5-13 試練
ブッシュへと潜入を終えた翌日、ディーチェは部屋に引きこもってしまった自分をさらに責めることになった。
「何なのよ、これ……」
普段は読まない新聞を、どうして今日に限って手に取ってしまったのか。
ディーチェは、礼拝堂の机に置かれたその新聞記事を破り捨てようと力を込め――そして、その手をゆっくりと下げた。
いつもは誰かがいるはずの礼拝堂に、今日は誰もおらず、新聞がバサバサと無遠慮に音を立てる。
一体、自分が部屋にこもっていた後に、何があったというのだろう。
どうして、誰もいないのだろう。
ディーチェは、礼拝堂を飛び出して魔女協会の中を走り回る。誰か、と叫びそうになるのをぐっとこらえて、柱を曲がり……
「キャッ!?」
ドン、と何かにぶつかって、ディーチェの体は石膏の床に吸い込まれる。
「ディーチェさん!」
だが、ディーチェの体が感じたのは、冷たい床の感触でも、痛みでもなく、あたたかな体温と小さく聞こえる誰かの鼓動。
ディーチェがそっと目を開け、顔を上げると、つややかな黒の瞳とぶつかった。
ディーチェの体を抱き止めるようにしていたのはトーマスで、その認識から数瞬遅れてディーチェの鼓動が大きく跳ねる。
「すみません、急いでいたものですから」
トーマスは珍しく慌てたような顔で、ディーチェを見つめていた。
何事もなかったかのように体を解放され、それがなぜか名残惜しい。
「無事でよかったです。本当に申し訳ありません」
深々と頭を下げられても、そんな謝罪の言葉が耳に入ってこないほどに、ディーチェの脳はほとんどの活動を止めていた。
「お怪我はありませんか」
そんな風に尋ねられたことにも気づかず、ディーチェがぼんやりとしていると、不意にトーマスの手が、さらりとディーチェの頬を撫でる。
「ひゃ!?」
ディーチェがびくりと体を揺らせば、「すみません」とトーマスも驚いたように手を引っ込めた。
「お怪我は?」
「だ、大丈夫よ!」
自らの顔に熱が集まっていくのを隠すようにディーチェは体ごと明後日の方へ向ける。トーマスはディーチェの様子を訝しむわけでもなく、言葉の通りに受け取って
「良かったです」
と胸をなでおろした。
「それでは、すみませんが、私は少し急ぎますので」
トーマスはニコリと軽い笑みを一つ浮かべて、ディーチェの横を足早に通り過ぎる。普段落ち着いている彼がそこまで慌てている様子に、ディーチェの心がさざめいた。
――何かが、起こっている。
一つ一つは些細な変化。だが、それがいくつも重なって、何か、とてつもないことが自分の知らぬ間に起きている。
全身に嫌な予感が駆け抜けて、ディーチェはくるりと体を返す。
「ねぇ!」
渾身の力を込めて、どこかへと駆けていくトーマスの背中にその声を突きつけた。
トーマスがゆっくりと振り返ったのはそれから少ししてからのこと。
聞こえているはずなのに、何か迷いがあるかのように、ディーチェの方へと振り返ることをためらったようにも見えた。
ディーチェは、ツカツカとトーマスの方へ歩み寄る。
「何があったの? みんなはどこ」
ディーチェの、強い輝きを放つスカイブルーが、トーマスの瞳に映る。
その幼くも大人びた彼女に、何から、どのように話せばいいのか――
聖職者として、様々な人の心に寄り添ってきたトーマスでも、すぐにその答えを導き出すことは出来なかった。
逡巡し、けれど、彼女を欺くことも出来ず、トーマスは深いため息を吐く。
どうして、魔女はこうも不幸な巡り合わせに吸い寄せられてしまうのだろう。この世界を作ったのは他でもない魔女だというのに、現代の魔女に恩恵が与えられる様子はない。
こんなに幼い魔女にさえ、平等に、現実という試練を突きつけて。
「……立ち話もなんですから、礼拝堂へ行きましょう」
ちょうど、トーマスも礼拝堂に用事があったのだ。魔女の忘れ物を取りに戻るという用事が。
「お茶はいりますか?」
平静を装って、トーマスがディーチェに笑みを浮かべれば、彼女はゆっくりと首を縦に振った。
