2-2 作り物の世界
二つ目の扉を開けた先には、海の中が広がっていた。目の前を横切るのは色鮮やかな魚たち。エイは羽を広げて飛ぶ鳥のように海中を渡り、ウミガメやイルカが水中を踊るように泳ぐ。
「これも素晴らしいですね……」
グローリア号からマークが見た、命を奪う真っ暗な海ではない。温かな日の光が降り注ぐ、命の生まれる場所だった。
二つ目の部屋を出れば、
「次が、最近の中では一番のお気に入りなんです」
ユノは上機嫌で、三つ目の扉のドアノブに手をかける。
「オープンセサミ」
ユノの紡ぐ呪文は、まるで祈りのように静かに響いた。
三つ目の扉の先、マークはその光景に感嘆の息を吐く。
暗闇の中、暖かな電球色に包まれて、メリーゴーランドがゆっくりと回っていた。
楽しい音楽などない。ただくるくると薄い闇の中を飾り立てられた馬が走っているだけ。
だが、動くたびなびいている馬のたてがみや、チカチカと明滅するランプ。星のまたたきが刹那的な美しさを醸し出す。
少しもの悲しい雰囲気だったが、マークはそれを気に入った。
懐かしく、あたたかな――人の気配を感じる場所。
「決められた空間の中に、景色を投影するだけの魔法なんです」
ユノは、メリーゴーランドの回転を見つめていた。
客である魔女の一人から頼まれて、先日ユノが作り上げた景色。だが、ユノにとっても、感傷に浸るにはちょうど良かった。
「それが、ユノさんの魔法?」
「はい。この魔法が人間に危害を加えるなんて、信じられますか?」
何も、今のイングレスの法律を咎めたいわけではない。先代の王が言ったことも、今の王が定めたことも、分からないほどユノは子供ではなかった。
きっと、ユノ自身も、魔女でなければ、得体のしれない魔法の力におびえていただろう。
「ただ、見えるだけ。触ることも、香りも、音も。本当ならあるはずのものが何もない」
けれど、そんな魔法が人になんの害を及ぼすのだろうか、とユノが考えてしまうのも無理はない。
マークがそっとユノを盗み見れば、彼女の宝石のような瞳に、メリーゴーランドの光が映りこんで溶けていく。
「私が魔法で出来ることは、作り物の世界をそこに映すだけです」
魔女もまた、人に憧れているのだろうか。ユノの話を聞きながら、マークは思った。
メリーゴーランドを生み出したのは、他でもない人だ。魔女の力がまだ地に残っていたころ、彼女たちに負けじと人々が発達させた科学の産物。
「そういう作り物の世界のことを、僕みたいな人間は、物語と呼びます」
マークの前を通り抜けていくきらびやかな馬車。そこには、最初にこの部屋を見た時に感じた寂しさはなかった。
マークの良く知っているまっさらな原稿用紙と同じ。
ユノの魔法は、どんな物語だって生み出すことの出来る、無限の可能性にあふれたもののように思えた。
マークのフォレストグリーンの瞳は、メリーゴーランドの柔らかなゴールドに輝いていた。
――この人となら、もしかして。
もう一度、魔女と人が手を取り合う世界が作れるのではないか。
ユノはそんな予感に胸を高鳴らせる。
「僕は、作家として、物語で人々を幸せにしたいんです」
マークは照れくさそうに頭をかいた。
「それも、一度はあきらめた夢です。先日、人生をやめてしまおうかとさえ思った人間です。……でも」
マークはユノを見つめて微笑む。
「ユノさんに出会って、もう一度、物語を書こうと思えました」
ユノが目を見開くと、
「今も、本当は、ユノさんが作った世界を書き留めておきたいくらいで」
と、マークは右手を動かす。
「つい、万年筆を探してしまうんです。この癖は治りませんね」
「ありますよ!」
ユノが突然大きな声を上げて立ち上がったものだから、マークは少し驚いた様子だった。
「万年筆! あります!」
ユノは両手をぎゅっと胸の前で握りしめ、扉の外へと駆けだしていく。
マークが後を追いかけて部屋を出た時には、ユノはすでに棚に備え付けられた引き出しの中をあさっていた。
「どうして、僕にそんなに……」
人間を恨みこそすれ、魔女が何の見返りもなく人に優しくする理由が、マークには分からない。マークが裏切るのではないか、ということなど、彼女は微塵も考えていないのだろう。
