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七つ丘の薔薇の夢  作者: 遠坂雨柔
一、夢の世界か
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1-4、幕布・ニ

  「誰か来る!」

  鋭い叫び声は冷たい短剣のように、真っ黒な夜空を切り裂いた。

  名前も覚えていない昔の奴隷から出でたこの叫び声に、少女の思考は一瞬で止まった。心臓が急に強い力で締め付けられるようだった。

  彼女はほぼ本能のままに視線を向けた――瀝青(れきせい)のごとく粘りつく暗黒の底、かすかな星影が鬼火のごとく瞬きつつ、じわじわと迫り来た。

  あれは何を意味するのか、少女はよく分かっていた。

  胸の奥で鼓動は再び響いてきた。いま体の中に激しく奔流しているのは血液ではなく、黄河の余韻であった。

  刹那の後で、『自分は何をしなければならないか』ということが少女の心に宿った。

  しかし、彼女より早く動いたのは、リタだった。

  夢のごとく軽やかな身のこなしのメイドが、夜風に舞い上がる羽一片のように優雅に蹴り出してしなやかに跳び上がると、淀みなく馬鞍の上へと身を収めた。その所作こそまさに行雲流水――遅滞も冗長も一切なく、骨の(ずい)に刻み込まれた本能のごとく、幾千幾万の鍛錬によって磨き抜かれていた。

  この情景を見た少女の脳内には可笑しい思いが生まれた――リタのもう一つの前世、ひょっとするとアメリカ西部に居たカウガールかしら?

  リタは馬の頭を返し、裾は優雅な弧を描いて揺れた。彼女の視線は淡く静かな夜明けの薄闇を貫き、柔らかな温もりがネロの頬をそっと包み込む。紅宝石のごとく澄み渡る瞳には、目の前の者への尽きることなき想いが満ち溢れていた。

  それはまるで、果てしなく東へと流れゆく川の如く――終わることなき思いの奔流のように。

  「私を覚え(Memores)くださ(mei eris,)い、主人さ(domine)ま」

  リタの声は低く澄み、柔らかな温もりを帯びていた。しかし、彼女は返答を求めず、ネロに言葉を挟む隙すら与えないまま――すっと両脚で馬の腹を締めつけた。

  瞬きの間に、馬は矢のごとく疾駆し、重くて凍りつく夜気を裂いて逆方向へと駆け出した。

  四人の従者もほとんど同時に鞍へ飛び乗り、リタの背を追う。砂煙を巻き上げながら、響き合う馬の蹄の音は胸を打つ鼓動のように夜を震わせ、静寂を引き裂くと――やがて闇の向こうへと遠ざかっていった。

  「リタ……どうか……無事に戻れよ……」

  ネロの唇は微かに震えて、気づかれないような声であの名前を囁いた。あの日と変わらぬ後ろ姿が視界から消えてしまった瞬間に、この震える祈りが喉の奥の重さから解放された。

  その祈りはため息のように軽く、しかし全力で吐き出すように重くもあった。

  黎明前の最後の爽やかな風が少女の顔を撫でていた。彼女はリタが消えた方向を見つめていたが、冷静な表情を崩さなかった。

  冬の初雪の後に薄く張った氷の湖面のようだ。

  だが、それはただの嘘の表面かもしれない――例え少女であっても、知らぬ間に拳を握り締めていた。

  しかし、少女の対策は確かに成功した――あの疾走する騎兵隊は逃げる逃亡者たちに気づいたものの、対策や真偽を考える余裕すらなく、ただスピードを上げて彼らを追いかけたのだ。

  緑野の中に隠れていた少女とネロは追手の背中を見送り、その姿は森の果てにだんだんと消えていった。

  少女は、夢の中にいるようだった。

  あいつら、まさか本当にあんなふうに騙されたのか?

