1-2、幕布・ロ
その高慢な自己紹介を聞いて、少女は目を見開いて驚いた。
ネロ……クラウディウス……
ローマ、帝国……
私は一体……
「でもなぁ、今はただ、国家の敵だ……」
ネロの顔には、寂寥の色が浮かんていた。
「えっ?」少女は目を瞬かせたが、多分その言葉の重みを理解できていないようだった。「国家の敵?」
「うん……」
ネロは悲しそうに、再び天から降って来た少女の胸に頭をうずめた。
でも少女は、見知らぬ人とこんなに近くで触れ合うのにまだ慣れておらず。どうして良いか全く分からなかった。
木のように固まってしまった。
「……主人さまはただ今、ご心労も重なり、思いがけず無礼を致しましたこと、大変に申し訳なく存じます。何とぞお許し賜りますよう、伏してお願い申し上げ御座います」
リタは、少女に対して頭を下げることしかできなかった。
天から現れた少女に、主人が神の使者への礼儀すら知らないと思われるわけにはいかなかったのだ。
どうやら、少女は気にしている様子はない。それより、もっと知りたいことが山ほどあった。「……ここは?今は何年?」
「……お方様は……お忘れでいらっしゃいますか?」
老人は目を見開き、驚きを隠せなかった。
少女はそっと首を振った。
今や驚いているのは老人だけじゃない、ネロまでも。
「……ここはローマの郊外で御座います。今はネロ十四年、六月のイードゥスより四日前(※1)で御座います」リタは恭しく答えたが、その声には少し慎重で探すような様子が見て取れた。「もしかして……お方様は、『その世界』から来られたのでは……御座いませんか」
少女は数秒ほど言葉を失い、首を振った。「……違います」
老人とネロは、そこに釘付けにされたのように動けずにいた。
ただリタだけは予想していたかのように冷静だった。彼女は静かに少女の頬を見つめ、心の中で何かの可能性をそっと消し去った。
二人が取り乱していたのは長くは続かなかった。ネロは急ぐように言い訳を口にした。「……神の使者までも、全知全能じゃない姿で現れることがあるかも知れないけれど。一時的な混乱があったとしても、何の異常があるのか証明できないんでしょう」
リタは何か言いたいことがありそうだが、結局一言も発しなかった。
「これは多分……月の女神様の試練かもしれん……そうじゃなければ……」老人は小声でつぶやいた。
この三人、一体何をしているの?
少女は彼らのチグハグな反応に困惑していたが、自分にも知りたいことが星の数ほど多いので、ついに問いかけた。「……それで、何が起きたんですか?『国家の敵』って、一体どういう意味ですの?」
リタは主人の顔を見てから、消沈している老人に目を向け、説明の役を引き受けなければならなかった。「……よろしいでしょうか、主人さま?」
ネロが否定しなかったのを見て、リタはようやく彼女たちの状況について紹介し始めた。
四月七日、ガリア・ルグドゥネンシス属州総督、ガイウス・ユリウス・ウィンデクスは謀反を起こした。その理由を『厳しい重税に苦しむガリアの民衆たちを救うため』とし、『暴君の支配に代わって、よりよい皇帝を求める』と宣言した。
この情報を受けたネロは、迷わず上ゲルマニア属州の総督ルキウス・ウェルギニウス・ルフスに制圧を命じた。
ネロにとっては、その時に反乱を起こしたウィンデクスはきっとピソと同じ、単なる馬鹿者だった。
しかし、どれほどの時間が過ぎても、帝都には前線からの戦況報告が一通も届かなかった。戦況を調べるために送った密使たちは全員が行方不明となり、一人として帰還しなかった。
それだけではなかった、ヒスバニア・タラコネンシス属州総督、セルウィウス・スルピキウス・ガルバもまた、この反乱に加わった――
四月二十一日、『ネロが密かに自分の処刑を命じた』と語ったその71歳の老人が軍団一つ、騎兵中隊二つ、歩兵中隊三つを率いてついに挙兵した。
「……で、彼女は一体、そんなことを命じるだろうか?」
リタの説明を聞いた少女は、こんな大量の情報をまったく処理できないと思った。
「至高なる神祖に誓って申し上げます。吾ガ主人様はそのような命令を下されたことは絶対に御座いません」
リタの断言ぶりを見て、少女は信じる以外の道がなかった。
「……でも、反乱軍はまだここまで迫って来てはいないでしょう?アナタたち、どうしてここにいるの?」
