36話 『大荒れ』
一度も、自我など持ったことがない。
一度も、人を愛したこともない。
一度も、人に愛されたこともない。
そんな彼が縋るべき頼りは、楽観的な気持ち。
全てを俯瞰し、自分の為したいことのみ手に取る。
そうすれば、自然と自我は芽生えるはずだし、人を愛す感情も湧き出るだろうし、人に愛されなくても心が痛むことはないはずなのだ。
運命と自分の気持ちに沿って、人生という名のレールを歩む。
ある間続く感情の状態。
ーーそれを人々は、気分と呼ぶ。
悪いことをしたら、そういう気分だった。
良いことをしても、そういう気分だった。
一番身近にいた者が失踪し、悲しくても、それは気分である。
そう言い聞かせなければ、自我など保てない。
ーー保つべき自我など、存在しないというのに。
ーー守るべき人など、存在しないというのに。
ーーどうして、これほどまでに怒りが湧き上がり、それらの感情を制御することが出来ないのだろう。
分からない。
分からない答えには、こう結論づけるのが最善だ。
そういう気分だった、と。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
凄まじい爆音が室内に響き渡る。
その音の正体は、気分屋が発した光魔法だ。
ーー気分屋は、ジャスパーに向かって、明確な敵意を持って魔法を放ったのだ。
「あのさ。俺に魔法を放つのは構わないけど、隣の新田に対する配慮はないの?」
凡人であれば間違いなく即死の一撃。
だが、標的とされたジャスパーは、黒板消しを片手に無傷でソファに腰掛けたままだ。
放たれたはずの魔法の形跡は反響する轟音だけで、腰掛けているソファ含む、辺りの環境には何の変化も起きていない。
そして、変化がないのはジャスパーも同じだ。
声色も、表情も。何もかもが無表情で、掴みどころのない彼の振る舞いは、魔法を放たれた程度では揺るがない。
「これで隣に座ってる新田が死んでたら、俺、あんたのこと本気で殺しにいってたよ」
そうは言うものの、ジャスパーからは敵意や殺意などは感じ取れない。
新田のことを本気で守ろうとしてくれている心意気には心底安心感があるが、掴みどころがないのは変わらないのだ。
そんなジャスパーの様子と、自身の震える両手を交互に見つめて、気分屋が言った。
「は、はは。悪い、どうかしてた。許してくれ」
「ん、謝るならいいよ。俺の方こそ、配慮に欠けた発言だったことは反省してる。ーーでも、俺の言ったことは、目を背けてはいけない可能性だと思うけどね」
ジャスパーの言葉を最後に、張り詰めていた緊張感は離散する。
肩の力が抜け、ふと右を見ると、有紗も同じように安堵から薄い胸を撫で下ろしていた。
彼が最後に釘を刺すようにつけ加えた言葉には、新田も同意である。
無論、考えなくて良いのならば放置すべき可能性だ。
だが、無効化をする人物が周辺にいないのにも関わらず嘘が機能しない現状は異常なのだ。
いくらピーズが嘘を無効化出来るとはいえ、芽衣の誘拐犯とピーズはこの事件においては無関係という証言がある以上、嘘の無効化を全てピーズの仕業と結論付けるにはいささか早計すぎる。
死んだ人間に嘘は作用しない。
死人に口なし、ならぬ、死人に耳なしである。
嘘は、言葉であるのだから。
「悪い......ほんとに悪い。オレがどうかしてる。ちょっと、外出てくるわ」
「......雨降り始めたでしょ、私もついてくよ」
「............ああ」
謝罪を青白い顔で述べた気分屋は、同行を希望した胡桃沢と共に、扉の向こうへと歩いていった。
ガチャン、と扉の閉まる音が聞こえたところで、有紗が長く息を吐く。
「はあああああああ。マジで死ぬかと思ったっスよ」
「僕はなんだかんだ死ぬ気はしなかったかな。ジャスパーがいてくれてるし」
ジャスパーの特性を詳しく聞いたことはないのだが、先の目玉が襲撃してきた際に、ジャスパーの実力は判明している。
絶対に守る。
新田が幸耀に対して吐いてしまった呪いのようなその言葉を、彼は嘘にしない。
そんな安心感が、彼にはあった。
「......魔法じゃなかったら、死んでたよ」
「げ......気分屋の気分に助けられたってことか......」
鉄砲のような武具を扱われていたら普通にお陀仏だったという事実を聞き、次は新田の顔が青ざめる。
ーーもしかしたら、それを理解した上での気分屋の行動だったのかもしれない。
彼は優しい人柄だ。
怒っている、というポーズを取っているだけで、彼は思っている以上に冷静という可能性もある。
「......でも冷静ならあんなことしないか」
まさしく『気分屋』である彼の心境を読み取ることは難しい。
だから、新田は今の気分屋に何か関与することが出来ない。
彼を、言葉で救ってあげることが、出来ない。
「んーん。それにしても、あれほどまでに気分屋くんが取り乱すのも珍しいねえ」
「珍しい......ってことは、以前にもこういうことがあったんスか?」
「......まあ、私が話すことでもないだろうね」
仁は、有紗に肯定を暗喩しつつ、それは個人の話であるため、やんわりと語ることを否定する。
「胡桃沢くんが上手くやってくれることを信じて......私たちは、気分屋くんの願いを叶えにいくべきだ。ーー新田くん。君のためにもね」