  だからパルテイア人やゲルマン人に負けるんだなぁ。

  少女はわざと否定するつもりはないが、この兵備が緩んでいる兵士たちは、どう見ても戦場に出て戦える様子ではなかった。

  屋敷の奥に身を潜めたファオンは息を殺し、外の気配を探っていたが、新たな足音も話し声も聞こえて来なかった。

  「……よし」

  胸の奥の緊張を押さえ込み、誰もいないと確信してから、彼はようやく重い足取りで外へ踏み出した。

  「本当に信じられない!」さっきのことを見たネロは、まるで雀のようにちゅんちゅんと騒ぎながら叫んだ。「そんな簡単に引っかかったのか!奴らが」

  ネロだけじゃなく、ファオンまでも顔がトマトのように赤くなった。さすがにお爺さんの年ほど年を取っているので、彼は雀ネロのように大げさな反応はできなかった。

  だが、その対策を考えた少女の表情は変わらず平然としていた。前の二人の嬉しそうな顔は、彼女には影響を与えなかったようだ。

  「……嬉しくないのでしょうか?」

  ファオンは少女の違和感に最も早く気づいたため、慎重にそう問いかけた。

  彼の疑問を聞いて、ネロも一瞬静かになり、奇妙な視線を少女の顔に向けた。

  しかし、少女は馬の背中のサドルバッグをちらりと見て、数秒後に口を開いた。「……まだ始まったばかりだわ、本番の旅はこれからよ」

  そんな答えを聞いた二人は、どう返事してよいのかも分からなかった。

  「まぁ、いいわ。そろそろ出発しよう」少女は二人の返事を待つ気がなかった。「他の輩が来るかもしれないんだから、今すぐ離れなくちゃいけないわね」

  「じゃあ……」

  「アナタはそんな年齢なのでしょう?やめたほうがいいかしら」

  ファオンが何か話しかけようとする前に、少女は彼の話を遮った。

  「……えっ?それは……」

  どうやら、ファオンはまだ起きたことに反応できていなかった。およそ二秒後、ようやく彼は少女の話がどんな意味を持つのか理解できた。

  「あのねぇ。これはキャンプじゃなくて、逃げることなのよ。万一追い手と鉢合わせたら、アナタは恐らく、私たちの足手まといになる」少女は視線を森の果てに向けた。「もし心から主人のためを思うなら、ここにそのまま残ったほうがいいわ」

  「……しかし、ワタシの命は陛下のものなんですから。彼女が先に離れ(exitus)なければ、ずっと側に付き添わなくてはいけないんです」

  「……だ、か、ら!アナタの個人的な感情で、彼女を険しい道に踏み込ませてはいけないのよ!」

  「ですが……」

  「もし耳が不要になったら、早くベートーヴェンに送るほうがいいと思うわ。なぜなら――」少女は不愉快そうに眉をひそめた。「そうすれば、せめて誰かがアナタの全人類への音楽的貢献に感謝してくれるに違いない」

  ベートーヴェンとは誰か?

  ファオンは全く理解できなかったようだ。

  「……ファオン、(ソナタ)がそんな気持ちを持ってくれるのは嬉しい」ネロは少しためらいつつ言った。「だが、彼女(神の使者)の言う通り、この旅は恐らくとてもなく危険だ。残ったほうがいい」

  「陛下……」

  老人の声も震えていた。

  「余のために、(ソナタ)がしてきたことはもう十分だ」ネロはその忠実な老人を優しく抱き締めた。「(ソナタ)の行ったこと全てに、余は言葉に尽くせぬ感謝を捧げる……今までずっと側におり、余を見捨てなかったことに礼を言う」

