5-12 共に朽ち果てる
ダンッ!
強くたたきつけられたこぶしに、ティーカップがカチャカチャと揺れる。
ジュリは自分のことのように怒りをあらわにした目の前の青年、エリックに『彼』の姿を重ねた。
「世間が何といおうと、今回の事件、魔女が殺したなんてことには、軍が……いや、俺が絶対にさせませんよ!!」
エリックは声を荒げる。空軍中尉がこんな風に怒っていると知れたら、部下がどれほど恐れおののくことだろうか。
それも、普段は軍の中でも比較的温厚で、快活なエリックともなればなおさら。
だが、ジュリは、この青年はどこまでもまっすぐに魔女を信じてくれるのだな、と安堵にも似た気持ちを覚える。
ただ、安堵だけではなく、複雑な感情が入り混じってしまうことには、目をつぶるほかない。
「おそらく、ワタシが最後に会った男が、彼らを殺した犯人だと思うの」
「上質なコートに、ピンバッジですか」
「えぇ。バッジは、星のスタッズに青と銀のリボンがついたようなもので……」
ちょうどこんな感じかしら、とジュリは自らの見た目をあの忌々しい男の姿に変える。エリックは顔をしかめた後、なるほど、とうなずいた。
黒縁メガネに黒く淀んだ瞳、短いダークブラウンの髪。その姿だけなら、ロンドの街にはよく馴染んでいるだろう。だが、制服から役職くらいは絞ることが出来るようである。
「おそらく、ジュリさんが見た男は、最高裁判官と呼ばれる職位の人物でしょう。司法裁判官の中でも、最高裁判所に勤める者……すなわち司法における最高機関の人間です。司法裁判官を監督する役目であり、最後の審判を下す人間でもあります」
エリックは顔をしかめる。
「貴族や王族との繋がりのある者が多く……厄介な相手です」
軍と敵対関係にある司法裁判官を、それも高位にあたる最高裁判官をこれで合法的に糾弾出来る。そんな考えとは裏腹に、いささか相手が悪すぎるというのは正直なところだ。
軍が相手を拘束できても、最終的にそれを裁くのは司法であり――その男が最高裁判官ともなれば、罪には問われないどころか、こちら側が不当な逮捕だと言及される可能性だってある。
何より、王族はともかくとして、司法裁判官の後ろに控えている貴族には、軍にも金を出資している者もいて、どちらの味方につくのかは運しだいなのだ。
暇を持て余し、この国全体を使ってありとあらゆることを賭け事にして楽しむような悪趣味な貴族がいることを、エリックは知っていた。
軍への出資が途絶えれば、必然的に軍の権力も弱まってしまう。魔女のことを救うためにも、今その状況に陥るのは避けたい。
エリックは、少し悩んでから「とにかく、証拠が必要ですね」と唸る。
ジュリのことを信じていないわけではない。むしろ、ジュリのことならなんでも信じられる。それが恋という名の魔法にかけられているエリックの本心だが、ジュリの言った真実を世の中に認めてもらうためには、客観的な証拠が必要なことは明白だった。
「あの男の靴に、血がついていたの。上質な革靴よ。ただ……」
「この騒ぎの内に処分されているかもしれませんね。その男が着ていたコートや、衣服、持ち物なんかもすべて」
「せめて、あの男が誰なのか……それだけでも分からないかしら」
悔しそうなジュリの言葉に、エリックも難しい顔で黙り込む。
おそらく、最高裁判官の男ともなれば数は限られる。軍の権限でなら、彼らの情報を手に入れることは容易いだろう。
だが、問題はその男を見つけた後。
目の前のこの、愛する彼女は――きっと、その男に近づこうとするに違いない。
エリックは、それが耐えられなかった。
彼女がブッシュに潜入したと知っただけでも気が狂いそうになるほどなのに、その上、こんな殺人事件に巻き込まれ、挙句の果てには相手が最高裁判官だなんて。
なんとかフツフツと湧き上がる言いようのない怒りを、抑え込むだけでも精一杯なのに。
「少し、調べてみましょう。ですが、約束してはいただけませんか」
エリックがまっすぐに混ざり気のないアーモンド色の瞳を向ければ、ジュリはその瞳に少したじろいだ。
「……内容にもよるわ」
心の内を、これからの算段を、全て見透かされている。それがまた『彼』のようで、ジュリも素直にはエリックの提案を飲むことが出来なかった。
