2-4 架け橋
ユノは冷蔵庫へ全ての食材をしまい、バイオレットのローブから一枚のガラス板を取り出した。
「それは?」
「うーん、電話……でしょうか」
「電話? これが?」
マークの知っている電話はダイヤル式のものか、そうでなければ旧型の壁かけタイプである。
「私たちの場合は、電気の代わりに魔法を使いますから。魔法が宿るものであれば、形はなんでもいいんですよ」
マークは興味深そうにそのガラス板を観察したが……これといって特別なものには見えなかった。
ユノは魔法を不便なものだと言ったが、マークからすれば随分と便利である。どんな形であろうと、通信手段がこんなに手軽に手に入るのだ。人と手を取り合い、科学と魔法を融合させれば、もっとイングレスの国は豊かになるはずなのである。
「これは、どういう仕組みなんですか?」
タネも仕掛けもないガラス板である。マークには使い方の見当すらつかない。
「話したい相手を思い浮かべて、ガラス板をこう……」
ユノはガラス板を持ち上げると、それを頭の前にかざして目を閉じた。
マークの目に映るのは、可愛らしい少女がガラス板を額につけて、なにかを念じている姿である。声も聞こえないし、当然、ガラス板の変化も見受けられない。
しばらくすると、ユノの表情が明るいものになり、それから真剣なものへ変わる。最後は何かをうなずいて、虚空に向かって頭を下げた。
ガラス板を置いたユノに、マークが怪訝な目を向けるのも当然のこと。ユノは、そんなマークの視線に気づいて、不思議そうに首を傾げた後、
「て、テレパシーです! ちゃんと会話も出来ましたよ!」
顔を真っ赤にして慌てふためいた。
「テレパシー?」
「相手に自分の思いを口に出さずに伝えたり……相手の気持ちを読み取ったりする魔法ですね」
マークはなるほど、とそのガラス板へ再び視線を落とす。
魔女を生み出す国、イングレスで生まれ育ち、魔女裁判で家族を亡くしたにも関わらず、マークは自らが全く魔法というものを……魔女というものを理解していなかったことに気づく。
知れば知るほどマークの創作意欲を掻き立てるそれは、なるほど確かに、人々を魅了するには十分すぎるほどの力だ。
「とはいえ、これは魔女にしか使えないんですけどね」
ユノが苦笑し、マークは驚きの声を上げた。
「魔法にはいくつか種類があるんです。私の魔法のように、普通の人にも感じられる魔法もあるんですけど、魔力を持つものにしか反応しない魔法もあるみたいで」
「えぇっと……つまり、テレパシーは、普通の人には使えない、ということですか?」
「残念ながら」
先代の王が、魔女裁判を制定した理由が少し垣間見えたような気がした。
王族というのは得てして『特別』なものである、と自負している。
それが、魔女という存在によって簡単に奪われてしまうのだ。しかも、王族だろうが、使えない魔法があるときた。
大層気に入らなかっただろう。
つまり、王族たちは、魔法に対する恐怖ではなく――自らの『特別』という形に見えぬ、根拠のないものにすがりつきたいだけなのだ。
そんなもののために、魔女たちは……。
今のイングレスでの息苦しさの理由は、魔女裁判だけではなかった。
皆、王族たちの顔色を伺って生きているのだ。
そんな当たり前のことに、どうして今まで気づけなかったのだろうか、とマークはつい顔をしかめた。
――僕がすべきことは、あんな編集長の脅しに屈して万年筆を折ることでも、船とともに海に沈むことでもない。
目の前の少女を笑顔にするために物語を書くだけでは足りない。
イングレスの国民たちに、魔女と魔法の存在を知らしめ、彼女たちと人々が手を取り合うことの出来る世界の物語を書くことなのである。
「……ユノさん、僕、決めました」
「え?」
突然顔を上げたマークに、ユノはきょとんと首をかしげる。
先ほどまで、ガラス板に興味を持っていたはずの青年が、何かを考えこんだかと思えば、急にそんなことを言うのだ。
誰だってそうなるのは当たり前のことだった。
「等価交換をしましょう。でも、僕は……ユノさんのための物語ではなく……魔女と、イングレスの人々に送る物語を、必ず書いて見せます」
マークはユノの夜空色に輝く、宝石のような瞳を見つめて続ける。
「それが、僕に出来る最大のお礼です。僕の……普通の人間の命を救ってくれた、魔女に対する敬意の払い方です」
ユノの、海色の瞳がキラリとまたたいた。
波しぶきをあげて、シルバーに光る水しぶきのように。海面から見上げた日差しの、ゴールドの光のように。そして、海と空の境界に横たわるプラチナの水平線のように。
「では、交渉成立ですね」
ユノはマークの方へと手を差し出した。その白磁のように透き通った左手をとれば、マークの右手にひやりとした感触が伝う。
「よろしくお願いします」
人と魔女が手を取り合うなんて、一体誰が想像していただろうか。
今はまだ、たった二人の世界に過ぎない。
だが、いつかこの出会いが、世界を変えるだろう。
二人の胸には、そんな予感がしっかりと感じられた。
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「そういえば、さっきのテレパシーは誰に?」
電話、と呼ぶにはあまりにもマークの知っているものからかけ離れているので、マークはあえて、テレパシー、とユノが使った言葉をそのまま使うことにした。
「魔女協会の方です。私にこの島を与えてくださった方に、荷物のお礼と……マークさんのことを」
「僕のことを!?」
「はい。生活費のことを相談しなくちゃいけなかったので」
まさか、本当だったとは。マークは、あっさりと言ってのけるユノを呆然と見つめる。
人間に見つかれば、魔女は殺されてしまう。それがこの世界のルールである。
それなのに、人であるマークのことを、こうも簡単に話しても良いのだろうか。
「ち、ちなみになんと……?」
「生活物資については、今後二人分を送ってくれるそうですよ。私は、魔女協会と契約して、魔法を対価としていますから今まで通りで問題ないのですが……その」
「はい……」
ユノの神妙な面持ちにつられ、マークもゴクリとつばを飲んだ。
どんな要求をされるのだろうか、と身構えた矢先。
「魔女協会の方も、マークさんのお話をぜひ読みたい、と。それで、手を打ってくれるそうです」
「は、ぇ?!」
ユノの口から出た要求に、マークは思わず声を上げる。
ユノといい、魔女は、マークを大御所作家か何かと勘違いしているのではないだろうか。
あまりにも不釣り合いで奇妙な等価交換である。
「マークさんが物語を書いてくださるってお話したら、魔女協会の方が興味を持ってくださって」
ユノの愛らしい笑顔が、今はマークには恐ろしかった。
確かに、先刻、マークはユノとそんな等価交換の契約を交わした。
その気持ちに嘘偽りはないし、それだけの物語を必ず書いてみせる、とさえ思っている。
……思ってはいるが。
逃げ道をふさがれたマークに、ユノはさらなる追い打ちをかける。
「それから、マークさんにもぜひ一度お会いしたい、と言っていました」
「えぇーーーーっ!?」
マークの声が、島いっぱいに響き渡る。
キッチンの奥の窓から、バサバサと鳥の飛び立つ音が聞こえた。
どうやら、マークが想像している以上に、魔女というのは人間に飢えて……いや、人間と手を取っていきたいと切に願っているらしい。
――その架け橋を、僕が。
この日、この瞬間。
マークの右手は、まるで物語の一文字目を綴るときのように震えていた。