30.限界
ラドルフ
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また、あの夢を見た。
何も言わずに俺を見つめてくるイリス。
目を伏せて、そっと座って、そして……手を伸ばしてくる。
ただ、それだけなのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。
彼女の手を握ることもできず、何かを発することもできない。
なのに、彼女は口元に微笑みを浮かべている。
まるで、俺の全てを見下ろして受け入れてくれているみたいに。
胸に体を預けられる度に、震えるような感覚が身体中に走り出す。
その様子が現実の彼女とかけ離れているほど、罪悪感のようなものが濃くなっていく。
目を覚ますと、着ていた夜着は全身ぐっしょりと濡れていた。
暑くもないのに体が火照って、手のひらには夢の中で触れたぬくもりが残っているようだった。
「もう……限界だ」
自分の頭を両手で抱えながら、ぽつりと呟いた声は自分でも驚くほど弱々しかった。
どうすればいいのか、本当に分からない。
伝えたいのか?
伝えたら、すべて壊れるんじゃないか?
そもそも彼女は、どうしようも無いほど俺を嫌っているというのに……
だが、気持ちを隠してそばに居続けるのはもう無理だ。
かといって、言葉にしたら終わりが来るのは目に見えているんじゃないか?
それだったら、このまま夢に逃げてる方が楽なんじゃないか……
そして、このまま気持ちを告げずにいても、近いうちに法的に俺のものになることは定まってるのだから……
そんなことすら考えた。
ふらふらと起き上がり書斎に向かい、引き出しの奥をあさって一枚の小さな紙を取り出した。
『迷える子羊に救いの手を差し伸べる慈悲深いお方を紹介いたします。必ずラドルフ様の助けになりますわ』
いつぞやか、あの元目つきの悪い令嬢にそう言われて手渡された名刺。
今なら、少しくらい頼ってもいいような気がしてしまった。
己のことなのに、何をどうすればいいか分からない。
誰かに決めてほしい。
いっそ「これは運命です」とか言って押し通してくれたら、どれだけ楽か……
「……馬鹿か、俺は」
名刺を机に投げて、そばにある長椅子に仰向けに倒れ込んだ。
しかし、そのまま目を閉じるのが怖かった。
また、夢の中で彼女に会ってしまいそうで。
会いたくないわけじゃないんだ。
でも、その望む姿が夢でしか叶わないのだとしたら.......
だったら――
「どうすればいいのかくらい、誰かに聞いてもバチは当たらないだろ」
そんなことを呟きながら、ゆっくりとその名刺を再び手にし、帝都へと向かった。
イリス
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初めて声を掛けられた日からマクシムとは何度か、館内で顔を合わせるようになっていた。
「うちの領地は牧場があって牛やら羊だらけなんだよ。そんな田舎から帝都に来たもんだから、人やら建物だらけでちっとも落ち着かない。イリスも帝都に来たばかりの頃はビックリしただろ?」
彼は私が書いてる論文の置いてある机の上に手をついて、気さくな感じで喋ってる。
話は面白いし、冗談もよく飛ばす。
ラドルフ様とはまるで正反対──そんな風に思った。
「うちの実家も似たような感じだよ。そうだよね、最初は色んなお店行ったりして楽しかったけど、ずっとここにいることを想像したら何か違う気もするし......5年もいるのに馴染めてる感じは全然しないよ」
そう、マクシムとも踊った騎士学校の卒業パーティーが終わってすぐ、就職が決まっていたエスニョーラ騎士団へ向かった時のこと。
侯爵様へのご挨拶も兼ねて父さんも一緒に帝都へ上京した私の目に映った馬車からの街並みは、田舎の田園風景とは程遠いあまりにもキラびやかな世界だった。
最先端のドレスを身に纏ったご婦人や、素敵なカフェにジュエリーショップ、大劇場などなどワクワクする胸の内を抑えられずに到着したのは、これまた広大で豪華なお屋敷だった。
そうして次の日からお人形さんのように可愛らしいエミリアお嬢様の護衛が始まったのだけど.......
ここで、あの思い出したくもないような記憶が蘇ってきた。
『エミリア、いるか? すまないな、皇城での務めが始まってあまり構ってやれなくてーー』
お嬢様が庭で摘んできたいい匂いのする花たちを部屋の中で並べてるのを側に立って眺めていると、少し低めな声がして開いてたドアから誰か入ってきた。
そこで目にしたのは、亜麻色の髪の毛を後ろで束ね、前髪を左右に垂らした、この世のものとは思えない......見た事もないほど洗練されて輝く美少年だった。
前日、侯爵家の方々にご挨拶した際、今朝まで出張だか何かで不在にしている私と同い歳のご子息がいると言っていた。
それじゃあ、この少年が........
