1-1、幕布・イ
「
誰そ彼の君主はその日
絶体絶命の渦中に堕ちん
敵は彼女を孤立させ
友も散り散りに離れ去りぬ
されど明けの啓明星ふたたび
天を裂く時に
未知なる桜の乙女が
黎明より降り立ち
星々の間から新しき楽章を
奏でさせん
」
――シビュラの予言
昼夜が交わる時、眩しい夕日が地平へ沈もうとしている。
天の雲は海老茶に染まり、茜色の霞がたなびく。遠くから晩鐘が響く。その響きは、湖面にきらめく黄金の波を揺らし、きらりと光る水面を対岸の草むらへと運んでいく。
ネロ・クラウディウス、ローマ帝国第五代皇帝。彼女は湖畔の芝生にひとりただ、座っている。
優しい涼やかさが顔をそっと撫で、どこかへ消えて行く。白磁のような首筋に触れ、銀浅金の長い髪を静かに揺らした。夕焼けの光が、その髪に炎の輝きを灯した。
しかし、この美しい情景の主人公の周りには、へつらう臣下も、忠実な禁衛軍もいない。見渡す限り、暮れゆく空の下にたたずむ孤高の影。深い大地に抱かれた、その姿だけだ。
彼女の後ろには緑の静けさが広がっており。その奥に、古い煉瓦造りの家敷がぼんやり見える。その窓枠は木の板で打ち付けられたまま、ガラスも貼る紙もない。この家敷からは長い年月が流れたことは分かるが、侘び寂びを感じられることはない。
栃栗毛の馬は数匹が遠くない所で悠々と草を食んでいる。衣不曳地(※1)な従者だちはで休んでいた。顔色は確かに悪いんだが、互いに話すこともあまりない、まるでなすべきことは何もせずただ、静かに時が流れるのを待つだけで良さそうだった。
ついに、最後の一筋の陽光も地平線の下へ別れを告げた。天を泳ぐ彩雲は海原のようにゆるやかにたなびき、もともとの清涼に、いつの間にか冷気が鋭く滲み始めていた。
彼女は体からの警告に屈したのだ。
その時、遠くない場所から馬の蹄の音が響いてきた。
水辺の皇帝は一瞬耳を澄ませたが、すぐに何事もなかったのように警戒を解いた。
心身ともに疲れ果てているのに、ずっと逃げ回っている。もし彼らに本気で捕まえる気があるなら、存分に来るがよい。
しかし、今度ばかりは、運までもがネロに味方したらしい——駆け抜けるように現れた兵士は、外で家主に勅令を渡して、余計なことは何もせずに去った。
もしあの時、水辺で魂が抜けたような皇帝の姿を見ていれば、彼はきっと先の思いを変えたかもしれない?
「……陛下」
鬢の霜が目立つ家主が、よろよろと傍らへ歩み寄った。手には蝋板(※2)が握り締められており、重たそうに口を開いた。
「あいつ、何の用だ」
上目も使わず彼女は平坦な声で質問した。
「彼は……元老院からの命令を届けに参りました」
老人は苦々しげに答えた。
「うん……」
髪の短い少女は老人の後ろに立ち、その瞳には不安が現れた。ネロの反応が見られなかったであろう。「……主人さま?」
「ふむ……心配をかけたな」ようやく反応したネロだったが、表情は全く動かず「中身は?」
「……ワシは読めないので」苦笑いの老人は、首を振りながら、蝋板を差し出す。「ご自身で拝読いただく方がよろしかろう」
だがネロは手を伸ばさず、かすかに瞳を上げて短髪の少女を射るように見た。
「……あいつらは貴方を『全ローマの敵』と宣言し……誰でも……誅殺を……許すと」
言葉を紡ぐたびに、少女の眉が震えた。まるで初めて言語を扱う幼子のように。
「……やはりそうわねぇ」
ネロは驚いたような顔ではなかった。
元老院の判決など、多分風が木の葉を揺らす程度の出来事だ。
全ては無能な自分のせいだ……
国を乱す母上を、もっと早く取り除いておけば良かったな……
おそらく、これこそが先祖が不肖の子孫に下した神罰なんだろう。
「汝だち、もしその命が奪えたいと申すならば、余は何一つ文句はありえぬの」とネロは運命を受け入れるかのように目を閉じた「余の首を掲げ、そして元老院へ行けよ。そうすれば、ひょっとすると賞金でも手に入るかもしれぬよね」
「リタは絶対に主人さまを裏切りしません!どうか今の御言葉を撤回しなさい!」
短髪の少女は、魂まで踏みにじられた衝撃を受けた。その怒りと憤りに満ちた声は、漸く静まった湖面に再び波紋を広げた。
