10話 『僕は世界一の嘘吐きです』
力の差が歴然であるのは、肌感覚で理解できる。ライズワールドに来てからというもの、神殿で一回、そして先程で一回、計二回の戦闘を経験した。
神殿での一件は、胡桃沢がいたからこそ切り抜けられたものだ。ヘイトは幸耀に向いていたが、敵襲の対処をしたのは、ほぼ胡桃沢だった。自分自身が敵を殲滅したとは言い難い。
だが先程戦った氷魔法の天使。彼女との戦闘は正真正銘、自分自身の力で戦い抜けていたはずだ。確かに最初は緊張していたが、それは初陣だったからこそ。
加えて口封じには焦りを感じたが、相手のエネルギーまでも視野に入れ、冷静に対応することが出来ていたはずだ。
ーー気圧されたことなど、一度たりともなかった。
今、眼前に佇む赤い少女は違う。
こうして対面してるだけでも冷や汗をかき、思わず生唾を飲み込んでしまう。手足は震え、先までの冷静さなど綺麗に蒸発してしまったかのように消え去っていた。
「ーー恐怖。素晴らしい。成長したのですね。橘 幸耀」
しばらくの沈黙の後、恍惚とした表情で少女が幸耀を褒め称える。
「............ばっ......かにしてんのかよ」
「辛うじて私と会話も出来ていますね。前回会った時は、何を思ったのか世迷言を垂れてしまっていたというのに。......あの発言を捻り出せたことが、貴方の人生最大の僥倖でしたが」
手に持つ小柄なナイフをくるくると手先で遊ばせながら少女は揶揄う。
「帰って良いですよ、イース。よく頑張りました」
「有難きお言葉。では」
イースと呼ばれた天使は少女の命令に従い、さっと飛び立った。
ーーまず間違いなく手に持つ包丁では勝ち目がない。初遭遇時の記憶を覗けば、俊敏にこちらへ向かう少女がいる。人間離れしたスピードだった。
ともなれば、幸耀がすべき最善の行動はーー、
「事務室に俺はいる」
ーーこの場から逃げることだ。
仁はライズワールドの中でもかなりの実力者。仮に仁一人では敵わなくても、数の暴力でどうにでもなるはず。
少なくとも、幸耀一人ではどうにもならない。
嘘の能力で硬化したところで、こちらから決定打を与える可能性が低いからだ。
「知ってますか?」
そんな幸耀の思惑を、
「嘘は嘘だとバレたら、事実でもなんでもないんですよ?」
ーー幸耀の心臓に突き刺さったナイフが嘲笑っていた。
「あ......がっ......」
少女の赤く光る右目を視界に映しながら、幸耀は胸を押さえてその場に倒れ込む。
「どうして? そう思っているでしょう。教えませんよ、貴方はどうせ死ぬのだから」
疑問など浮かばない。絶望など生まれない。
ーー痛い。
幸耀の心を満たすのは痛みによる苦しみだけだった。心臓から溢れ出る熱が周囲の体温を上げる。刺されている心臓がドクンドクンと悲鳴をあげ、必死に血液を体中に行き届かせようとする。
だがその行いも虚しい。何故なら、心臓自体が刺されてしまっているのだから。
数十秒。体感では数十分間。痛みの海に溺れた直後、全身が痺れる感覚が訪れる。そして次第に思考も朧気になり、何故か現状を心地よく感じ始める。
ーーああ、死ぬんだ。
エネルギーの大量消費ではないが、感覚的に理解することが出来た。
嘘を吐こうとしても、口からヒューと掠れた音が鳴るだけだった。変わりに口から漏れるのは大量の血塊。もう、どうしようもない。
ーー新田。気分屋。ごめんなさい。
ーー父さんに。アストレアに。もう一度会ってみたかったな。
諦観に満ちた瞳が最期に映したのは、クリーム色の髪をした誰かだったような気がした。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「これはラッキーですね。危険を冒してまでニュートラルビルに来た甲斐があった。まさか二人目のアストレアの子と出会えるとは」
「......絶対に......殺してやる......」
「殺害を宣言されたのは初めてです。私は二度目の宣告で彼の殺害を実行出来たので......まあ、今回は殺されないでしょう」
