2話 『赤の少女』
橘 幸耀 十八歳。兵庫県内の公立高校に通う、ただの高校生。父子家庭ではあるが、何一つ不自由ない、しかし何一つ悦びの無い生活を送ってきた。
遊びに誘われれば乗るし、生徒会長に推薦されればなるし、面倒事を押し付けられれば速やかにこなす。
所謂、ふつうのヒトとしてこれまでの生涯を送ってきた幸耀には、喜怒哀楽の感情はあっても、彼を心の芯から魅了するものはこの世に存在しなかった。
しかし、今の彼には、『何をしても良い』環境が用意されている。この世に若干の退屈さを覚えていた彼にとっては、天恵と言っても差し支えない。
ーー彼の嘘を疑う者が誰もいないのである。正確に言えば、世界が彼の嘘によって改変されている。
最初はちっぽけな嘘だった。教師からの叱責を避けるために適当に考えた嘘が、現実となって幸耀の前に顕現したのである。
ーー課題をやってはいたが、家に忘れた。
そんなちっぽけな嘘が、現実になったのだ。
ただ、その奇妙な出来事には『幸耀が課題をやった記憶を無くしていた』だけの可能性があったため、異常事態だと決めつけるのは早計だと考えた。
そこで幸耀は、彼の親友ーー星宮 楓に一つ他愛のない嘘をついてみることにした。
「俺さ、迷子の小学生を警察まで送り届けたんだよ。そしたら感謝状まで貰っちゃって」
「あー! 聞いた聞いた! テレビで報道されてたよな! 遂に地上波デビューかよ、笑うわ」
ーー異常である。楓の発言を聞きネットニュースを調べると、地方の記事ではあるが確かに橘 幸耀の名前と共に迷子を助けたという記事が記載されていた。
それから事あるごとに適当な嘘を吐き続けた。
ーー俺三重なんだよ。
ーー俺めっちゃ足速いんだよ。
ーー俺実は英検一級持ってるんだよ。
兵庫県の高校生に、三重で、五十メートル六秒切って、英検一級合格してる化け物が誕生した。
どうやら、幸耀の嘘が事実として世界に馴染むようになっているらしい。ーー異常である。
しかし、様々な実験を重ねた結果、『特定の他人に対しての嘘』は特に機能しないということが判明した。
実を言うと、幸耀には母親がいない。
物心ついた頃には母親が居なかった幸耀にとって、母の存在は十八年間、濃い靄となって幸耀の心を覆い隠していた。
父に母のことを尋ねても適当にあしらわれて終わるため、いつからか母のことを忘れようと努めたが、同級生の母親を見る度に、重い鉛のような物が胃にのしかかる感覚がしていた。
幸耀にとって母親がいる世界は祈願であり、理想であった。そこに飛び込んできた超能力解禁のお知らせ。
いつ無くなるか分からない超能力である。最大限に有効活用しようと考え、『俺の母親は家にいる』と発言したところ、何も変化がなかった。
その後も道行く通行人に『貴方は背が190cmある』など適当な嘘をついてみたが、やはり特定の他人に対する嘘は機能しないようだった。
ただ、先程述べた『迷子の小学生を助けた』のような、不特定多数が当てはまるような嘘は問題なく機能する。この世界に存在する小学生の誰かがランダムに選ばれ、その子の記憶の改ざんと共に、世界全体が嘘に沿って改変される。
少々面倒な仕様が存在しているものの、基本的には幸耀の生活を豊かにできる、天からの授けものであった。
「嘘が嘘であると分からない限り、受け手にとってそれは『真実』である......かあ」
下校中、道に転がる小石を蹴りながら呟く。以前、楓が書いた作文にあった言葉だ。
「嘘は嘘だろ、なんて言っちゃったけど......真実になっちゃったなあ」
嘲笑混じりに溢した言葉は、誰にも届かない。自分の耳にだけ届き、その言霊をもう一度噛み締める。
春の風が心地よく前髪を揺らし、それを喜ぶように鳥が鳴く。自然が、自然を喜ぶ。囲まれた環境に心から感謝し、再び歩みを進める。
本当はここで『俺は部屋の中にいる』と発言するだけで自宅に帰ることは可能なのだが、今日は自然を味わいながら帰りたくなった。田舎の森。人気のないこの場所を歩くことが、幸耀の数少ない幸せであると言えよう。だからこそ幸耀の独り言を聞くものなど存在しないし、ましてや話しかけられることなどーー。
「ーー見つけました」
「......?」
ーー幼い少女であった。
背丈から推察するに、年齢は十代前半。小学生と言われれば全く違和感のない幼さ。赤いベレー帽と赤いワンピースに身を包み、唇の血色も良好。彼女の瞳に視線を映せば、そこにあるのは特徴的な黒と赤のオッドアイ。
一言で表すなら、とにかく赤い少女、という印象だ。
しかし、手を後ろで組み、俯く彼女の表情は、服装と相反するように暗い。見つけた、と発言したのにも関わらず、その視線は幸耀ではなく眼下の地に向かっている。
彼女の素性は分からないが、相手は幼い少女であることは間違いない。表情からして何か困っていることがあるのかと考えた幸耀は、少女に優しく声をかけた。
「どうしたの? もしかして迷子? ......コレ、世間的には二度目の迷子救出になっちゃうな。なんてね」
「殺す」
ーー赤い少女から吐き出された黒い言葉は、幸耀の思考を白に染め上げた。
「ぇ......?」
「殺す」
二度目の脅迫。否。宣言である。少女は背後に回した手に隠し持っていたナイフの先端をこちらに向け、殺意を剥き出しにした。
少女との距離は五メートル程度。
だが、彼女は既にこちらへ向かって走り出している。今から走って逃げ出しても、間に合わない。
ーー嘘を、吐かなくては。
真っ白な思考の中で、本能が叫んでいた。
何か、何でもいい。ここから逃げ出せる嘘をーー。
「ーー異世界に、俺はいる」
ーー自分は、何を言っているのだろうか。
異世界など、存在しない。存在するはずがない。やっとこさ出てきた言葉は、嘘ですらない、ただの戯言であった。自宅にいると、そう嘘を吐くだけで良かったはずなのに。
後悔の念に駆られている間、鋭利な刃物は着々とこちらへ迫ってくる。もう、嘘を口に出す時間もない。脳も回らない。ーー諦めるしか、ない。
「ーーーー」
死への恐怖に目を強く瞑り、その時を待つ。
「ーーーー?」
だが、覚悟したその時は来ない。
「は?」
ーー幸耀は、見慣れない町に一人で立っていた。