してるよ」

「……そういうエモい意味で言ったわけじゃないけど……。まあ、いいか」

 騎乗命令がかかる。話は終わりだ。

「いいレースにしよう、由比」

 去り際、私の言葉に由比は静かに頷いた。

 

 ゲートが開いた。

 荒れた馬場を馬たちの蹄が激しく叩く。濁った水飛沫が上がった。

 先頭を行くのは、剣が乗るファイアブランド。そしてその後ろにぴったりと張り付いたのは千崎の乗るドッグイートドッグだ。後続馬も続々と後に続く。

「千崎君がまた二番手ですね」

「ああ。戦績は派手だがああ見えて根っからのマーク屋。ターゲットを絞ったら徹底的にマークし、最後の直線で躱す。千崎が得意とする形だ」

「そういえばさっきも由比くんの後ろをつけてましたね」

「今回のターゲットは剣ってところだな」

 やはりこういう展開になったか。

 芝もダートも基本は逃げ先行、つまり集団の前を走る馬が有利だ。

 ダートの場合は後方の馬が蹴り上げられた砂を被ることや、足抜きの悪い馬場で差し切るためのスピードが出しきれないことからその傾向はより顕著になる。

『――先団固まりました。

 その後ろスーパーマリン、ブリリアントアワー。一コーナーから二コーナーです。先手取り切ったのはファイアブランド。そのすぐ後ろドッグイートドッグ、さらに一馬身差――』

 不良馬場と一口に言っても、芝とダートではその性質は大きく異なる。

 芝においては、その植えられた路盤が水を含むことで柔らかくなり、普段よりもパワーが必要となり時計がかかる。

 一方、ダートにおいては砂が水を含むことでまとまり、脚が沈み込まなくなることで走りやすくなる。つまり、その字面とは裏腹にタイムは早くなるのだ。

 ダートレースにも関わらず、馬に求められるものがパワーからスピードへと変わる。普段と違い前が止まらない馬場になることをわかって若手騎手たちもこぞって前へと詰めかけているのだろう。

 しかし――。

「……どうもペースが早いな」

 

 千崎が後ろにピッタリとつけてくる。

 マークされることは珍しくもないが、圧を感じる。心理的というよりも、物理的に距離が近い。千崎は一歩間違えれば大事故に繋がりかねないほどの距離をキープしている。

 技術はもちろんだが、自分の騎乗によっぽど自信があるのだろう。

「剣!」

 千崎がこちらへ言葉を投げかける。

「……」

「おいおい、無視かよ? ビビってんのか?」

「……よく喋るね。さっきのがそんなに気に障った? 変わらないね、教養センターの頃から」

 千崎が舌を鳴らす。

「……黙れよ下手くそ。

 見せてやるよ、実力の差ってやつを」

 心なしか千崎がペースを上げる。それに合わせる形でファイアブランドの速度を上げた。

 第三コーナーが近づいて来る。そろそろ残り六百メートル。

 ――しかし、不気味だ。

 千崎と競り合っている最中、由比くんも日鷹さんも一向に姿が見えない。

 胸がざわつく。この感じどこかで……。


 汚れたゴーグルをひとつ外す。

 ダート板はすでに使い物にならなくなり、前方から蹴り上げられた泥や砂、水が痛みを伴って容赦なく顔にふりかかる。

 残るゴーグルはあとひとつ。

 だが、もう心配はないだろう。あとはここから差し切るだけだ。ここまでくればもう――。

 鈍い音がする。

「……」

 跳ね上げられた泥が視界を覆った。

「――あー、もう!!」

 空いている手で勢いよく最後のゴーグルを外す。フラッグホリデイに鞭を入れた。


『――三コーナーカーブ六百を切りました!

 先頭はファイアブランド、リードを保ったまま。ドッグイートドッグが襲ってきます!