「どうしてって……」
ユノは引き出しを次々と開けていく。
「マークさんのお話を、もっと読みたいからでしょうか」
マークの顔が真っ赤に染まっていくが、彼女は探し物に夢中で気づいていないようだった。
ユノは「あった!」と声を上げて、万年筆とインク、そして大きめの紙を取り出した。
「これで、またお話が書けますね」
それらをマークの方へ差し出し、そこで、彼の顔が真っ赤に染まっていることに気づく。
「どうかしたんですか?」
マークをのぞき込む夜空色の瞳が、その色に似合わずまぶしかった。
「ありがとうございます」
マークは渡されたそれらを抱きしめた。
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万年筆やインク、そして紙の質感に、マークが感慨に浸っていたのもつかの間。
「あ!」
ユノは、棚に置かれた時計を見つめて声を上げた。
「そろそろ荷物が届くんでした」
「荷物?」
「はい。魔女協会からの支援物資です」
ユノが玄関扉を開けた先に広がる海は、作り物ではない。
波の音、潮の香り、差すような日差しに、白い砂がまとわりつく感覚。
マークが振り返ると、白壁に青の窓や扉が目を引く美しい家。扉のすぐ脇に備え付けられた郵便ポストの赤。
こんな島にどうやって手紙を、というマークの疑問は、『とびら屋』の看板に垂れ下がる美しいマゼンタの花にかき消されてしまう。
「あそこが、マークさんと初めて出会った場所です」
ユノが指さした先に見えるのは、グレーの大木。マークが書いた物語は、すでに風にさらわれて消えてしまっていた。
「話を書く前に歩いていれば、ユノさんのお手をもう少しわずらわせずに済んだんですね」
面目ない、とマークは頭をかく。
大した距離ではないとはいえ、少女が成人男性を引きずって歩くにはさぞ苦労しただろう。ただでさえ砂浜は歩きにくい。
「大きい荷物を持って運ぶのには、慣れてますから」
ユノは、ほら、と海の方へ指をさした。
ちょうどユノの人差し指の先、エメラルドグリーンの波が曖昧に溶けていく。
「え……」
マークはまばたきを数度繰り返し、目をこすって眺めたが、見間違いではない。
海の一部が、陽炎に揺らめくように、ぐにゃりと歪んでいる。
まるでそこだけ何かに切り取られたとでもいうように、真四角な空間が浮かびあがっていた。
波の音と共に、突如としてその空間から木箱が現れる。同時に、真四角に歪んだ空間は消え去り、先ほどまでと同じ穏やかな海が横たわった。
木箱はそのまま、波に揺られながら浜に打ち上げられる。まるで、海が荷物を運んできた、とでもいうように。
「これは、一体……」
「ふふ、普通に送ってもらうように言ってるんですけどね。雰囲気が出るでしょって」
変わったこだわりがあるみたいです、とユノは、木箱を両手で持ち上げる。
「食べ物はもちろん、生活に必要なものが、こうして週に一回届くんですよ」
マークは慌ててユノに駆け寄り、木箱を彼女の手から取り上げた。男からしても随分と重く感じる。大きい荷物を持って運ぶのに慣れている、というユノの言葉はあながち嘘ではないらしい。
すみません、と頭を下げるユノに、少しくらいは恰好をつけさせてほしい、とマークもなんとか木箱を抱え込んで歩き出す。
「これも魔法ですか?」
「そうですね。その箱には、三つの魔法がかかってるんですよ」
「三つ!?」
マークは驚きで箱を落としそうになるのをなんとか必死に抱え込んだ。
「魔法って、不便なんです」
「そうなんですか?」
「地味なものもありますし、一つでは意味をなさないものもあります」
砂浜を蹴るユノが、少し不貞腐れているのか、それとも、子供のように無邪気に笑っているのか。彼女の後ろ姿からは判別できなかった。
「だからこそ、手を取り合うんです。人も、魔女も」
魔女にはいくつもの秘密が……いや、人々が目を背けた真実がある。
マークはそれを物語として語り継いでいきたいと思う。
作り物の世界ではなく、本当の、人と魔女が生きる、この世界のこととして。