7-2 提案
新聞社へと届いた大量の本に、トーマスとユノ、マークはもちろんのこと、社長までもが目を丸くした。
発行部数は多ければ多いほどいい、なんて社長がテニスンと交渉したせいなのだが、まさか嫌がらせなのでは、と思ってしまうほどの量。
「これは、すごいですね」
誰しもが、そんな感想しか出てこない。同僚たちも皆、事務所のあらゆる場所に積まれた本の山に、呆れたような、困ったような笑みを浮かべた。
「いやぁ……さすがにこれは、うちがつぶれますよ」
財政的にも、建物的にも。決して新しい建物とは言えない新聞社の床は、誰かが歩くたびに、ギィギィと音を立てていた。
社長は、深く、大きく、そして長く息を吸い込んだ後、
「なるようにしかならんさ」
と手を打ち鳴らした。気持ちの切り替えが最も必要だったのは、社長自身だ。
「さ! 早速、新聞と一緒に配りに行ってくれ。司法裁判官には気をつけろよ」
社長の声に、配達担当の同僚たちが肩をすくめた。渋々、と言った様子で、新聞の束にそれらを丁寧に挟み、束ねていく。
一度に運べる量が減る分、配達担当でない者も手伝いに駆り出されていて、あっという間に、新聞社はいつになく慌ただしい雰囲気に飲み込まれた。
「タイミングが良かったと言いましょうか……」
ユノと共に新聞社を訪ねたトーマスは、どこか活気めいた新聞社の様子を観察しながら眉を下げる。マークが何度か見た、苦労人の笑顔がそこにあった。本音を隠す、上手な作り笑いかもしれない。
「本を売るのなら、何かお力になれるかもしれないと思ったんですが、必要なかったでしょうか」
そう切り出したトーマスに、みんなの視線が一斉に集まった。
懇願するような視線がほとんどで、トーマスはますます眉を下げてしまう。これ以上は下がらない、というところまで。
それほどまでに、本の数が多いということ。社長でさえも懇願の目を向けるのだから間違いない。社長も本音は、少しでも赤字を減らしたい、といったところだろう。
「お力に、なれそうですね」
トーマスが言いなおせば、全員が安堵の息を吐く。社長の瞳に浮かぶ色は、懇願から崇拝に変わっていた。
「でも、どうやって販売を?」
マークが抱いた当然の疑問に、トーマスは聖職者が着ているコートの内側に手を入れて、小さな本を取り出す。それは、イングレスの国民なら誰しもが知っている本だ。
「この聖典と一緒に販売します」
トーマスはさらりと言ってのけ、ようやく本来の麗しい笑みを浮かべた。この顔で、本を買ってほしいと乞われたら、女性のおおよそが聞き入れてしまうだろうな、とマークは思う。
「本を売るのに安全な場所を確保するのに、少し時間がかかってしまって。遅くなり、申し訳ありません」
さらりと黒いツヤのある髪が揺れる。隙間から、エメラルドグリーンのピアスがのぞき、美しく輝いた。
社長は目くばせを一つして、三人を社長室へと促した。
「それにしても、聖典と一緒になんて、よく思いつきましたね」
「実際は、マークさんの本を売るための言い訳です。聖典は、ほとんどの方がお持ちでしょうからね」
トーマスは、「そちらに」と社長から指示されたソファの片側にそっと腰をかけて、聖典を机上へと並べる。
「それにしても、本当に可能なんですか? 確か、教会の方々は、表立って商売ができないはずでは」
社長の質問に、ユノは「そうなんですか?」と驚いたようにトーマスを見つめた。てっきり、そういうことが出来るからこそ、この案を持ってきたのだとばかり思っていた。
トーマスは、少し声を潜めて
「色々と制約はあるんですが。正直に言えば、グレーゾーンです。それこそ、本当に裁判沙汰にされてもおかしくはないでしょうね」
と歯切れ悪く答える。
ユノが首をかしげると、トーマスは声のトーンを普段通りに戻した。
「支援をしてくださっている貴族の皆さまや信者の方々からの献金で、ロンドの教会は運営されているんです。ですから、それ以外の金品は受け取れないことになっているんですよ」
「それじゃぁ、聖典や本の販売は……」