「ワシは同じです、陛下」老いた家主も同調した「あの時、陛下が身分を解いて下さらなければ、今の私はきっと存在しておりません」
二人の返事を聞き、ネロは微かに息を吐いた。手の平をちょっと差し出すと、老人は静かに蝋板を載せた。
「
元老院の全会一致の決議により、逃亡中の皇帝ネロ・クラウディウスを反逆罪で有罪と認定し、ここで全ローマの公敵とすることを宣言する。
本決議は全国において有効とし、市民・奴隷を問わず、逮捕または誅殺することを許可する。
生け捕りにした者は、民会裁判のため元老院へ引き渡すこと。捕縛者には賞金として金貨500枚を支給し、先祖の慣例に則り帝国議事広場前にて死刑に処する。
」
「……リタ」ネロは突然身を起こした。「『先祖の慣例』とは……何だ?」
よくは分からないけれど、それはきっと恐しいことだろう。第六感がそう警告している。
でもまぁぁ、ネロはよく知らないが、「ロムルスの後裔だち」から発明した外門左道(※3)らは、リタ本人がはっきり知っている。
皇帝陛下のメイドとしては、おそらく必要な知識範囲を超えているかもしれない。
「あれは……本当に残酷くて恐ろしい刑罰で御座います」リタは戒慎的な言葉を遣いし、可能な限り自分の主人の精神的な衝撃を減らしたかったが、無駄だよ。「先ず、受刑者は衣服を全て剥ぎ取られます。次はV字形の木枠に固定します。最後に……馬の尾ほどの太さの革鞭でずっとずっと、死ぬまで……」
「なっ……?!」彼女の言葉に魂が飛ぶかのように驚いたネロは歯も震えていた「そんな残酷な刑罰を受けたら、矢張り今ここで自分で……そんな辱めは絶対に受け入れられない」
「陛下!元老院は見せかけの威嚇をしているだけです!民衆だちの目は節穴じゃないんですから、絶対に認めません!」
「問答無用だ、リタ」ネロは目配せで彼女を止めた「穴を掘らせ、そして薪と油で満たせ。余の躯は、誰にも渡すわけには行かなっ」
異世界転生門に轢かれたような衝撃を受けたリタは、その一瞬間で、一体どう諫めれば良いのか思考も完全に停止した。
彼女は電柱のように突っ立ったまま、ネロの声に冷たい色が:
「リタ、まさかお前も……余に背くというのか?」
「……畏まりました、主人さま」
リタの顔に葛藤を浮かべていだ。しかし、命令に従う以外、何ができるのか、彼女も分からなかった。
二人は離れた。ネロはちょっともがいた。
しかし、最後には、隠した短剣を懐から取り出しし、白くなるほど握り締めている。
逃亡前に自分が研いでいた。もう髪の毛が落ちる時にもよく斬れる程度だった。真っ直ぐに心臓に突き立てるなら、きっと痛みも感じないはずよね。
最初は自分を守るために持っていたが、今は自裁をしなければならないんだ。
まったく、何の悲劇なのか……
楽になってくれ……
では、暗黒に戻せよ……
震えて手で短剣を握り締め、煌めく刃先を首筋に当てた。もっと少しだけ力を込めれば、直ぐに熱いバターを切るように、細く脆い喉を貫けるはずだった。
だがネロは、その最後の一歩が踏み出せなかった。玉のような涙が顔を伝い、糸の切れた真珠のように大地へ墜ちていく。
まもなく終わろうとするこの短い人生が思い返され、彼女はその儚さと無力さに打ち砕かれる思っだった。
短剣を握り両手は鉛のように重く、前に進むこともできなかった。
本当に死を恐れない者などありえない。例え「薔薇の暴君」とても同じだった。
そう。
余は……
まだ死にたくない!
「誰か……救けて……」
手の震えはますます激しくなり、恐怖的な表情も現れた。
「誰が……助けて……くれよ……」
満天の明けている星々があった夜空に向い、彼女は首を上げて、世界へ深い深い未練を叫んだ。
「何処にいるのだ?!余の啓明星!」
群星が輝く夜空に、ふと異変が走った——
滓がない純粋な金色の光は、多分太陽の倍以上の輝き、頭上の星空が明けていた。
たとえ涙で滲んだ視界のネロでさえ、あの瞬き、煌めきに捉えられた。
「あれは一体……」
ネロは涙を拭い、光の真中へと見上げた。
暫くして、少しだけ輝きを和らげた光が(あるいは、彼女の目が慣れたのだろう)、ゆっくり降りてくるのが見えた。
あの中、人の姿だ!