「それは確かに、ローマまでまだ遠すぎるのですが、帝都ではすでに噂が飛び交っているのです」リタは目を伏せ、声も潜めた。「闇の中に隠れて火に油を注いでいるのが元老院だと分かっていても、いかんともしがたい。あちらこちらで凶悪な暴徒が暴れまわり、もはや手のつけようもありません」
「……禁衛軍は?」
「彼らも離れた……昨日の夜明け前、余は目を覚ましたが、金 宮にはもう何も残されておらず、誰もいなかった」ネロは痛ましげな表情を浮かべ、深い悲嘆に暮れていた。「オフォニウス・ティゲッリヌス……あのクソったれのシチリア戦車馬商め……彼を禁衛軍長官に取り立ててやったのは余だったのに、よくもこんな形で恩を返してくれたなぁぁ」
少女は小さくため息をつくと、初めて自分の腕を伸ばした。胸元でうずくまり、怒りに震えている小柄な皇帝をそっと抱きしめた。
「禁衛軍までもが裏切ったのですから、金宮にこれ以上留まり続けることはできないと思います。それも当然なことなのでしょう」今回はリタのため息の出番だった。「我々はすぐに彼女を護り、帝都から離れます」
「なるほど」少女は微かに頷いた。「そういえば、貴方たちは脱出のための計画やルートなどをきっと持っていたのでしょう?」
「いいえ」リタは首を振った。「最初私達はアエギュプトゥスへ行けると思っていましたが、オスティアに駐屯していた艦隊は、主人に仕えることを辞めたと宣言した。その計画は放棄しなければならないんです……東方の諸属州なら、元老院の命令に従わないかもしれませんが、その数人だけなら可能性が低いと思います」
「……それじゃ、他に行けるルートはないんでしょうか」
その言葉が思わず口をついて出ると、全員が無言になった。
誰もが沈黙しているのを見て、少女は自分の言葉が適切ではなかったと気付いた。
彼らは今、自分たちが置かれているこの最悪の状況すら、本当は理解していないわけではない。
いや、ただ心の底では認めたくないだけなのか。
私はまだ空気を読むレベルが十分に高くないらしいね。
まあいい、この時代に自分が呼び寄せられた理由はまだわからないが、今一番大事なのは命をつなぐことだろう。
ネロはまだ少女を抱きしめたままだった。
この様子では、おそらく簡単には離してくれないだろうと思った。
しかし、このまま何もしなければ、いつ襲ってくるかわからない反乱軍に皇帝側の人間とみなされ、処刑される可能性だってある。
それを誰かのせいにできるはずもないだろう。
「……とにかく、対策を考えよう」少女はどこか取り繕うように言った。「山があれば道がある、道があれば……ドユダの車も走ってる、ってね」
「車で……馬車のことをおっしゃっているのでしょうか?」老人は困ったような表情を浮かべた。「しかし、我らは慌てて帝都から逃げ出したのです。しかも、今の状況で馬車に乗るのは無理があるのではありませんか?」
「いいや、馬車のことじゃありませんわ」少女は老人が自分の言葉を取り違えたことに気づき、小さく首を振った。「『天は人に道を閉ざさない』って意味ですよ。心さえ負けなければ、困難よりも解決方法の方が多いものでしょう……なので、今は他に行ける場所を考えようって言ってるです」
しかし、三人の顔には相変わらず重苦しい影が落ちていた。
どうやら、その場で何かを思いつける様子はなかった。
「……じゃあ、質問の形を変えようか」少女は肩を落とした。観念したように言った。「アエギュプトゥスや東方の諸属州以外で、この子の味方をしてくれるところは、どこにありますの?」
返事は、ずっと返ってこなかった。
そうだな――今の状況は、想像していた以上に複雑なんだろう。たとえ神様だとしても、自分の判断が絶対に正しいなんて、言い切れるわけがないのかもしれない。
「……この世の中の忠臣が、お前ら二人だけだっていうなら、別に逃げる必要なんてないじゃないか」少女の胸の奥で、知らぬ間に怒りの火が燃え上がっていた。「こんなに広い天下の中で、居場所が一つもないだなんて……もし本当にそうだっていうなら、いっそ元老院に自首した方がマシだろう」
「……すまない……すべて、余のせいだ」
ネロは何も言わず、少女の怒りをただ黙って受け止めていた。
リタは本当なら、その大逆不道な話を反撃したかった。
だが、言いかけたところでネロのうつむく姿が目に入る。