「例えば、じっとしてろ、なんて……そんなことはワタシにいうだけ無駄よ」
ジュリの言葉に、エリックの瞳にも少しばかりの悲しみが映る。
置き去りにされる悲しみも。自分の無力さを嘆くことがないように生きていこうと誓ったことも。
二人には、まるで昨日のことのようだ。
一人で生きて後悔するくらいならば、共に朽ち果てる方がいい。そんな風に思ったことでさえ。
だが、これ以上大切なものを失いたくもない。エリックは、これはエゴだ、と自分に言い聞かせて苦笑する。
「わかってますよ。わかった上で、俺はジュリさんには行ってほしくないんです」
彼女の代わりに差し出すことの出来る命なら、幸いにもここに一つある。
「ダメよ。それだけは、絶対にダメ」
今度は、エリックの覚悟を見透かして、ジュリが眉を吊り上げる。怒っている姿でさえ美しいのだから、魔女とはなんと罪な生き物だろう、とエリックは感嘆の息を飲みこんだ。
「せめて二人で行きましょう。エリックだけが彼のところへ行けるなんて、ずるいもの」
ジュリの物言いは子供みたいなのに、その言葉に宿る思いは大人の女性のもので、エリックは「ずるいなぁ」と本音をこぼす。
付け入る隙すら、彼女は与えてなどくれない。
「トカゲが尻尾を切るように……別の人間にとって代わられるかもしれません。犯人を確実に捕まえられる保証はない。それでも、かまいませんか」
折れたのはエリックだった。
惚れた者の弱みだな、とエリック自身も自分の甘さにはつくづく呆れてしまう。彼女を、ジュリを幸せにしたいという思いがあふれるあまり、彼女を甘やかしてしまうのだ。
彼女のことで傷を作るのは自分だというのに、そんな傷でさえ、エリックに甘い感情をもたらすのだから厄介なこと極まりない。
ジュリは、幾分か晴れやかな表情で笑った。
「魔女のせいだって思ってる世間の目が、少しでも変わってくれればそれでかまわないわ」
燃えるように輝く紅色の瞳が見つめる未来は、いつだって、茨の道だ。
もしかしたら、彼女の赤は、茨に咲き誇る大輪のバラを写し取っているのだろうか。
だとすれば――そのトゲを一つでも抜いてやれれば、どれほど良いだろう。
エリックは、冷めてしまったティーカップを持ち上げて
「どうして」
と無意識に漏れた言葉を、紅茶と一緒に飲み込んだ。
どうして、こんなにも美しい魔女を、人は愛することが出来ないのだろう。
エリックは、彼女を愛している。彼女が、どれほど昔の男……エリックの、尊敬すべき偉大なる上官を愛していようとも。
だが、世間はそうではない。魔女のことは何一つとして知らないくせに、彼女たちを忌み嫌う。
考えれば考えるほど、それは無駄なことのように思えて、エリックはティーカップの底に溜まった細かな茶葉まで飲み干した。苦みと渋みが押し寄せて、本来あった感情をいささかごまかしてくれるような気がする。
「ねぇ、エリック」
「何ですか」
「ワタシたち、幸せになれると思う?」
――たった今、ごまかしたばかりだというのに。
エリックは、試すように妖しげな笑みを浮かべるジュリの口を、思い切りふさいでやろうかと思ってしまう。これでも軍人で、パイロットが本職とはいえ、それなりに訓練を受けている。腕っぷしには多少の自信だってある。
彼女を組み伏せることは、朝飯前だ。だが――
「……幸せにしますよ、絶対に」
エリックはそれだけを言って、ジュリの視線を切ると、軍人らしくキビキビとした動作で立ち上がり、部屋の扉を開けた。
「だから、その日まで、ジュリさんは生きてください」
守るとは言えないけれど、共に戦うことなら出来るだろうから。
ジュリはフッと気の抜けたような笑みを一つ漏らしてから、ゆったりと立ち上がる。
「死なせない、とは言わないのね?」
「それを言わせてくれれば、どれほど良いでしょうね」
皮肉めいたエリックの頬に一つ軽いキスを落とせば、エリックは目を伏せた。
「三日後の夜、ブッシュで会いましょう」
耳元でささやかれた逢瀬の約束。
エリックが顔を上げると、そこにはもうすでにジュリではなく別の人の背中があって、エリックは小さくため息をついた。




