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万年筆と宝石  作者: 安井優
七つ目の扉 教会

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7-1 ロンドへと戻って

 ロンドへと戻ってきた二人は、旅の余韻もそこそこに、マークは社長に、ユノはトーマスによってそれぞれの家とも呼べる場所へ連行された。

 特にユノは心配されていたようだ。彼女を迎えたトーマスは、旅立った娘が何年かぶりに帰ってきたかのような慌てぶりだった


 社長はトーマスが乗り付けてきたガソリン車を見送って、ようやく現実に追いついたらしい。メガネをクイと押し上げて、我々も行こうか、と歩き出す。

「どうだった……と聞くのも変か」

「いえ、とても勉強になりました。本当にありがとうございます」

 お礼の言葉はいくらあっても足りないが、社長は照れ臭そうに視線を外した。


「これからが、本当の闘いになるからな」

 冷静を装って(きびす)を返した社長。その七三に分けられた髪からは真っ赤になった耳が見える。照れ隠しともつかぬセリフ。だが、的は得ていて、マークの背筋も自然と伸びた。


「テニスンさんから、出版してからのことは社長に聞けと言われて」

 何か策があるのだろうか。歩き出した社長の背中に声をかければ、社長はちらりとマークを振り返る。

「少しな。それに、聖職者の彼も何やら案があるらしい」


 聖職者の彼。それがトーマスを指すことはマークにも分かったが、トーマスの案は想像できなかった。司法裁判官にばれないように本を売り出すための算段など、マーク自身が思いついていないのだから。


 新聞社の方へと向かうバスが停留所に滑り込んでくるのが見え、マークの思考が切り替わる。目の前を歩いていた社長もいつの間にか駆け出している。

 やはり、ロンドはせわしない。ユノの島から戻ってきた時にも感じた、街の慌ただしさに、マークは嘆息(たんそく)した。


 出発ギリギリで滑り込み、乗り口付近の手すりにつかまって、マークと社長は互いに息を整える。深呼吸を二度ほど繰り返し、このバスに乗らなくても次がすぐに来るのに、とマークは流れていく景色を見送る。


 コッツウォールの、はちみつ色の町並みが懐かしい。穏やかな天候も。のんびりとした雰囲気も。

 ロンドの、ガラスやアスファルトの無遠慮な照り返しや、どんよりとした曇り空は見ていて楽しいものではない。これからのことを思えば、なおのこと。


 マークの苦々しい顔に、社長は「コッツウォールは、良いところだったろう」と切り出した。社長の祖母である、エマがいたことには触れず、あくまでもテニスンの友人としての意見だった。

「私も新聞社を引退したら、あの町に移り住みたいくらいだ」


 社長が新聞社を引退する日は、うまく想像できなかった。それどころか、社長が引退について考えていたことも、あの新聞社が他の誰かのものになってしまうなんてことも、考えたことすらなかった。