「聖典の販売は献金扱いですね。この本も、その扱いにできれば、と」
トーマスの提案に、社長とマークは「なるほど」と相槌を打った。ユノもようやく理解したようだ。
「本の売り上げを、献金として納めれば、法律上は問題ない、ということですか?」
「えぇ。一応、大聖堂の司教からもお許しはいただきました。後は、この騒ぎがばれた際に、国王がなんというか……」
すべての教会の長は、国王なのだ。法律的に問題がないとはいえ、国王がダメだと言えば、何かと罪に問われてしまう可能性もある。
「それって、トーマスさん達は大丈夫なんですか」
マークが思わず口を挟めば、トーマスはすぐさま首を縦に振った。
「困っている人々をお助けするのが、聖職者の使命ですから」
トーマスの艶やかな漆黒の瞳には、確固たる意志が宿っている。
「これくらいしか、出来ずに申し訳ないですが……必ず、お力になれると思います」
本を作ったマークとユノ、本が完成するまでの時間を稼いだ魔女たちと軍人。
聖職者であるトーマスだけが、まだ何も出来ていない。
魔女を、そして、魔女たちのように困っている人々を、少しでも助けたいと思い、聖職者になったのだ。その責務を、今、まっとうせずして何になろうか。
トーマスは、どこか不安そうなマークと社長を説得しようと柔らかな笑みを浮かべる。
「問題ありませんよ。教会には、基本的に司法裁判官も近寄りません。ただ、時間との勝負ですから、出来る限り多くの方々に協力していただかなくてはなりませんが……それも、こちらで話をつけておきました」
幸いにも、大聖堂には多すぎるほどの聖職者が所属している。そうでなくても、近隣の教会にだって。
正直に言えば、教会の人々を説得させることも、教会で全く関係のない――それも、司法裁判官に見つかってしまえば、命がなくなってしまうような本を販売させてもらうことにも、多くの抵抗があったが。
トーマスにとっては、そんなことは些細なことだ。これからの未来を思えば、どんな苦労だって、大したことではない。
トーマスの言葉に、社長とマークは目を合わせて、しばらく閉口した。もちろん、ありがたい申し出ではあるが、教会側にどれほどの負担をかけてしまうのか、考えればきりがない。
二人の沈黙を破るように、トーマスが人差し指を立てる。
「もちろん、簡単にはばれないよう、細工はさせていただきます。色々な制約のうちの一つ、とでも申しましょうか」
「細工?」
「本の表紙に、聖典のカバーをかけさせていただきたいのです」
机の上に置かれた聖典からカバーを抜き取ると、すぐそばに置かれていたマークの本にそれをスライドさせる。
ロンドで売られている本のサイズは、何種類かしかない。聖典と、マークの本が同じサイズだったことは幸いだった。
背表紙さえ見られなければ、どこからどうみても聖典である。
「……なるほど」
これにはしてやられた、と社長も目を丸くして、メガネのフレームを押し上げた。
「もちろん、これだけでは問題がありますので、購入される方には、署名もお願いするようにしておきます。教会の外部には見張りをつけますし、万が一のことがあれば、本は隠して保管します。幸いにも、教会内部には必ず書庫がありますから」
トーマスは爽やかな笑みで、出来る限りの準備はした、と目の前に座る二人に目を向ける。
マークと社長も、そこまでされてはうなずく他なく、ユノもユノで、いつの間にトーマスがそんな風に動いていたのだろうと感心するばかりだった。
「それから」
最後に、とトーマスはユノを見つめる。まだ何かあるのだろうか、とユノが首をかしげると、トーマスは少しだけ憂いの帯びた表情を見せた。
「これが、最も有効な手立てで……最も危険なお願いなのですが」
トーマスはためらいがちに口を開く。
「この本を買っていただいた方に、ユノさんの魔法をお見せしたいのです」
魔女を守る役割の聖職者とは思えない提案。マークが言葉を遮ろうと身を乗り出すよりも早く、
「分かりました」
とユノがうなずいた。