35.見てはいけないもの
ラドルフ
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「侯爵子息様、超特急で仕上げさせていただきました」
皇城での勤務のあと、頼んでいた指輪の受け取りに帝都へ向かった。
グレーの色をした小箱に収められた黄金色に輝く輪に、透明度の高いライトグリーンの石が品良く収められていた。
それを懐に忍ばせて、店を後にする。
馬車に乗り込み一息つくと、これをいつ渡そうか……タイミングを考える。
ともかく、急がなくてはならない。
明日……いや、今日にでも。
走る窓の外を見ると、日は暮れかけて空は赤く染まっていた。
屋敷に帰宅したところで、門衛に尋ねる。
「イリスですか? 今朝、皇城へ向かうと聞いたきり戻っていませんが」
残り1週間──文化保存会の発表が目前に迫っている。
……ならあの真面目な彼女のことだ、図書館にいるに決まってる。
彼女の友人たちへの熱意は嫌と言うほどよく分かっていた。
邪魔をしたくない……そんな気持ちもなくはないが、それまで自分の気持ちを押し留めることなど、到底できない……!
そのまま、乗っていた馬車を皇城へと戻した。
馬車を降りると、外はすっかり暗くなっていた。
もう1台の我が家の馬車も待機所に留めてある。
最近は顔を合わせることもできなくなり、そばへ向かうこともなかったが、この場所で作業する彼女の特等席。
第2閲覧室の左から3番目のデスク。
階段を登るたびに、懐の小箱が重みを増していく気がした。
彼女の席は、第2閲覧室の――左から3番目。
その一角に、人の気配。
……いた。
そこに目当ての人物がはっきりといるのが見えた。
しかし……その目の前には、白い騎士服を着た男。
灯火に照らされ、やけに眩しく見える白。
彼女に手を伸ばすその腕が、腹立たしいほど穏やかで悠然としていた。
誰だ……?
下を向いて俯いている彼女に向かって腕をゆっくり差し出すと、その男は彼女のアゴに手をかけてクイッと顔を上向かせた。
彼女の大きな瞳は潤んでいて、頬は紅潮していた。
まさか……
小箱を握りしめていたはずの指の力は緩んでいて、何が起こっているのか頭の中で理解するとともに、顔面から血の気が引いていった。
男の顔が彼女に覆い被さったとき、俺はそれ以上見ていられずに踵を返していた。
階段を降りる足が駆け足になっていく。
血の気が引いていたはずなのに、鼓動がどんどん速まっていく。
「なんだ……今のは……?」
図書館の玄関口に辿り着き、柱に手をつきながら足を止めて呟いたものの、目の前がクラクラとし始めて、やっとの思いで馬車の中へと戻っていた。
「……坊っちゃま、いかがなさいますか?」
馬を操る従者の声もどこか遠くに感じる。
「屋敷へ……屋敷へ戻ってくれ」
駆け出し、揺れる馬車の中で、こめかみに手を当てながら、かろうじて息を整える。
さっき目にした光景が、今も目の前で繰り広げられてるように鮮明に焼きついている。
イリスが……イリスが他の男と? 夢の中で俺にしてくれていたことを……?
いや、そんな真似をするはず……でも、あの時の顔は……
頭の中がカーっと熱くなり始めた時、
ガコンッ!
馬車が何かに乗り上げたらしく、一際大きく揺れた。
そのおかげで少し冷静さが取り戻せたような気がして、あの皇族騎士の顔を思い出す。
ウェーブがかった黒髪に、純朴そうな瞳。
……思い出した。
先日、図書館警護の担当騎士が変わり、あの男が職場に挨拶に訪れた。
名は”マクシム・グレン”。
グレンといえば、ロスペリア地区にある男爵家のはず。
頭の中に記録している貴族家マニュアルを高速でめくりながら、その名を探す。
……あった。
現当主グレン家の次男。素朴な性格ながら卓越した運動神経を持つ。
そして――イリスと同期で、彼女の故郷と隣り合わせの土地に生まれた男。
――田舎の男爵家の娘として自分に見合った生活を送ること……
私にはそれが1番いい人生だと思うんです
いつぞやか、彼女が言っていたセリフ。
学生時代からよく知る相手に、見合った暮らしができる男。
「そうか……そういうことかよ」
こめかみから指をはずして、天井に向かって首をそらしていた。
自嘲気味に笑いが込み上げる。
俺が、ぐずぐずしてたから。
本当に他の男に取られた。そういうことか?
したくもないのに、懐の箱に手を触れていた。
俺がどんな想いで、これを渡そうと思ったか、考えてもいないんだろう?
まさか、ここまで俺を馬鹿にしていたとは思わなかった。
形だけとはいえ、俺たちは婚約者同士だろ?
……こんな形で冷静さを失う自分もまた、情けない。
怒りと、悔しさと、自己嫌悪。
それがない交ぜになって胸を焼いていた。
屋敷に到着したとき、くすぶるような痛みが体中から湧き出るような錯覚を覚えた。
少したち、玄関先に馬の蹄の音が聞こえ、馬車が止まった。
……帰ってきた。
玄関ホールに立ちすくむと、外の扉が開き、慌てたような素ぶりの女が中に入ってきた。
こちらに向かってきたが、まだ気づいていない。
近づいてきたところで、やっとここに立っているのに気づきパッと顔を上げた。
夜で薄暗いこの室内でも、その瞳が濡れているのが分かった。
そして……こちらの顔を認識したような素ぶりを見せた途端、彼女は俺の懐に飛び込んできた。
反射的に腕が動き、抱きとめてしまった。
その顔を胸に埋ずめて、服を掴んだ手には力が込められている。
その温もりに胸が震え……そのまま抱きしめ返してしまいそうになる。
――はずだった。
「……何してんだよ、離れろよ」