これまで見てきた地元や騎士学校の同年代とは全く違う近づけないほどのオーラと品格に胸がバクバク鳴り出して、体中が震えそうになった。
けれど、お仕えするお坊ちゃまに悪印象を与えてはいけない、失礼がないように満面の笑みを向けて、声を張り上げた。
「本日よりエミリアお嬢様の女騎士として就任したイリス・ミルーゼと申します!!どうぞ以後お見知りおきを!!!」
そうして、学校で習った最敬礼をしたのだけど......
今でもはっきり覚えてる。
私のことをクズでも見るかのように冷たい凍るような目で一瞥すると、一言も何も言わずにスッと私のそばを通り抜けて、お嬢様のもとへ跪いた。
「これはアネモネに、こっちはヴァーベナだな。これはセントジョンズワートといって薬草にもなる。エミリアは押し花を作るのが好きだな~」
そこに私の存在は始めからなかったように、お嬢様にデレデレとして話しかけ始めたその人を見て、夢の中で出会った王子様のような少年は一瞬にして私の中で粉々に砕け散った。
それから、彼を見かける度に体中には虫唾が走るようになったのだ。
平和にエスニョーラ家での5年が過ぎていったかと思ったある日突然、そんな奴と婚約する羽目になった。
そこで見せつけられた金銭感覚の違い、乗合馬車に乗ったこともないっていう育ちの違い。
今まで出たこともなかった帝都の舞踏会を渡り歩かされ。
それでも......それでも......
私のために徹夜して約束を守ってくれるほど律儀で。
私にはない冷静さと知性にあふれて。
何よりあの人のすごいところって、言葉にはしないけれど全部やってのけてしまう所なんだって分かった。
私のことだって、見てないようでちゃんと見ていてくれてる事も多々あった。
――たとえそれが、義務や責任からくるものだったとしても。
その優しさに凝り固まってた心が温かくほぐれていった。
……そう思っていたのに。
やっぱり、彼は初めて会ったあの日と何一つ変わってなかったんだ。
「……やっぱり、ちょっと疲れてる?」
「え?」
「いや、最近、君……なんだか元気ない気がしてたからさ。あんまり笑わないし、目もいつも曇ってるようで」
そう言って、彼は片手を後ろに組むと、少し冗談めかした口調で続けた。
「昔の君はもっと、何ていうか……猪突猛進な感じだったのにな」
「そ、それはちょっと失礼じゃない?」
小さく笑ってしまうと、マクシムも安心したように頷いた。
けれどその目は、どこか真剣だった。
「……驚かないでよ。実は、ずっと帰りたかったんだ」
「え?」
「前から出てる話なんだけど、領地を一つ任されることになったんだ。父も歳だし、そろそろ次男の俺にひとつ任せてもいいって話になっててさ。俺も牛の世話とか、馬とか、鍬を握るのも嫌いじゃないし」
ぽつりぽつりと語る彼の声を聞きながら、不思議と胸が温かくなるのを感じた。
「イリスの実家とも近かったよな? このあいだ話してくれた、湖の近くの……」
「うん。馬で行けるくらいには」
彼はふっと目を細めたあと、急にトーンを落とし、真っ直ぐにこちらを見つめてきた。
「じゃあさ……俺と一緒にならないか? イリス」
言葉が、すぐに理解できなかった。
「一緒に田舎に戻ってくれないか?
帝都で肩肘張って生きるより、地元で一緒に暮らす方が……ずっと楽だと思う。
もちろん返事は急がなくていいよ。
……ただ、なんというか、最近、頭の中でその光景ばっかり思い浮かぶんだ。君と、あの土地で暮らしてる姿とか」
一体何を言われてるんだろう…
やっとその事が分かってきた時、実家にいた頃に見ていた懐かしい風景、そしてそこにマクシムといる私の姿が見えてきた。
それは私の心に新しい風を吹かせたみたいだった。
このまま彼の提案に流されて、帝都を逃げ出してしまう……?
エスニョーラ家での日々、そして……ラドルフ様のそばにいる事を捨てて?
どうすればいいのか分からない。
ちっとも進んでない論文の紙の上に視線を投げかけて、言葉を発することも何もできなくなった。