胸ポケットにラジオを入れて
「コウタ……コウタ……」
午前0時。クローゼットのハンガーパイプに首吊りロープを取り付けていると、誰かが俺の名前を呼んだ。若い女性の声だった。
「コウタ……コウタ……」
クローゼットの扉を閉め、首を巡らせる。声の出どころは部屋の隅に落ちている携帯ラジオからだった。壊れていて、電池も抜いてあるのに、なぜか音を発している。
「コウタ……コウタ……」
ノイズと共に何度も繰り返される俺の名前。声の主も、その目的も分からない。強く死を意識したことで、向こう側の住人を引き寄せてしまったのだろうか。早くおいで、と、誘っているのだろうか。
恐怖を感じた俺は自分の部屋を飛び出した。その直後、
「生きて……」
という言葉が背中に投げかけられる。
思わず足を止めた。深呼吸をし、廊下から恐る恐る部屋の中を覗き込んだ。そしてゆっくりと、携帯ラジオへ歩み寄る。
無音。もうラジオから女性の声は聞こえなくなっていた。あれは不安定な精神状態からくる幻聴だったのだろうか。
「珍しいな、コウタ。ドア開けたままにして」
不意に、開いたドアの向こうから父さんが声をかけてきた。俺はビクッとしながら振り返る。
イジメを受けて高校を中退してから今日までの二年間、俺は一歩もこの家から出られていない。そのせいで、父さんにはたくさん迷惑をかけてきた。この先もずっと今の状態が続くのなら、俺なんてさっさと消えてしまった方がいい。だから首を吊って死のうと思った。それなのに、あの幻聴が邪魔をした。死ぬタイミングがずれて、こうして父さんと顔を合わせる羽目なってしまった。いま俺は、尋常ではない気まずさに苛まれている。
「どうした、顔色が悪いぞ?」
「そっちこそどうしたんだよ、こんな時間に……」
「いや、ちょっとな……」
父さんは俺の部屋に置かれたテレビへ目を向けると、小さく首を傾げた。
「……なあ、コウタ」
「ん?」
「昔撮った我が家のビデオ、母さんが映ってるビデオを、一緒に見ようか」
リビングのソファーでぐったりしていると、少し遅れて父さんがやってきた。古臭いビデオデッキと一本のビデオテープを抱えている。
「辛い気持ちになるだろうから、ずっと見られずにいた。だからコウタにも見せてあげられなかった。ごめんな」
母さんは、俺が物心つく前に死んだ。父さんは生前の母さんを見るのが辛くて、このビデオをずっとしまい込んでいたのだ。
ビデオデッキの接続が完了し、テープが挿入され、テレビに古い映像が映し出された。女性が微笑みながら赤ん坊を抱いている。写真で見たことはあるので、その女性が母さんだということはすぐに分かった。そして当然、抱かれているのは俺だ。
「コウタ」
画面の中の母さんが俺の名を呼んだ。その声は先ほどラジオから聞こえてきたものと同じだった。
一瞬、取り乱した。が、すぐに現実的な結論を出す。あれはやはり幻聴だ。赤ん坊の頃に聞いた母さんの声が記憶の奥底に残っていたから、脳がそれを素材にしてあの音声を作りだしたのだ。自分自身を死なせないために。
その理屈で自分を納得させていると、父さんが画面を見つめたまま口を開いた。
「声が聞こえたんだ。コウタの部屋から、母さんの声が」
「……えっ?」
「雑音も混じってたし、てっきりコウタがこのビデオを見てるのかと思ったんだけど、そうじゃなかった。声は気のせいだった」
父さんも、あの声を聞いていた。ということは、あれはつまり、幻聴ではなかったということになる。本当に、ラジオから聞こえていたということになる。
「……でも、不思議とこのビデオを見る踏ん切りがついた。母さんは、コウタと父さんをずっと見守ってくれている。だから寂しがることなんかない。そう思えるようになったんだ」
画面の中の女性。全く覚えておらず、最初は他人のような感覚だった。でもあの声が、俺に「生きて」と言ってくれたあの声が、幻聴ではなく目の前の女性が発したのだと分かった今、この人こそが母親なんだという実感がじんわりと湧いてきた。
「コウタ、泣いてるのか?」
「泣いてない。眠いんだよ」
「そっか、もう遅いからな。よし、続きは今度にしてもう寝るか」
部屋に戻った俺は携帯ラジオを手に取った。
昔、父さんに買ってもらった、何の変哲もない普通のラジオ。今は壊れていて、電池も入っていない。そんなものからなぜ母さんの声が聞こえたのか、その理屈は全く分からない。このラジオに母さんの魂が宿ったのか、それとも、このラジオが天国にいる母さんの声を受信したのか。
いずれにせよ、母さんは俺達のことを見てくれているし、このラジオが特別なものとなったことに変わりはない。
「母さん大丈夫だよ。俺、生きるから」
ラジオから、ザザッとノイズが鳴った。
翌朝、俺は二年ぶりに玄関のドアを開けた。朝日を直に浴びた瞬間、生まれ変わったような気持ちになった。
とりあえず、近所を一周してみよう。大丈夫、何も恐くない。
胸ポケットに入れたラジオを優しく握り、俺は家の外へと一歩踏み出した。