「社長が、いなくなるのは嫌です」

 マークは自らの声にハッと顔を上げて、口をつぐむ。自らが発した言葉だというのに、子供のわがままみたいな本心が、そのまま口をついて出ていたとは。

 とっさに「すみません」と謝罪を述べたが、社長の表情は驚きのまま。


 しばらくして、バスが停車すると、その音を皮切りに社長が曖昧に笑う。

「マークのせいで、いついなくなってもおかしくないんだがな」

 社長のブラックジョークがマークの耳に痛い。

「本当に、その通りなんですが……。その、引退だなんて、社長はまだ若いのに」

「若いとは、嬉しいことを言ってくれる。若者に言われると、逆に心が痛むよ」

 社長の目じりにしわが寄り、彼の言葉が嘘でないことを示していた。


「まぁ、実際のところ、引退なんてものはまだまだ先さ。最も、引退できる年まで生きていられるかも分からない」

 今度は、真面目な顔で社長は呟く。マークに言い聞かせるというよりは、自らに言い聞かせるように。

「マークの本が売れるころには、いなくなっているかもしれん」


「絶対にそれだけはさせません。僕の本ですから」

 ほとんど食ってかかるようにマークが言い切ると、言葉を遮られた社長が苦笑する。

「現実は、物語のようにはうまくいかない。だからこそ、物語があるんだ」


 言葉の裏側を隠すように、社長の瞳がメガネの奥で悲し気に揺れる。落ち着いたブルーは、コッツウォールで見た小さな池の色と似ていた。

 祖母のことをさしているのだろうか、とマークは思う。

 マークの本を、テニスンを説得するために足を運んでくれたのは、祖母のこともあってだろうか。


 社長は、空いた席に座り、窓の外を眺めた。マークと視線を合わせてしまわないように。

「君の名で新聞の見出し一面が埋め尽くされる日を、見れるといいが」

 いつかの約束を引っ張り出して、自らを鼓舞したつもりだったが、あまりにも頼りない声で笑ってしまいそうになる。


 大人になれば、怖い物など何もないと思っていた。祖母の死を、魔女裁判の発端(ほったん)となった事件を、まるで他人事のように話す父を見て。いつか自分もこうなるのだろうと思っていた。身近な人の死でさえも、乗り越えていけるのが大人だと。


 だが、今やどうだ。息子のように思う作家の彼を、死なせたくないと必死に祈っている。マークの死は、きっと耐えられないだろうな。グローリア号の時だって、ただ冷静を装っていただけで……実際はぬけ殻だったから。


 ガラスに反射するマークの姿は、ずいぶんと立派に映った。元々は、仕立て屋の息子で、薄給だろうが服だけは良い物を着ていた青年。昔は、着られていたスーツも、今や彼が着こなしている。

 その点、自分の着ているものは、ずいぶんと年季が入ってくたびれてしまった。


(もう、私の役目も終わりだな)

 せめて、彼の名を記事に刻み込むくらいはさせてもらえるだろうか。

 ここから先、自分が出来ることは限られている。残っているのは、出版した本の販促方法を提示することと、マークの身に危険が及んだ時に代わってやることくらいだ。


 それすらも、この青年は許してくれないだろうな、と苦笑に歪んだ口元を左手で覆い隠す。

 窓の外の曇り空は暗さを増しており、夜にも雨が降りそうだった。


 町並みはだんだんと閑散としていく。バスはロンド郊外を走っていた。

 マークにとっては数週間ぶりの見慣れた景色で、社長には数時間ぶりの景色。長らく新聞社に勤めているせいか、この景色を見ると、悲しいかな、帰ってきたと思ってしまう。

 新聞社は家ではなく、仕事場なのに。


 マークと社長の思いがシンクロしたのか、二人は窓越しに肩をすくめあう。

 ここにも、会話をせずともなんとなく思いの通ずる関係があって安堵する。

 魔女だけではない。人同士でも、手を取り合っていくことに変わりはない。


 新聞社の最寄りでバスを降り、マークは天を仰いだ。

 あんなに冷たかった北風も、今はどこか落ち着いている。嵐の前の静けさともとれるし、春の訪れが近いともとれた。


「また、雨が降るんですかね」

「降るだろうな。春が近いから、そのうち余計に大きいのが来るだろう」

 天気のことだけを示唆(しさ)しているわけではないのだろう。ストレートな物言いをする社長には珍しく、詩的で遠回しな表現だった。


 あまりネガティブなことを考えるのはよそう、とマークは別の話題を探す。

「本は、どうやって売るつもりなんですか?」

「マークならどうする」

「正直、良い案はありません。本屋に置けば、すぐに見つかります。かといって、新聞社で発売するわけにもいきません」


 新聞社はあくまでも新聞を作り、配達するところ。新聞記事の中に原稿を混ぜ込めば、というのも最初は考えたが、本として形になってしまっている以上は不可能だ。

 社長は、ヒントをやろう、とメガネを押し上げた。


「君にも出来る。いや、私もやるし、君にもやってもらう」

「僕にも?」

 まさか、直接手売りするわけではあるまい。マークが出来ることと言えば、記事を書くことと、推敲(すいこう)すること、それから――


「配達?」

 マークがまさかと声に出すと、社長は「良い推理だ」と探偵小説から借りてきたセリフを回答代わりに使う。

「新聞配達と一緒に、本を配る。売るんじゃない、配るんだ。大赤字だな」


 サラリと言ってのけた社長は、マークの驚きなど気にも留めず、建付けの悪い新聞社の玄関扉を開いた。

 扉の開く音と同時に、飾られている左回りの時計が、カツン、と針を鳴らした。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 96/96 >>>マークは自らの声にハッと顔を上げて、口をつぐむ。自らが発した言葉だというのに、子供のわがままみたいな本心が、そのまま口をついて出ていたとは。  これを思いつくのはやは…
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