5-17 夜空に燃える星のように
ジュリは、コートの内側から小さなメモを取り出して、ディーチェに手渡した。
「そこに書いてある資料を持って帰りましょ。あんまりたくさんだと運べないから、エリックを呼んでるの」
ジュリはパチンとディーチェにウィンクを投げかける。
やっぱり、ジュリは生粋の魔女だ。
人の計り知れないところで画策し、こうしてあっという間に誰もが出来なかったことをやってのける。
それこそ、魔法のように。
「エリックも、そろそろついてるはずだけど。屋上かしら。資料を集めたら、上に向かいましょう」
ディーチェがすべてを理解する前に、ジュリは迷うことなく歩き始めた。
ディーチェは、ジュリの後を追いながら状況を整理する。
エリックという人物とジュリは共謀しているらしい、ということ。渡されているメモに書かれた資料を盗むこと。それから――
(オブジェまで壊す気?)
資料の名前と共に、メモの内容を読み上げて、ディーチェは思わず眉をしかめる。
エントランスに飾られていた趣味の悪い天秤の形のオブジェ。その構造がつぶさに書かれている。
憎き司法裁判官への制裁と考えれば、むしろ生ぬるいのかもしれない。
だが、それをジュリが実行しようと考えているところがどうにも意外だった。シエテならともかく。
そういえば、作戦を開始した時も「燃やしてもいいか」とアリーに尋ねていたのはジュリだ。
てっきり、ジュリは無条件で人間を愛していると思っていた。恋多き魔女。それがジュリという女性だ。
(……それとも、司法裁判官は別ってこと?)
ディーチェは、途端にジュリが知らない人になったみたいで、その後姿をまじまじと見つめた。
ジュリは、スイスイとブッシュの内部を歩き回って、必要なファイルを抱えていく。相当な大きさと分厚さがあり、ディーチェでは二冊が限界だ。
ジュリも、三冊ほど抱えたところで
「一度、エリックと合流しましょうか」
とディーチェに声をかけた。
真夜中のブッシュは、昼間の、司法裁判官がこれでもかといて騒がしい雰囲気とは全く異なる。ただ呼吸をするだけでもその音が響くほど静か。警備も巡回していないのか、それともその時間ではないのか、人の気配さえない。
ジュリとディーチェは、互いに自らの足音や、物音に注意を払って進んでいく。
ブッシュの厄介なところは、建物が新しいせいか、その防犯対策も新しく……ディーチェが生まれるより少し前に誕生したという『監視カメラ』なるものが取り付けられていて、二人はそれすらもかいくぐらねばならなかった。
まだ発明されたばかりのそれは、夜の暗闇には弱いらしい。ジュリはそう聞いたが、それも信じられたものではない。
特に、魔女に対する司法裁判官の執着は異常だ。何がなんでも突き止めてくるだろう。
二人はなんとか息をひそめて、屋上の扉の前まで歩く。
「この先よ」
ジュリの声に、ディーチェはようやくそこで一度長く息を吐いた。静かすぎるせいで、呼吸さえままならなかったからか、バクバクと心臓がせわしない。
ファイルを置いて、ジュリがコートから鍵を取り出す。
屋上へと続く扉の鍵は、警備の男から借りた。全く別物の鍵に魔法をかけて、屋上の鍵とすり替えたというのが正しい。
新入りの司法裁判官という設定は、意外にもいろんなところで役に立ったな、とジュリは鍵を開けながらそんな風に思う。
雑用だなんだ、と言えば納得してもらえるし――多少怪しい挙動でも、新入りなら右も左も分からないだろう、と甘い目で見てもらえる。
ジュリは、ドアノブに手をかけて……つい、その扉の向こうを想像してしまう。自らの望んでいた光景が広がっていますように、と祈らずにはいられない。
(オープンセサミ)
大好きなその呪文を心の中で唱えれば、ガチャン、と鈍い金属音が響き渡った。
ツンと鼻を刺すような、ロンドの北風が吹き込む。ジュリとディーチェの髪がなびく。同時に、
「まったく、今夜は素敵な夜ですね」
困ったような、明朗快活な声が聞こえて、ジュリは胸をホッとなでおろした。
待っていてくれる人がいるというのは、これほど心強いものなのか。