これ以上、その脆い心を傷つけるわけにはいかない――
だから彼女は、怒りの眼差しで少女を睨むしかできなかった。
「……もしかしたら……バタウィ部族なら、まだ陛下のことを支持してくれているかもしれません」
老人は少しの間ためらった後で、ようやく口を開いた。
「気でも狂ったの?ファオン!」今のリタは不満をぶつける相手がいなくて困り果て、思わず老人に声を荒げてしまった。「ゲルマン人近衛隊までも禁衛軍と連なって裏切った、お前はあんなクズみたいな蛮族どもをまだ信じているって、どういうつもりよ!」
「……しかし、ゲルマン人近衛隊にはバタウィ部族の人間が少ないんでしょう。余のことを聞きたいと思ってるかも知れない」ネロは迷いを抱えたまま、顔を上げた。「……もし彼らがまだ信じてくれているなら、ここで諦める理由なんてないだろう」
「主人さま、もうお忘れですか?」リタは怒りに任せて手を振り払った。「バタウィ部族だって祖国を裏切ったのよ!キウィリスはその前で拘束されていたし、彼の兄弟もとっくに処刑されてる。今さら奴らの領地に行くなんて、それこそ羊が虎の口に飛び込むようなものじゃないんですか」
「でも、カピトは元老院のあいつでしょう」ネロは首を振りながら言った。「彼の言葉なんぞ、余は一文字たりとも信用できない」
「しかし、たとえバタウィ部族がまだ立場を変えていないとしても、それでどうするつもりなの?」リタは突拍子もない主人の行動を制そうと、声を荒げた。「彼らの領地まではざっと1300 M P(※2)も離れているのよ。万全な状態で向かっても二ヶ月ほどかかるし……さらにアペニン山脈とアルプス山脈を越えなきゃならない。しかも途中で反乱軍に出くわす危険だってある……私たちはたった数人しかいないんだから、ほぼ不可能に近いわ!」
「じゃあ、もしできないと感じたら諦めよう」と少女は言った。彼女は三人の言い争いにもう疲れ、その気持ちだけが胸中にあった。「諦めたいなら何もしなくちゃいいだけだよ。でも、逃げるなら考えなくちゃいけないことが山ほどあるけどね」
「……もういい、リタ」ネロは手を上げて制し、声をかけた。「とりあえず、一応彼女の話を聞いてみよう」
リタはまだ腑に落ちないものを抱えながらも、ネロの命令には逆らえなかった。
たとえ胸に渦巻く不満をこらえても、ぎゅっと拳を握りしめて黙って従うしかなかった。
「……もしバタウィ部族を信じられるなら、やってみない理由がないでしょう」少女はそう言った。「バタビアへ行こう」
「では、尊敬しているお神の使者さんよ」リタは『お神の使者』のところを、わざとアクセントをつけて言った。「私たちが無事にバタビアへ辿り着くために、アナタはどうするつもりですの?月の女神の力を借りて、反乱軍の全員に道を開けろって命じるつもりなのかしら?私が確認したいのは、それだけですよ」
「私は神の使者じゃないし、神の力も持っていません」少女ははっきりと否定した。「頭脳――私が持っているのは、それだけですよ」
「……お、お方は月の女神様の使者でございませんか!?」ファオンと呼ばれる老人とネロは、驚いたと同時に叫んでいた。「そ……そんな、バカな!」
リタは少しだけ目を凝らした。どうやら少女の素直さが意外だったようだ。
だが、それはほんの一瞬のことだった。
彼女はすぐに冷静な様子に戻り、最初から自分の予想通りだったかのように見えた。
「あなたたちが、私を神の使者だと思い込んだ、その理由はまだわかりませんけれど、一度も神々になんて会っなことはありませんのよ」少女は静かにそう言い切った。「その思い込みのせいで……あなたたちを失望させてしまいましたわね。すまなかった」
その刹那、ネロは息の仕方さえすっかり忘れてしまった。
「……そ、そんなこと、ありえないでしょう……だって、この神託はデルポイのピューティアー本人に直々に語ってもらったんです……」ネロの声は激しく震え続けていた。「余は自分の目と耳で、本当に確かめたことだから、間違いないんだ……」
どうやら彼女は心に大変な衝撃を受けたらしく、無意識のうちに少女の手を放していた。
裾さえ引っ張られてぐちゃぐちゃになっているというのに、ネロはまったく気づいていなかった。
これは偉大な太陽神、アポローン様から下された神託なのだ。どうして間違いなどあり得るものか!