  ファオン――ただの身分の低い元奴隷ではあるが、例えこんな広く蒼い天の下でも、彼の忠義はその地位が高い貴族たちを凌いでいた。

  それは、悲しいことではないだろうか。

  少女は静かに眼の前の二人を見つめていた。

  言葉もなくその感情は声にならず、風のように心の湖面を揺らし、嵐のように響きながらも、歯の間に消えてしまった。

  「……行こうよ。相手に気づかれたら、後悔しても無駄になっちゃうよ」

  東の空はだんだん明るくなり、新しい朝が間もなく訪れようとしていた。しかし、少女の目に映ったのは朝日というより、むしろ自分に迫り来る死刑宣告のようだった。

  「ふむ」

  ネロはうなずいた。

  ファオンは屋敷の裏手へ回り、隠してあった馬を引き出した。

  それまで、少女は馬に全く本気で気を配っていなかったので、その馬が目の前に出てきたとき、馬術のことは全く知らない彼女でさえ、鐙がないことに気づいた。

  それに、鞍の様子も自分の記憶とはまったく異なっていた。

  矢張り、この時代はあまりにも遠い昔なのかしら……

  「……どうかしたの?」

  ネロは少女の様子がおかしいことに気づいたので尋ねた。

  「……ううん、なんでもない」

  少女は首を振った。

  よくわからなかったけど、ネロは後ろから軽く助走をつけ、余裕で馬の背中に飛び乗った。

  ネロは平気だったが、少女はそうではなかった。馬に乗ったネロを見て、少女はどうすればいいのか悩んだ。

  それまで、彼女は乗馬はおろか、跳馬すらしたことがなかった。

  「……どうされましたか?」

  今回はファオンの順番だ。

  「ううん……こうしてまたがるのは、私にはちょっと難しいかもね」

  少女の表情が少し曇った。

  「では、ワシの肩の上に立たれてはいかがかのう」

  ファオンは迷わず身をかがめた。

  だが、少女はそうするつもりはなかった。彼の灰白色の髪がちらりと見えたのは、彼女だって目を持つ生き物だからだ。

  「その程度なら命を落とすことではありませんので、気にしないでください」

  ファオンはまだ冗談を言う余裕があった。

  「でも……」

  少女はなおもためらっていた。

  「今一番優先すべきことなのは、貴女と陛下のことではないでしょうか」

  ファオンの言葉が、ようやく少女の心を揺らした。

  「……そ、そうか。じゃ、失礼します……」

  少女は小さく柔らかく精巧な足を伸ばし、そっとファオンの肩に置いた。

  ファオンはその軽さを確かに感じ取った。老いた彼でも、あまり無理なく体を支えて、少女を馬の背に乗せることができた。

  初めての乗馬の体験は、思った以上に新鮮に感じられた。

  最初からネロの腰を抱き締めるかどうか、少女は初めてテレビを見る猿のように迷っていた。だが、馬が突然一歩踏み出すと、その揺れは彼女に考える暇も与えず、本能のままネロの腰に腕を回していた。

  「……大丈夫なの?」

  気付いたようにネロはふと顔を向け、静かに尋ねた。

  「えっ……へ、平気です……」

  理由は自分でも分からなかったが、少女は言葉に詰まった。ただ、胸の鼓動がいつよりも大きく打っているのを感じていた。

  その小柄な皇帝の柔らかさと体の淡い香りが、さっぱり午後の夏風のように、心地よく少女の胸の湖に小さな波を立てた。

  あの時『あの話』を書いたバーナード・ショーが、一体どんな気持ちを持っていたか。少女は初めてその感覚を確かめられる気がした。

  この気持ちいい匂い、ほんま辞められへんわ。

  我慢できず少女は鼻を近づけた。

  でもネロは今のところ反応がなかった。

  まったく気づかなかったかも知れない?

  「我が主のために神々(Di bene)のご(servent)加護を(dominum)お祈りします!」

  立ち上がったファオンは、二人のために祈った。

  「汝の無事(Bene)を祈(valeas)る」少女の意見を待っているかのように、ネロはそう言った。「じゃあ、今行こうか?」

  少女は「うん」と返事した。

  「では余を抱き締めよ」ネロは手綱(たづな)を引きしめた。「行け!ペーガソス(Pegasus)(※)!」

  ぺ……ペーガソス、か……

  でも、私の目で見た通りなら、その馬は確か茶色のはずでしょう……

  少女の笑みの中には、少しずつ気が入り混じっているのようだ。

  『ペーガソス』と呼ばれる栗毛の馬は主人の命令を受けた。それは気持ちまで高ぶったかのように嘶き声を上げたかと思うと、いきなり蹄を鳴らして駆け出した。

  「……う、うわぁっ!」

  少女はネロにしがみついていたが、その凄まじい力に頭を思わず後ろへ仰けてしまった。彼女は後ろに立っているファオンを振り返る余裕もなく、頭から体までぴったりとネロの背に張り付けた。神界(Olympus)の馬をも凌ぐほど猛々しい、この地上(Mundus)の馬に振り落とされまいと、ただ必死だった。

  「……そう言えば、余はアナタの呼び名をまだ知らないよね」気のせいかどうか、ネロは口調が突然明るくなった。「お名は?」

  「……ロッリーア(Lollia)!」少女は思わず口を出した。「ロッリーア(Lollia)シドニュウシア(Sidoniusia)!」


  ※、ペーガソス――古代ギリシア神話に登場する伝説の生き物である。鳥の翼を持ち、空を飛ぶことができる白馬とされる。

    日本語では、天馬(てんば)と訳されることもある。


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