37話 『消失』
ーー屋上には、雨が降っていた。
丁度、傘を持っている人物が隣にいた。
それで、それだけでよかった。
ーーいつ壊れてもおかしくない自分を、支えてくれるような気がしたから。
「あのさ、有紗ちゃんとジャスパー君にまず謝んなよ。マジで最低なことしてるから、アンタ」
叱咤の声が聞こえる。
大粒の雨と混じって、あまりよく聞き取れなかったが、心底怒っているのだろうな、と、そんな感慨だけがあった。
「............ああ」
それしか言えなかった。
だって、彼にも分かっているのだ。
自分の行いが、どれほど最低なものであったかなんて。
自分で、自分に驚いていた。
一番驚いたのは、怒りという感情が自分にあったことだった。
ピーズとの戦闘の時点で、怒ってはいた。
それでも、まだ理性は保てていた。
それは、怒りではない。
怒りを装った、演技だ。
演技だったのだ。
一番近くにいた相棒を連れ去られ、その仇を討つために感情的になっている。
ーーそんな、猿芝居でしかなかったのだ。
ジャスパーという青年に、本気で怒ってようやっとその事実に気が付いた。
本当に怒ったら、理性など存在しない。
怒りというのは、いつの間にか、仲間を殺してしまいそうになるほどに、自分を見失うものなのだ。
否、理性を払った姿。
それが自分自身であり、怒りというのは自己が最も顕著に出る感情だ。
感情に身を任せたら、仲間をも殺す。
それが自分なのだと。そう確信した。
そして、そんな自分の在り方に、心底嫌気がさした。
汚らしく、醜い。気分屋を自称する、何かに。
「分かるよ、なんて言ったらまたアンタは怒るかもしんないけどさ、私だって分かってあげようとしてるつもりだよ。有紗ちゃんだって、早まったアンタを止めるために分かるって言っただけでしょうに」
「......そうだな」
「今は落ち着いてるだろうから、あんまし釘を刺すようなこと言わんであげたいけどさ。それ以上に、アンタはやっちゃいけないことやってるから。それ、忘れちゃダメよ」
共に酒を飲んだくれて、共に馬鹿やってた銀髪の女が、やけに大人びて見える。
ーーいや、違う。
気分屋が、子供なのだ。
四十にもなった男は、どうしようもなく子供だった。
心が丸裸になった今だからこそ分かる。
『気分』で何でもやってしまう自分は、幼子同等であるのだ。
「......ま、あんまし女にカッコ悪いとこ見せないでよね。私は先に帰ってるから、後はアンタが自分自身でケリつけなよ」
「............」
何も言えなかった。
子供だと思っていた女に、とことん心を見透かされている自分が、情けなくて仕方がなかったのだ。
赤色の傘を投げ渡された。
反射的にそれをキャッチし、傘を広げずに暫くその色を見つめる。
「赤............」
気分屋は、赤の少女とやらを見たことがない。
幸耀が殺され、新田が憎しみをぶつける相手。
兄弟二人が関わったその敵を、気分屋は知らない。
だから、特に赤色に思い入れなど無かった。
でも、その色は最も気分屋の間近にあった。
芽衣のメッシュは、赤色だ。
長く伸びた黒髪に、赤が何閃も。
美しい、色だった。
美しい、髪であった。
別に、芽衣に男女のソレを求めてはいない。
気分屋自身は恋愛感情など抱いていないし、芽衣もその気持ちは同じなのだろうと思う。
それでも、芽衣は立派な女性である。
厳しくはあるが、どこか母親のような安心感がある、立派な女性だ。
そんな芽衣に、この二年間、どれほど支えられていたのだろう。
気分屋にとっては四十二年。
いや、二十二年の中の、たった二年間だ。
大きな事件も長野県一斉放火事件くらいであったし、基本的に芽衣と気分屋は別々に行動することが多かった。
だから、支えられていたという感覚は今の今まで無かった。
だが、『気分だ』と言ってそこらをぶらぶら歩いていた気分屋を、芽衣は一度も止めなかった。
ーー彼女は、気分屋を最も理解していた。
それを、今の今まで気づけていなかった自分が醜い。恥ずかしい。
失われて初めて、彼女の大切さに気付くなんて。
その考えは、彼女への冒涜に他ならない。
失う前まで、彼女のことを大切だと想っていなかったということなのだから。
もっと、彼女を大事に想っていればよかった。
彼女のすぐ側に常にいれば、こんな悲劇は起こらなかったというのに。
芽衣への懺悔が次々と浮かぶ中、気分屋は依然として赤い傘をぼんやりと見つめて棒立ちしている。
彼の体は既にびしょ濡れだ。
「芽衣は、ここにいる......」
何も起きない。
新田ですら機能しなかったのだから、何か起きるわけがない。
「芽衣は、ここにいる......」
何も起きない。
その嘘をつく度に、記憶が弄られるのが嫌だと芽衣に悪態をつかれていたことを思い出す。
その態度が、今は恋しい。
「芽衣は、ここに......」
ーーいるはずがない。
今まで気分屋に気を遣って距離を適度に保っていた芽衣。
自分の態度が、芽衣に余計な気を遣わせていたのだ。
つまり、自分のせいで、芽衣は側にいなかった。
ーーそんな都合よく、彼女が目の前に現れることなど、あるわけがないのだ。
後悔。後悔が、渦巻く。
雨の感触など気にならないほど、後悔と虚無感が胸中を満たす。
間違いなく、彼の『気分』は、最悪であった。