「ええ」
気分屋と新田。
目的は違うものの、標的は一致している。
「いや、目的が違うってのは少し語弊があるなあ」
無論、現状の最優先事項は芽衣の救出である。
ただ、先程のエネルギーの可視化の特訓の際、嘘の能力と真剣に向き合う必要性を感じた新田は、ピーズをあてにしようと考えていたのだ。
ピーズがこちらに協力的なのかは分からない。
だが、それしか現状は方法がないのだ。
「んーん。ヘルメス軍との前に......ピーズたちとの戦に挑まなければいけない。何か、歪な手段を取っているような気がするが......仕方がないねえ」
「それって、コスパ悪くない? それで新田たちが死んだら元も子もないよ」
仁にまでタメ口で話すジャスパーだが、ここにいる関係者はその態度を特に気にしていない。
そして、そんなジャスパーの懸念は分かる。
相手はピーズだ。
実質的にはピーズではなく、ピーズの手下になるのだろうが、危険なことには変わりない。
あの巨大な目玉。
あれほどの実力者がわんさかいれば、生きて帰れる保証などないのだ。
「でも、基本的に、ピーズの手下たちも僕たちに敵意はないんじゃないかなって思うんだよね」
「......それはなんで」
「わざわざ誘拐って形を取ってるのが奇妙だし......」
「だし?」
「ーー本気で僕らを殺そうとしてるなら、今頃僕たちは既にこの世にいないだろうしね」
あの目玉は例外なはずだ。
彼以外、ピーズの手下の存在は確認出来ていない。
そして、何故か彼は怒っていた。
何らかの気まぐれで殺意を持っただけなのだと思う。
ピーズは、新田や気分屋を逃している。
実際、新田は殺されそうになったが、あれは赤子の手を捻る程度の気概。殺意ではないはずだ。
それらを加味すれば、基本的にピーズ周辺の者たちは、人間に殺意を抱いていないと結論付けが出来るだろう。
「んーん。何度も言っているが、ピーズは強者との戦いを楽しみに生きている。ピーズにとっての“獲物”となるまで成長した際には、戦闘は避けられないだろうが......今は、大丈夫だと思うねえ」
「......可視化も、まだ習得出来てないですしね」
そう、新田たちはまだ未熟者であるからこそ、ピーズに敵意をぶつけられてはいない。
仁 彼方の昔話からも分かるが、ピーズは基本的に才能を感じた人間を泳がす性格であるはずだ。
そして、その種が成長し、実を実らせた、一番美味しい瞬間を食す。
そんな、化物なのだ。
本来ならば可視化に精を出さなければならない。
それは分かっているが、今最優先すべきは芽衣の救出だ。
ついでにピーズと接触出来れば良いが、それは二の次。遭遇出来たらラッキー程度に考えておくべきだ。
「......で、どうするんスか。芽衣さんが何処にいるか目処すら立ってないじゃないスか」
「......そういえば」
一つに目標を定め、いざ動きだそうとしたが、根本的な問題を忘れていた。
ピーズに会いたいならピーズ神殿に向かえば良いかもしれないが、手下ともなると居場所が全く掴めない。
「ピーズに聞けばいいんじゃないの」
「んーん。恐らく、ピーズは手下を管理してはいないと思うねえ。私個人の見解だが、部下の動向を把握するような性格ではないように見える」
「同感ですね。僕らが実際に手下に会う必要がありそうです」
「......あたし、あんましその嘘の能力について理解出来てないんスけど」
「ん?」
おどおどと挙手しながら口を挟んだのは有紗だ。
「ピーズの手下自体を嘘で呼び寄せることは不可能なんすか?」
「あー。可能ではあるんだけど......結構エネルギー使うね。知人の転移はそこまでなんだけど、見知らぬ他人だと中々。だから、気分屋たちが戻ってきて、準備万端になったらアリかも。もし戦闘になったら、僕はあんまし役に立てない」
「了解っス。じゃあ、それで良いんじゃないスか?」
そう言って有紗は仁に目配せをする。
確かに、芽衣に嘘は通用しなかったが、犯人含む手下には通用する可能性は高い。
実際、あの目玉には嘘が機能していた。
犯人じゃないハズレの手下を引いても、嘘で何かを聞き出すことは可能だろう。
充分に安全を確保した上で実行すれば、必ず上手くいくはずだ。
ーーただ、それで手下に嘘が機能した場合、芽衣の死亡がより濃厚な可能性となってしまうのが、不安要素ではあるが。
「んーん。そうだねえ。なら、一先ず彼らを待とう。コーヒーでも飲むかい?」
話が纏まったところで、仁が立ち上がりながら皆に提案をする。
丁度緊迫感から喉が渇いていたところだったので、黙って頷いた。
「俺、ブラック」
「ジャスパーってブラック飲めるの?」
「飲めない。でもカッコいいから飲む」
キッパリとそう言い切るジャスパーに、新田は苦笑を浮かべる。
「相変わらずよく分からないなあ」
「そう? カッコつけたいのは男なら誰でもそうでしょ」
「......飲めないって言っちゃってる時点で、カッコ良さ激減っスよ、ジャスパー」
「あ、え」
珍しくたじろぐジャスパーに笑いながら、新田は窓の外を見つめた。
ついさっきから降り始めた雨が、東京の景色を透明に塗りつぶしている。
「天気の気分も大荒れ......ってね」
新田のその呟きを、コーヒーを注いで持ってきた仁だけが聞いていた。