感情を剥き出しにする新田を軽くあしらう少女の構図。幸耀が刺されてから三十秒後の出来事だ。
新田の目に映る、血の海に赤く染まった幸耀の姿。
ものの数分前に、絶対に守ると約束した兄弟は、既に見るも無惨な姿で横たわっている。
傷跡と少女が手に持つ凶器から、犯人は確定。
新田の胸中に渦巻くのは、ドス黒い憎悪だった。
「ただ......面倒なのが一人いますね」
「んーん。面倒者扱いとはこれはこれは......癪に障るねえ」
新田の横に立つのはライズワールドのリーダー、仁 新だ。
仁もまた、幸耀の亡骸を前に、煮えたぎる感情を理性で押さえつけてはいるが、今にもその理性という名の落とし蓋はひっくり返ってしまいそうだった。
「先に私だけでも新田くんの嘘で瞬間移動すべきだったねえ......まさかこれほど早く幸耀くんに刃が届くとは想定してなかった」
「そんなの......どうでも良いです......早くコイツを殺しましょう......」
涙に頬を濡らした新田は、少女が幸耀に向けた何倍もの殺意にその身を滾らせている。
「......そこのアストレアの子だけなら対処出来ましたが、仁 新を相手にするのは骨が折れますね。ここで油を売るのは得策ではないでしょう。もう充分仕事は果たしました。帰ることにします」
少女が退散の意思を表明する。そんな彼女の様子を見て、仁は魔法の詠唱準備を、新田はエネルギーを最小限に抑えれて尚且つ敵の動きを封じることができる嘘をつく。
「お前は動くことが出来ない」
しかし、その言霊は虚しく風に吹かれるのみ。
「......貴方にはまだ教えていませんでしたね。嘘は嘘だとバレたら事実ではありません。それでは」
「光色魔法・イカヅチ」
「遅い」
少女の頭上目掛けて落とされた落雷は行き場を失い、そのまま地面へ。
少女に当たることのなかったそれは空撃ちの轟音を鳴らす。ーーもう、彼女の姿はどこにもなかった。
虚しさが辺りに充満する中、新田は血まみれの幸耀の元へ駆け寄る。
「幸耀......! 幸耀!!」
新田は他者に対して嘘をつくことに長けている。実際、重傷を負った患者を嘘一つで救った経験もある。
しかし、幸耀は既に息を引き取っていた。
死者を蘇生したことはない。
理由は単純明快。死者の蘇生によりエネルギー超過で自分が死ぬ事を感覚的に理解できているからだ。
「別に僕が死んだって......幸耀が生き返るならそれでもいい......そのはず......そのはずなのに......」
幸耀を中心に広がる血の海に、透明な液体がポタポタと落ちる。
幸耀の死を悲しみ、涙を流している。
そのはず。そのはずなのだが。
「......僕以外が......アイツやヘルメスを殺すことは許せないんだ......絶対に......僕が成し遂げる......」
ーー新田の感情が優先したのは、復讐心であった。
勿論、幸耀が死んだことは悲しい。
特別保護対象として世間からは隔離され、加えて気分屋とは一緒にいることが少なかったため、気の合う仲間が少なかった新田にとって、三日間だけの付き合いではあるものの、幸耀はかけがえのない存在となっていた。
でもそれ以上に、幸耀を殺した赤の少女と、こんな惨状を生む元凶となった神に対する憎悪が遥かに勝っている。
「アイツらを殺した後に......幸耀は生き返らせる」
そう、幸耀の蘇生は遺体の状態に関係なく行えるはずだ。つまりタイミングはいつでもいい。
その判断に、幸耀に対する申し訳なさが無いわけではない。しかし、蘇生と復讐を天秤にかけた時、本能が選ぶのは後者だ。
「ごめん......ごめん幸耀......絶対守るなんて言ったのに......僕は......僕は......」
せめてもの免罪符。
自分に対しても、幸耀に対しても、嘘を重ねる。
絶対に守るという約束を守れなかったことに謝っているわけではない。新田はただ、自分の在り方の汚らしさに、誰にも届くことの無い謝罪を述べる。
「僕は世界一の嘘吐きだ......!」