あり得ない!
絶対絶対にあり得ない!
そう思うと、ネロは思わず必死に首を振った。
リタは真剣な眼差しで言った。
「……主人さま、この子はひょっとして、自分が神の使者だったことすら覚えていないのかもしれません。或いは、月の女神様にその記憶を消されたのか――」
少女は本能的に少し驚いた表情を浮かべて顔を上げたが、予想に反してリタの鋭い視線とぶつかった。
その目には、はっきりと警告の色が浮かんでいた――
『それ以上無神経なことを言ったら、お前をテヴェレ川に放り込んで、魚の餌にしてやるぞ』
少女はすぐに賢明にも黙り込んだ。リタの態度がなぜここまで急変したのか、彼女にはまったく見当がつかなかった。
声を落としつつも、リタは注意深く続ける。
「昔からそういう話は珍しくありません――オイディプース、カドモス、オデュッセウス、イアソン(※3)……彼らのいずれもが、神託を受けることなく神々の意志を成就されていますから」
「……そ、そうだ!」ネロは二秒ほど遅れてやっと反応した。「その通りだ!だったら、余は信じればいいだけじゃないか」
リタは、少女が自分の言葉に反論しなかったのを見て、無言の警告がきちんと伝わったことを察した。しかし、その気配は和らぐどころか、むしろ前よりもっともっと張り詰めていた。
誰も息をすることすらできないような沈黙が続いた。
時の川面が静かに流れる中、明けの明星が東の夜空に姿を浮かび上がらせた。
「……じゃあ、次はどうする?バタビアへ向かうのか?」
その氷のように冷たい沈黙を破ったのが、ファオンだった。
「どうやら、残された道はそれしかない、みたいだな」リタは小さく肩を落とした。「死ぬよりはマシなんだってことくらい、誰だって理解してるさ」
「でも、反乱軍はどうするんだ?」
「知らない」リタの目線が少女の顔に向く。「頭脳を持つ神の使者さんよ――今、その答えを聞かせてもらえますか」
※1、ローマ時代の人々は、現代のように「6月9日」と日付を直接数えるのではなく、各月に定められた三つの基準日――カレンダエ、ノナエ、イードゥス――を基準として、そこから「何日前」と逆算して日付けを表現していました。
カレンダエ:毎月1日
ノナエ:毎月5日(3・5・7・10月は7日)
イードゥス:毎月13日(3・5・7・10月は15日)
したがって、6月にイードゥス(Ides)は第13日であり、その四日前は6月9日にあたります。
※2、MPとは、ラテン語mille passusの略記形式で、ローマ時代に用いられた長さの単位である。
1 MP=1000 passus
ここでいうpassusとは、成人男子が行進中に同じ側の足(右足または左足)で連続して着地した跡同士の距離を指し、現代では約148cmに相当する。
したがって、1 MPは約1480 mと換算される。
※3、ここで挙げられている四人は、ギリシャ神話に登場する人物である。