あの日、永遠の空へ旅立ってしまった彼の気持ちが、不意に分かったような気がした。
「待たされるなんてゴメンだと思っていましたが。まさか、ジュリさんに待たされるとは」
エリックのくしゃくしゃな笑みに、ジュリの胸が痛む。エリックとて、ジュリと同じで、待つのは嫌だったはずだ。
「ごめんなさい」
素直にジュリの口から謝罪の言葉がついて出た。
対照的に、ディーチェはバツの悪そうな、気に食わない、という表情でエリックを睨みつけるように見据えた。
初めて会う男。おそらく、魔女に対して好意的なのは分かる。それも、ジュリには特別好意を寄せていることも。
だが、頭では理解出来ていても、体はやはり無意識のうちに拒否反応を示してしまうもの。物心ついたときから人間が怖いディーチェがその感情を素直に受け入れられるはずもなく。
(彼に、資料を渡さなくちゃ)
そう思っているのに、ジュリのようにはエリックという男のもとへ歩いていくことは出来ない。手も足も震えて、一歩を踏み出すのが関の山。ぎゅっと抱えているはずの資料でさえ落としてしまいそうになる。
けれど、ジュリはそんなディーチェを助ける様子はなかった。
ディーチェは、自ら望んでここに来た。彼女を子ども扱いしない、と決めたのだ。それが、どんなにディーチェを傷つけることになったとしても。
口には出さず心の中で「頑張れ」と呟いて、ディーチェを見守る。
エリックも、何かを感じ取っているのか、はたまた幼い魔女の必死な形相にかける言葉もないのか、口を開くことはなかった。
ロンドの冬空。その濃紺が、ディーチェのブロンドを際立たせる。美しいスカイブルーの瞳は、夜空に燃える星のようにチラチラと輝いていた。
「これ……」
ディーチェが震える手で、ゆっくりとエリックの方へ資料を差し出す。
恐怖の色は、やがて覚悟と決意に変化していく。
それは、夜が明けていくように穏やかで、神々しかった。
「お願いします」
ディーチェの言葉に、エリックもゆっくりとアーモンド色の瞳をきゅっと細めて笑う。目じりに浮かんだしわと、口元に現れたえくぼは、エリックを愛嬌ある親しみやすい青年に仕立てていた。
「任せてください」
その言葉が、ディーチェの心の中にわだかまっていたものを、ほんの少しだけ溶かしていく。
マークやトーマス以外にも、外の世界にも、こうして魔女の味方をしてくれる人がいる。
魔女と、人は手を取り合える――
エリックはニッと子供っぽい笑みを浮かべて
「俺は、空軍中尉のエリック・ブラウンです。よろしく」
と資料を持っていない方の手を差し出した。
ディーチェはその手を取るべきかどうか迷って、ちらりとジュリを見つめる。華やかな紅色が、情熱的なその赤が、ディーチェに微笑みかけた。
「大丈夫。エリックはこんなだけど、別にディーチェちゃんを取って食ったりはしないわ」
冗談めいたその言葉は、友人のような、姉弟のような。
ディーチェがおずおずと手を差し伸べる。
エリックの手は、想像していた以上にゴツゴツとしていて、暖かかった。
「認めてもらえたみたいで嬉しいです」
お世辞でも、社交辞令でもなく、エリックはその顔をほころばせる。
(友達って、こんな感じなのかしら)
ディーチェは柄にもなくそんなことを考え、慌ててエリックとの握手をほどいた。
「べ、別に! 認めたわけじゃないわ! でも……」
ディーチェが小さく「ありがと」と呟いて、プイと顔を背ければ、エリックの明るい笑い声が聞こえる。
子供扱いされた、とは思わず、むしろ対等な関係だからこそ、エリックは笑ったのだとディーチェには分かった。
それがなんだか悔しくて、ディーチェはくるりと体をひるがえす。
「も、もういいでしょう! ほら、早く次の資料を運ぶわよ!」
ディーチェの高い声が、ロンドの夜空に吸い込まれていく。ブロンドのツインテールが揺れる隙間に、彼女の赤く染まった頬が見え、ジュリも柔らかに目を細めた。
希望を秘めた魔女の背中は、まるで知らない人のよう。
それは小さく、けれど頼もしかった。