 ――おっとここで、追い上げてきたのはフラッグホリデイ! その後ろメイクエムラフも上がる!』

「おお! 後ろから来ましたよ!」

 末崎が叫ぶ。

 ダートは逃げ先行馬が絶対的に有利だ。

 ――しかし、そんなダートにおいても差し馬が有利になる条件というものが存在する。

 ひとつが重や不良といった道悪の馬場になっていること。そしてもうひとつがハイペースでレースが展開していることだ。

 先述した通り、ダートは道悪になるほどにスピードが出やすくなる。後方脚質の馬にも大きなチャンスが生まれてくるのは言うまでもない。

 当然、差し馬以外も馬場の恩恵を受けるが、時にそれは気づかぬうちに自らを蝕む毒となる。

『四コーナーから直線! ここで苦しくなったかファイアブランド失速、先頭変わってドッグイートドッグ! 外からはフラッグホリディ、メイクエムラフ――』

 スピードが出やすいからといってハイペースになれば、逃げ先行馬はラストスパートでガス欠になってしまう。このレース、若さが出たのか明らかにハイペースでレースが進んでいた。

 先頭は千崎のドッグイートドッグに変わったが伸びがない。

 レースの勝者は二頭に絞られた。

 日鷹が乗るフラッグホリデイ、そして由比が乗るメイクエムラフだ。

『――外からはフラッグホリデイ! 間からメイクエムラフが上がる!

 メイクエムラフ! フラッグホリデイ! フラッグホリデイか!?

 フラッグホリデイ!! わずかに躱してフラッグホリデイいまゴールイン!

 直線激しい追い比べ、制したのは日鷹騎手が乗るフラッグホリデイ! 千崎騎手の連勝もここでストップ!』

 スタンドでは歓声と嘆息が入り混じる。そんなことはお構いなしとばかりに、泥にまみれた日鷹が大きく拳を掲げた。

「すごい! ダートでこんなに後ろから伸びてくるの初めてみました!

 やっぱり雨が降るとレースは別物ですね!」

 末崎が興奮気味にまくし立てる。

 たしかに、今回の条件は差し馬が有利になる条件が揃っていた。

 だが、口で言うは易し。

 いくら差し馬にチャンスがあるといっても実際、どう展開するかなど走ってみなければわからない。展開の読みが外れれば大敗、優勝争いからは大きく後退することになる。

 ここでその選択をした彼女たちを褒めるべきだろう。

 それよりもっと注目すべき点は他にある。二人の位置取りだ。

 由比も後方からの差しの競馬を仕掛けているがそのポジションは日鷹よりも二馬身は後ろ。それが由比の判断したデッドライン。それより前で走れば、最後の直線で脚が上がってしまうと判断したのだろう。

 しかし、日鷹はそれよりも前で位置取った。

 それが最後の競り合いで差を生んだのだ。

 差しの競馬における勘だけでいえば由比に引けを取らない。いや、その一点だけ見れば現時点で由比すら越えているかもしれない。

 ……いや、それは買いかぶり過ぎかな。しかし、どちらにしても見事な競馬だった。

「……やるじゃないか日鷹青」


 佐賀での初戦、日鷹さんがレースで見せた鮮やかな差しが脳裏によぎる。さっきの既視感の正体はこれか。そして、今回は由比君を躱して一着まで取って見せた。

「……くそっ!!」

 千崎が苛立ちを見せる。

「僕も君も少し頭に血が上りすぎたみたいだね」

 作戦も位置取りも間違っていなかった。しかし、千崎を意識しすぎたらしい。先頭の僕と千崎の僅かな狂いが後続馬にも伝播し、それが結果としてこのハイペースを生み出した。

 そして、脚が上がったところを二人は見事に差したわけだ。

「……」

 ……まさか彼らはこうなることまで読んでいたのか? さっきまでの控室のやり取りを見てこの展開になることを。

 視線を前に移す。二人の背中が遠くに見えた。

 

 第二戦、勝者は日鷹青。

 その後の第三戦も無事終わり、ユースフルジョッキーズシリーズ・ファイナルラウンドは中山競馬場へと舞台を移す。




次回は10月29日(火)更新予定です。

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