TSK
たった
3分で
恐怖に突き落としてやろう
〜 〜 〜 〜
「さあ、ポチお散歩に行くよ」
喜多川はるかは庭に出ると、愛犬の名を呼んだ。
静かだ。
犬小屋にまるで犬などいないかのように、辺りは静まり返っている。
壁際に密生した背の高い雑草が、音もなく揺れた。
「ポチ……?」
不審に思いながら、はるかは犬小屋に近づいていく。
権造が作ってくれた手作りの犬小屋が、なんだかやたらと古びているように見える。
中を覗き込むと、やはり犬はいなかった。
「大変!」
はるかは家人のいる屋内に向かって叫ぶ。
「ポチがいないわ! 繋いでた鎖もない!」
しかし家の中にも家人の気配がない。
「ねぇ、あなた!」
夫を呼んだが返事がない。
「真希子? 辰彦?」
子供たちの名を呼んだが、やはり返事はなかった。
さっきまで一緒に食事をしていたはずなのに──
ふと自分の手を見て、はるかは叫び声をあげた。
その手に持っていたはずの犬の散歩用のリードが、いつの間にか太い藁のロープに変わっている。
まるで首吊りに使用するような、あるいは既に使用されたような、赤黒い何かが染み込んだ、古いロープであった。
「あなた……! あなた!」
ロープを投げ捨て、はるかは家の中へ駆け込んだ。
家の中も静まり返っていた。
「あなた!」
はるかは一階を探し尽くすと、子供たちがいるはずの二階へと駆け上がる。
「真希子! 辰彦!」
子供部屋のドアをノックし、開いてみて、息が止まりかけた。
子供たちがそこにいないばかりか、まるで廃墟のようになっていたのだ。
畳はささくれ、カビが生え、板の間はめくれあがり、天井を仰ぐと何やら白い染みが無数に走っている。
「何よ……、これ!?」
はるかは逃げるように自分たちの寝室へ戻った。
ここはいつもと変わらなかった。ただ、夫の姿はどこにも見当たらない。
「みんなで私を騙しているの……?」
はるかは狂いそうになりながら笑い声をあげる。
「出てきてちょうだい! どこかに隠れているんでしょう!?」
ふと、ドレッサーの鏡に気になるものが見えた気がした。
それは何かわからないが、とても恐ろしいもののように思えた。
おそるおそる、鏡を覗き込んでみて、はるかは絶叫した。
確かに最近、ほうれい線が浮き出してきたことが悩みのタネではあった。しかし、鏡に映るそれは、ほうれい線どころではない。脳味噌のシワのようなものが顔中にびっしりと広がっている。
はるかは恐怖であっという間に髪の毛が真っ白になってしまった。
娘の真希子が帰ってきた。
「お母さーん?」
裏口のドアを開けると、呼びかける。
「タケノコ貰ったから、お裾分けに来たわよ? いる?」
寝室のほうから啜り泣くような声が聞こえるのに気づき、娘は急いで駆け込んだ。
見ると母のはるかがベッドで布団をかぶって震えている。
娘は優しく布団の上からさすると、声をかけた。
「お母さん! どうしたの? 大丈夫!?」
するとおそるおそる布団の中から顔を出した母が、恐怖にまた目を見開いた。
「だっ……、誰!? アンタ……不法家宅侵入よ!?」
「あたしよ、あたし」
安心させるように娘は微笑んで見せる。
「真希子よ。あなたの娘の、真希子」
「真希子はまだ7歳よ! アンタみたいなおばさんじゃないわ!」
「落ち着いて、お母さん」
娘は優しく母の頭を胸に抱きしめた。
「……またポチの散歩に行こうとしたのね? ポチは38年も前に死んでるの。それこそあたしが7歳の時に、ね。思い出して? お父さんが死んでから、独り暮らしの寂しさに耐えきれないのね? なんとかするから……。お母さん、辰彦のところが嫌なのなら、うちで引き取るようにお願いしてみるから……ね?」
真希子にそう言われ、段々とはるかは思い出した。
「ああ……。私、いつの間に、こんなに齢をとったのだろう……」
喜多川はるか73歳にして、今更ながらに自分の老いに恐怖を感じるのであった。