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「昨日、ディーチェさんがお部屋に戻られてから、シエテさんがブッシュに潜入されたんです」
ティーカップに並々と注がれた紅茶に、トーマスの穏やかな声が沈む。
「そして、ファイルをもって戻られた」
「ファイルって……グローリア号の?」
「えぇ。ですが、その時にどうも、司法裁判官と接触したらしいのです。司法裁判官が持っていたファイルを盗んだ、とシエテさんは言っていました」
「嘘でしょ……」
ディーチェが絶句したことには構わず、トーマスは話を続ける。
「そこで終わればよかったのですが、どうやらその後、事件が起きたようでして。司法裁判官が二人、ブッシュ内部で殺されたのです」
だが、トーマスの言葉もそこで途切れた。
新聞の見出しをそのまま声に出すことはためらわれた。
ディーチェは、驚きと困惑、そして、あからさまな悲痛の色を顔に浮かべる。
「シエテは……無事なの?」
なんとか言葉を絞り出したディーチェの唇は震えている。見ていて痛ましいほどに、少女は傷ついていた。
「幸いなことに、皆さん無事ですよ」
出来る限りの穏やかな声を出して、トーマスは笑みを作る。魔女を励ますことだけが、トーマスが今出来る唯一のことであり、それが彼自身の贖罪だ。
「昨晩は早めにお休みになられましたから、今朝は早く目が覚めたのでしょう。みなさん、早々にお出かけになられました」
魔女の協力者とはいえ、トーマスは人間であり――魔女の帰りをただここで待っていたにすぎない。怖い思いもせず、殺人現場にも出くわさず。彼女たちの痛みの半分も分かち合うことが出来ない。
だからこそ、そんな自分が傷つく資格はない、とトーマスはそう思う。
「出かけたって、どこへ?」
「……それは」
「まさか、またブッシュに行ったなんて言わないわよね!?」
言いよどんだトーマスに、ディーチェは声を荒げた。
それは、無謀なことを繰り返す魔女たちへの怒りでもあり――なんの役にも立てない自分への不甲斐なさと憤りでもあった。
まだディーチェは子供で、アリー達のようにはなれないのだと思えば、悔しくて涙が出る。
「……なんで」
こんな風に、言いようのない思いにさいなまれるのは、これで何度目だろう。たった一か月だ。そんな短い期間の中で、こんなにも変わってしまった。
マークに出会うまでは、人間と手を取ろうと思うまでは、こんな風に苛立つことも、悲しむことも、絶望することもなかったのに。
ディーチェは、奥歯を噛みしめる。
「人間なんかと、手を取り合うなんて! そんなこと、ちょっとでも考えなきゃよかった!!」
たかが、物語のために。本一冊のために。マークのために。
――魔女たちのために。
こんなに苦しい思いをするなんて、知らなかった。怖い思いをするなんて、思ってもみなかった。自分はどこまでも子供で、それをこんなに突きつけられるなんて。
魔女は特別で、強くて、美しくて、優しくて――
でも、それは、ディーチェの幻想だったのだ。
「アタシ、なんにもできてない! 一人だけ、子供で。みんなの役になんか、ちっとも立ててない!」
ディーチェは自分の無力さに声を上げて泣いた。
――もっと、みんなみたいに強くなりたい。みんなみたいに、胸を張って生きていきたい。魔女として、人と同じように生きていきたい。
ただ、そう強く願って、ただ気のすむまで泣き続けた。
ディーチェの隣にいたトーマスは、そんな彼女に伸ばしかけた手を引っ込める。
今、ディーチェは強くなるために戦っているのだ。生半可な気持ちで手を差し出すのは、彼女を冒涜しているようなものだった。
「私も、何も出来ていないのです。だから、一緒に強くなりましょう。アリー達と、共に肩を並べて戦えるように」
手を差し出す代わりに、誓いの言葉を口にする。
それがディーチェに聞こえていなくても構わない。トーマスも、心の中で一人そっと涙をぬぐって、マークやエリックのように自ら動かなければ、と決意した。




