34.助けを呼ぶのは
イリス
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本当に、本当に避けられてる。
あの舞踏会から数週間、通勤も食事も別。
ウーリス団長からのあの一言が頭に残る。
「お前には、騎士としての誇りが宿っている」
……私の名前、“イリス”。
それは、一族に伝わる“英雄イリス”から来ているらしい。
騎士団に戻れる保証はないけど、今やるべきことは決まってる。
女騎士たちの未来のため、論文を完成させる。
……マクシムからの申し出にも、まだ答えは出ていなかった。
平凡だけど穏やかな未来が手の中にあるのに、踏み出せない。
それでも今、私がやらなければならないのは――
騎士の誇りにかけて、この論文を書き上げることだ。
今日はそのために、図書館へ行こう――。
いつもの席に座って、発表まであと1週間ほどになった論文のページを開いてみる。
どうしよう......
実はまだ予定の半分以上、未記入の状態になってしまってるのだ。女騎士の成り立ち、それがどう今の女騎士たちの働き方と合わなくなってきてしまってるのか。
他の騎士たちがどんなふうにして働いてるのか、彼女たち女騎士はどんな社会的圧力を感じて生きてるのか......今日は一日、関係ある本が置いてあるエリアを歩き回り、資料を集めひたすら書き綴る作業に没頭した。
これが終わったら......こんな状態で発表の場に持ってくわけには行かないので、ラドルフ様に見てもらう工程が必要になる訳だけど。
それを考えると憂鬱で、憂鬱で仕方なくなった。
でも、これを推し進めてくださってる皇女様や皇族騎士団長のメンツを潰すわけには行かないし。
そんなことを考えていて、ふと窓の方を見やると外は真っ暗になってしまっていた。
こんなに集中して作業できたのは久々な気がする。
持ってきてたカバンに書いてたものや資料たちを詰め込んで、閲覧室を後にしようと立ち上がると、誰かが入ってくる気配があった。
「イリス......今日は来てたんだ」
見ると、そこには白い騎士服を着た皇族騎士団員の姿。
「......マクシム」
どうしよう、この間のこと。何から話せば.......
まともに顔も見れずに下を見て逡巡してしまっていると、
「今日は騎士服を着ていないんだ」
そう言われてハッとなった。
皇族騎士団から委託を受けていた明細集めの仕事は先日で終わっていた。
だから、借りていた皇族騎士団の制服は返してしまってたので、今日は私服で来ていた。
「スカート姿なんて初めて見たよ。いつもと全然違う。すごく綺麗だよ」
またそんなことを言われて頬がカァッと熱くなるのが分かった。
「そんなこと......」
そう言おうとしたら、マクシムの気配がさらに近づくのが分かった。
「イリス......この間の返事、考えてくれた?」
思った以上の距離感に、心臓の音が早くなる。
かろうじて、なんとか首を振ることができた。
「ごめんね、マクシム.......私、迷ってて」
「迷ってるって、何と?」
そう言いながら、マクシムの腕がゆっくりと上がるのが見えた。
「私、まだ騎士でいることを諦め切れないのかもしれない。もう少し考える時間を......」
言いかけたその瞬間、ふっとマクシムの手が伸びてきて、私のあごにそっと触れた。
あご先をクッと持ち上げられると、
すぐ目の前に、彼の熱を帯びた瞳があった。
「マクシム......?」
鼓動が、嘘みたいに速くなっていく。
彼の手が触れている場所がじんわりと熱を持ちはじめた。
「本当は初めてじゃない。卒業パーティーで君のドレス姿を見た瞬間……時が止まったみたいだった。本当に綺麗で、ダンスの誘いを受けてくれた時は……死ぬほど嬉しかった」
静かに、だけど確かに――
彼のもう片方の手が、私の頬に触れそうになった。
「ずっと、ずっと、好きだった。学生だった頃からずっと.......ここで会えたのは運命だと思った。だからイリス、俺と.......」
言葉が終わるよりも先に、彼の顔が、ほんの一瞬ずつ時間を止めながら近づいてくる。
これは何.......? 私、キスされようとしてるの?
彼の吐息が自分の唇に当たって、全身にゾクっとした震えが走った。
「……やめて!」
反射的に声が出た。私は一歩、後ろに下がっていた。
マクシムの目は驚いたように大きく見開かれている。
「ごめん、イリス......!俺、こんなことするつもりは......」
戸惑っているような彼を残して、私はその場から走り出していた。
慌てて、いつも待ってくれているエスニョーラ家の馬車に駆け込んだ。
中の座席についた途端、涙が溢れ出してきた。
「助けて......ラドルフ様」
自然と口から出てきたのは、その人の名前だった。