32.名前の真実
イリス
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『......俺と一緒にならないか?』
マクシムから言われた言葉が、ずっとずっとコダマしていた。
皇族騎士団の明細集めの仕事は、先日やっと終わりを迎えた。
なので皇城へは論文のための図書館へ行くのみなのだが、またマクシムと顔を合わせるのかと思うと、なんて言えばいいのか分からなくて今日はずっとお屋敷にいることにした。
広いエスニョーラ家の庭園。
色とりどりの花が咲いている。
植物の標本を作るのが好きだった小さい頃のエミリア様とよく訪れた庭の一角をぼんやりとしながら歩いて回っていた。
あの黄色い小さな花がたくさんついてるヤツ。
なんだか懐かしいような匂いが漂ってくる。
吸い込まれるようにそばへ寄ろうとすると......
「イリス......イリス、ちょっとこっちへ来い」
どこからか呼ぶ声がしてあたりをキョロキョロしていると、木陰に身を隠すみたいにウーリス団長がこっちに手招きしていた。
「どうしたんですか、団長?」
「お前......坊っちゃまと上手く行ってないのか?」
そういえば久しく会っていなかった団長のところへ行ってみて、すぐに後悔した。
今は触れられたくないような話題......一体何の詮索だっていうの?
「なんでそんなこと......」
「旦那様が坊っちゃまの様子がおかしいと心配なさっている。前にうちに呼んだフィリプスの話ではお前はともかく、坊っちゃまは嫌そうにしてはいなかったと聞いてたのだがな......」
何の話? と思ったけど、前にフィリプス先生がダンス特訓でこのお屋敷に来た時のことを言ってるっぽい。
あの時は、ラドルフ様に触られると体が勝手に拒否反応を起こしていたんだった。
私は自分のことで精一杯だったけど、思い起こせばラドルフ様はシャンとして、落ち着いた様子でいたような。
あまりの完璧で堂々とした立ち居振る舞いにフィリプス先生がベタ褒めしてたっけ......
あの頃は、こんなことになるなんて微塵も思っていなかった。
「お前、何か坊っちゃまを傷つけるようなことしたんじゃないだろうな?」
少し懐かしさに感傷していると、思いもよらない言葉を浴びせられた。
「傷つける!? 私がラドルフ様を......?」
彼が私に傷つけられるところなんて見たことない。
冷たく距離を取って、婚約者らしいところも全く見せることもなくなったし。
最近は舞踏会にも一緒に出ることさえ無くなっていた。
何より私のドレス姿を見て、口を押さえて気持ち悪そうに......顔色を悪くしながらどこかに行ってしまったじゃない!!
「傷つけられたのは......」
思わず口にしてしまったけど、目の前の相手はウーリス団長なんだって気づいて、途中で言葉を切って下に俯いてしまった。
あの時のことを思い出すと、いまだに泣きそうになってしまう。
ああ、嫌だな。団長の前でこんな姿......
「おい、イリス。大丈夫か?」
珍しく団長の戸惑ってるような声が聞こえる。
そういえば......あの時の舞踏会で見た光景が蘇ってきた。
「ラドルフ様には、他に懇意にしているご令嬢がいるんじゃないですか」
自分でも驚くほど、低くて冷めた声だった。
「何だって? あの坊っちゃまに?」
信じられないと言うような団長の物言い。
「どこのご令嬢だっていうんだ?」
「知りませんけど、前に行った舞踏会で親密そうに話してるのを何度か見かけました。そういう方がいるんだったら、好きでもない相手と結婚なんて様子がおかしくなるのも無理ないんじゃないですか」
自分で言っていて胸がズキンと痛むのが分かった。
私のことを避けてるのは、そう。そういう、れっきとした理由があるから。
本当は女騎士友達のウィーナがお仕えするお嬢様だって知ってたけど、なんでそんなことまで私が教えなきゃならないの......そこには触れないでおいた。
「イリス......それが本当なら、旦那様はこの婚約を取りやめることになるかもしれん」
心のどこかでそうなるかもしれない、と思っていたことを告げられて顔を上げることができなかった。
団長はそのまま言葉を続けた。
「だがな、お前には騎士としての誇りが宿っていることだけは、忘れるな」
思わぬことを告げられて、熱くなった目元を少し上に向けていた。
「騎士としての誇り......?」
「ああ。お前も知っての通り、ミルーゼ家は元はウーリス家の分家だ。我々の関係者にはイリスという名が多いことも知っているだろう」
私の名前......そう、うちの一族や親族の女子にはやたらとこの名前が多かったりする。
叔母さんや従姉妹にもいたりする。
それに女子でも騎士になる人がけっこういたから、私もその道へなんとなく進むようになっていた。
でも、外に行ったってよくある名前だから、そこまで気にしたことはなかったけど......
「その名前の由来は、一族の英雄である女騎士イリス・ウーリスに由来するのだ」
そんな話は初めて聞いた。
「これは表には公にされなかったことだが、名門家の夫人に仕えた女騎士イリスは、狙われたその夫人を守るため自分が盾となり命を燃やしたと言われている。その勇敢さ、騎士道精神に敬意を表し、その名を生まれた女児に託す習わしがあるんだ」
あれ......この話、どこかで聞いたことがあるような......
「お前にはその血が受け継がれている。もしものことがあった時は、エスニョーラ騎士団に残ってもいいし、それが気まずければ他の騎士団への転属だって不可能じゃない。騎士としての再起の道を考えよう」
もし、ラドルフ様との縁が無くなってしまったら......
というか、もはやそうなる気配は濃厚になりつつあるってことだよね。
ふと、マクシムの顔が浮かんだ。
それと同時に、いつもエミリアお嬢様の女騎士としてお側に支えていた時に着てたエスニョーラの騎士服姿の自分が頭に浮かんできた。
でも、それを掻き消してしまうほど強く胸の奥を震わせたのは……
煌びやかな音楽が鳴り響く中、手を取って一緒に踊りながら、まるで捉えて離さないような灰色がかった瞳でこちらを見つめてくるラドルフ様の姿だった。