ネロは自分の見ているものが信じられなかった。
「何が起きたの?」この強い光は、老人とリタに引き寄せられた「あれは……?」
光の中の人は、その時地面に降り立った。
あれは十数代ほどの乙女、三人ははっきり見ていた。
その乙女は、まるで月の女神ディアーナさえも清らかな美しさを湛える。光の中で穏やかな寝顔が見られていた。
あの身を着ている淡い桜色の寝間着は、 ネロの心の奥底にある数年前の予言をすぐ呼び覚ました。
あれは完全に同じものだ。
「神託の啓示……現れたのか?」
虚空から現れた輝く少女を前に、ネロはまだその現実が信じられない。瞳を見開き、思考が停止した。短剣はカランと転がったが、まったく気づかない。
まるで脳の機能が止まったのだ。
それはネロだけではなく、老人とリタも石の人形のように立っており、声も発しない。
私は誰なのか?
どこにいるのか?
何をしているのか?
そんな問いに、三人とも答えることすらできなかった。
少女が徐々に地に降ろされると、包んでいた金色の光は浅くなり、やがて消えていた。
眠りに包まれていた彼女は、そっと瞳の扉を開いた。
ネロの姿が目に浮かんだ。
「……えっ。ここは……どこ……かしら」
まだ涙の跡が残る美少女にじっと見つめられて、少女は胸がギュッと締めつけられるのを止められなかった。はっと目が覚めた彼女は、まだぼんやりしたまぶたを擦った。
然し、どう見ても昨夜、涙にくれながら眠りについた自分の部屋ではないと気づくと、一瞬で真っ白になった。
彼女は腕を支えに野原から起こし、初めての声を発した。
だが、ネロだちの三人はまだ『脳内システムが応答なし』って状態にあるようで、その問いが自分に向けられたものかどうかよく分からないようで、応える気配もなかった。
多分彼らの返答がいらないらしく、少女は自分の腕を強くひねってみた。
「……痛っ!」
間違いなく現実だ。
彼女は、はっきりと痛みを感じていた。
「あ、あのう……失礼ですが……あなた方はどなた様かしら?何をなさるおつもりなのかしら……?」
見知らぬ所にいて、しかも周りには自分とは全然違う服装の三人しかいない。そんな状況に、それでも柔らかな言葉をかけようとした少女の瞳には、明らかな警戒の色が浮かんでいた。
しかし、言葉を口にした直後に、何かがおかしいことに気づいてしまった。彼女は信じられないものを見るように、自分の寝間着を見下ろし、顔を赤めて思わず裾を引き下ろす。そして肩を震わせながら、か細い声でつぶやいた——
「……そ、その言語は……」
でも、その絶体絶命の三人にとって、天から降ってきた乙女こそ間違いなく、神界から地上に降臨した月の女神の使者だった。
ようやくシステムエラー状態から脱した老人とリタは、礼儀正しく跪き、先ほどの無礼を神使い様に許してもらうために謝罪していた。
そうよ、今のはまさにかつての予言どおり。これが神々の奇跡じゃなければ、何なのよ?
もしも神託であったなら、自分はまだ諸神に見捨てられていないという証拠だ——
と思ったネロは、喜んで涙を流しながら、まだ状況が分からない少女の胸に飛び込んだ。
「……えっ?!」
少女は自分に抱きついたまま、梨花帯雨(※4)のように泣きそうなネロを、ただ見入るしかなかった。
銀とも金ともつかない長い髪、冬の朝の海面に残る霧のような浅い灰青の瞳、土埃に染まった紫色のロングドレス、そして繊細で小ぶりな卵形の顔。
「……あのう……こんな突然に抱き締められたら……こちら、ちょっと困っちゃうわね……?」
理解が飲み込めず少女は、おそるおそる問いかけた。
「ふむ……汝がそう問うのならば——」ネロは涙を拭い、少し名残惜しげにその腕をほどいた「吾が名はネロ。ネロ・クラウディウス——このローマの第五代皇帝なり!」
※1、「漢書・文帝紀」より、衣裳の裾が地面を引きずらないほど短く簡素であることを指す。
転じて、ここでは従者だちの服装が粗末な様を形容する、形容動詞と思っていた。
※2、木製の書字板で、木枠で囲んだ板の表面を蝋の層で覆ったものである。古代から中世にかけて、何度でも書き直せて携帯に便利な筆記用具として使用されていた。
※3、「外門」とは本道ではない入り口のこと。また、「清さ方正ない宗教流派」を意味する場合もある。「左」は不吉な方向とされ、正しくないものを象徴する。
その四字熟語は、何をもらえるために使用する不正な手段や不正な方法を指す、蔑称である。
※4、白居易の代表作「長恨歌」より——「梨花一枝春帯雨」
これは「涙がはらはらとこぼれる、一枝の梨の花が春の雨に打たれるように表現した」もの。漢語で「美しい愛しい少女が泣き時、あの柔らかさはまるで雨に打たれた梨の花のようだ」と形容する四字熟語である。