36.その答えを知る時
イリス
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マクシムからされた事が今でも信じられず、馬車の中で震えが止まらない。
どうして、あんな事するの?
まだ返事も決まってないって言ったのに……
誰かに、慰めてもらいたい。
誰かに、そばにいて欲しい……
そうしてもらいたい人は分かっているのに、その人にはきっと会えない。
だけど……
こぼれる涙は頬から落ちていくばかりだった。
馬車が止まり、一刻も早く自分の部屋に逃げ込みたいと思って、従者の人が扉を開けるのも待たずに屋敷へと駆け込んだ。
外も暗かったけど、玄関の中は薄暗く、廊下の周りにいくつかの蝋燭が灯されているくらいだった。
そんな寂しげなところを早く通り過ぎてしまおうと足早になろうとした時、何か人影のようなものが目の端に映った。
一瞬、ドキリとして横を見上げた時だった。
その気配は間違いない。匂いも、こちらを見下ろしているそのシルエットも。
まさか、私の願いが本当に届いたの……?
現実なのか幻想なのかも分からず、気づいた時にはその懐に迷わず飛び込んでいた。
確かな温もりを感じたと同時に、私の腰と背中には逞しい腕が回された。
やっと安心できるところに戻ってこれた……
自然と固さのある胸元に顔を埋めて、行き場を失った手をその服に押さえ付けていた。
これで……これで怖いものなんて、何もなくなる。
そう心から思えた。
「何してんだよ、離れろよ」
その低い声にハッとして、目を見開いた。
服を掴んだまま動けずにいると、両肩を強く掴まれて、その心地よい胸元から体を引き離された。
思わず見上げたその表情から見える瞳は、いつも以上に冷たく鋭いものだった。
……そして、全てを思い出した。
抱きついてしまったその人は、私のことを忌み嫌っている人だってことを。
それが分かっていたから、私は騎士の鎧をまとってこの人と接することを誓ったのに……
なんて馬鹿なことをしてしまったんだろう。
一気に体中が冷え切るようになって、下を向いて襟元に手を当てながら、その場から立ち去ることにした。
このまま、何事もなかったことになれば、もうそれでいい。
あの人だって、今までさんざん避け続けてきたんだから、今さらこんなことしたからって、何も言ってこないだろうし……
そうして、2階の自室へ向かおうと階段の方へ駆け足で曲がろうとしたら、
「おい、逃げるなよ」
少し大きい声にビクッとして立ち止まってしまった。
静かな廊下にツカツカという靴の音が近づいてくる。
「お前さっきキスしてただろ」
背中から掛けられた抑えられた低い声に、まさかと思って顔だけ少しずつ後ろに振り向けていた。
「し、してません」
かろうじてそれだけ言えたけど、マクシムとのこと見てたの……?
近づいてくるその姿から苦しいくらいの威圧感を感じる。
「あそこは俺の職場でもあるんだよ。よくも俺の目の届くところで……さっきの真似も、手の届く男になびいたものの侯爵家を捨てるのが惜しくなったんだろ」
彼は私の前から3歩ほどのところで立ち止まって、そう言い放った。
「どうして、そんなひどいこと言うの? た、確かに彼からそうされそうになったけど、私は何も……」
そう言ったら、暗い中でも光るその瞳が瞬間的に見開いたのが分かった。
「嘘つけよ! 俺はこの目で見たんだよ、お前が頬を赤らめて、相手に応じる素ぶりを!!」
驚くくらいの激高に私の体はガタガタと震え出した。
私、そんな顔してたの……?
「いいか、お前がどう思ってるか知らないが、俺の婚約者だってのは変わらない事実なんだよ。それを……侯爵家の家門に泥を塗りやがって。この恥知らずが!!」
彼はさらに続けて、そんな言葉を吐き捨てた。
顔が下の方から熱くなってきて、再び熱い涙がこみあげてきた。
「婚約者、婚約者って……食事も共にせず、皇城にも私1人で行かされて、舞踏会の約束だって音沙汰なし!! 婚約者らしいことなんて何一つしてないくせに、こういう時だけもっともらしい事を言うのはやめて!!!」
ああ、どうしよう……
感情に任せてこんなことを言ってしまったけど、目の前が涙で何も見えなくなってしまった。
頭も朦朧としてきた。
「私は……どうすればいいか、分からなかったの……」
自分の頭の中の声なのか、本当に言っているのかも分からなかった。
さっき自分がしてしまった光景と、激しく怒鳴られた声とが点滅するみたいに目をつぶったまぶたの裏で交錯している。
「ただ、助けて欲しかったから……」
ラドルフ
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目の前で泣きじゃくる姿に気づいた時、自分のしでかした事の大きさに徐々に正気が戻るような感覚を持った。
助けて……欲しかった?
どういうことだ……
あの男にされたことなのか?
それじゃあ、さっきの行動は……助けを求めて?
血の気がさっと引いていくようだった。
「……イリス」
声にしたその名は、自分でも思った以上に弱々しかった。
俺は、なんでこんなに馬鹿なんだろう……
大事な存在である人をあんなに罵倒して。
手を伸ばして、頬を伝う涙をぬぐおうとした。
しかしその瞬間、さっき見た別の男が彼女の頬に手を差し伸べていた姿と重なってしまった。
そしてその後、彼女の唇を奪おうとした……
それがフラッシュバックした途端、涙をぬぐおうとしていた手はその肩を掴んでいて、彼女を力任せに引き寄せていた。
そして、その唇に、自分の唇を強く押し当てていた。
誰にも……誰にも渡さない……
しかし、それをしたと同時に、自分の体が持ち上げられる感覚がした。
何が起こっているのかも分からないまま、強い衝撃が全身に当たり、一瞬にして視界が白く濁っていった。