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万年筆と宝石  作者: 安井優
五つ目の扉 ブッシュ
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5-8 取引

 コツン、と静かな書庫にヒール特有の音が響く。カツカツと近づいてくるその足音に、男たちが振り返った。

「なっ!?」


 声を上げた瞬間に、二人の男は息を飲む。

「騒げば殺す」

 のど元に突き付けられていたナイフが、鋭利に輝いていた。


 女性にしては低い声と、喪服にも見える黒いスーツ。切りそろえられた濃紺の髪。何よりその髪の隙間から男たちをにらみつける、冷酷なブルーのジュエルアイ。

 ――魔女。

 まさか、本当に呪いにかけられることになるとは。


 一体、いつから?

 男の(ひたい)を、嫌な汗が伝う。隣にいる同僚は、すでに恐怖と混乱からくる震えを抑えることが出来ておらず、今にも卒倒してしまいそうだ。


 それも無理はない。

 魔女という、呪われた種族を見ただけでも気分が悪いというのに……その魔女に、こうしてナイフを突きつけられ、一歩でも動けば命はないと脅されているのだから。


「そのファイルをこちらに寄こせ」

 シエテは、男の両腕に抱え込まれた重そうなファイルを見ることもなく淡々と告げる。

「なっ……」

 男の顔はますます蒼白になっていく。


 命と、書類と。どちらを選択すべきか、考えずとも簡単な話だ。

 だが、この書類を渡せば……それも魔女に奪われたともなれば、司法裁判官の男たちは二人とも解雇とされることは間違いない。

 何より、自らが魔女裁判にかけられる危険だってある。


 そうなれば、結局今死ぬか、後々死ぬかの二択であることに違いはない。

 どうせ死ぬのなら、司法裁判官の名誉にかけて――少しでも抵抗し、この書類を守り抜いて死ぬべきではないか。


 隣に視線をやれば、同僚はすでに立っているだけでも精一杯のようである。いくら魔女相手とはいえ、情けない。

(こいつだけでも、見逃してもらえるだろうか……)

 男は隣を見つめ、そうか、と妙案を思いつく。


(自らの命を引き換えにしても、こいつさえ逃げることが出来れば、こちらのものだ。他の者たちを呼べば、この魔女をとらえることだってできる)

 男は意を決して、目の前の魔女――シエテに声をかける。出来るだけ、よわよわしいふりをして。


「な、なぁ……」

「なんだ」

 シエテが男を一瞥すると、男はチラリと隣の同僚へ視線をやった。


「見ての通り、こいつは腰抜けだ。彼だけでも、逃がしてやってくれないか。ファイルと交換だ。良い取引だろう? 俺はどうなってもいいからさ」

 男の言葉は半分本当で、半分は嘘。だが、それを悟られてはいけない、と視線を落とす。


「ファイルを寄こせ」

 シエテは、取り合うつもりはない、と一歩男に詰め寄った。

 ナイフのヒヤリとした感触が首に伝い、男は「ひ」と思わず声を漏らす。


 シエテとて、初めから男たちの命を殺すつもりなどない。ファイルさえ渡してもらえれば、なんの問題もないのだ。

 むしろ、男たちを殺して、魔女の悪評が事実のものとなってしまえば、元も子もない。衝動的にナイフを突きつけてしまったことも、後悔しているくらいなのに。


 シエテは、隣の男からナイフを下げる。もはや、失神寸前だった男は、力なく床へ座り込んだ。

「お前たちの命に、興味などない」

 シエテは一本のナイフを腰へ戻して、目の前の男が握りしめるファイルに空いた手をかける。


 男は、座り込んでしまった同僚に、内心で舌打ちを一つ。この様子では、まともに逃げることすら難しそうだ。もう少し取り乱してくれさえすれば、「逃げろ」と彼を蹴り飛ばしてでも、この場から遠ざけることは出来るのに。


 しばらく同僚が落ち着くまで、時間を稼ぐ必要がある。もう少しすれば、また別の司法裁判官たちが書庫へやってくるかもしれない。

 男は作戦を切り替え、再びシエテへと視線を向けた。幸いにも、この魔女には話し合いの余地がある、と。


「どうして、そんなにこのファイルにこだわる」

 男が発した言葉は、シエテの表情を少しだけ(ゆが)めた。シエテとしても、不本意だった。魔女裁判を暇つぶしだというこの男の言葉にカッとなって飛び出してしまって、このありさまなのだ。

「こだわっているわけではない」


 グローリア号沈没事故の資料は、他にも山のようにある。このファイルでなくても良かったのだ。

 なんなら、もっと別の、大した事件ものっていないような資料だってよかった。

 シエテ自身が欲を出してしまっただけで。


「つまり、最初から俺たちが目的だったわけか?」

「それも違う」

 シエテは、ナイフを突きつけられているくせによくしゃべる男だ、と半ば感心にも近い気持ちを覚える。


 放心している男にも気を配りつつ、シエテは目の前の男を見据える。司法裁判官らしい、女でも組み伏せられそうな体つき。頭がよく回るのだろう。もしくは、今のように、口か。

 銃やナイフも持ち合わせてはなさそうだ。特段、戦い慣れているわけでもなさそうである。


 ならば、この男の目的は。

「時間稼ぎならやめておけ」

「っ!」

 図星か、とシエテはため息をつき、いよいよファイルを持つ手に力を込める。


 シエテが小さく呪文を唱えると、男は再び小さな悲鳴を上げた。

 まばたきのわずかな瞬間に、目の前にいた女性も、自らの手の中にあったはずのファイルもない。


「何が……」

 起こったんだろうか、と理解する前に、男は自らの体から力が抜けていくのを感じる。隣にいる男と同様、床に尻をつけると、次の瞬間、書庫の扉が開いた。


「そこで何をしている?」

 その声に、司法裁判官二人の顔からサッと血の気が引いていく。先ほど魔女に突き付けられたナイフよりも鋭利な視線が突き刺さり、無意識のうちに息を止めてしまうほどだ。

「さ、裁判長……」


 黒縁のメガネの奥に、深い闇がのぞく。

「何をしている、と聞いている」

 地を這うような低い声が、書庫の床を伝って、全身に空気の震えを感じ取らせるよう。ナイフを突きつけられてもしゃべり続けた男でさえ、声が出ない。


「緊張で声も出ないか? 感心だな」

 上質な白のコートが、一歩、二歩と足を進めるたびに優雅に舞う。コートにつけられた輝かしい栄冠の数々もまた、わずかな金属音と共に揺れた。

「資料一つを取ってくるのに、一体どれほどの時間をかけるつもりだ? 感心のあまり、こちらも声が出なくなってしまいそうだ」


 クツクツと皮肉めいた笑みが、男たちの早まった鼓動と共鳴する。

「じ、実は!」

「バカ! お前……!」

 隣で奇声にも似た声を上げた同僚を遮る前に、パァン! と鋭い発砲音が響く。


 男と、男のちょうど間――

 わずか数ミリ先で上がる煙は、先ほどの魔女から向けられたものよりも明確に殺意をはらんでいる。


「言い訳か?」

「も、申し訳ありません」

 慌てて頭を下げるも、遅く、ピタリと止められた革靴のつま先が視界に入る。同時に、男の髪の毛がグイと引かれた。


 男の前に、瞳が迫る。コーヒーのような、底の見えない暗い色。

「肝心の資料が見当たらないようだが」


 いよいよ、男の呼吸もままならなくなる。ハァ、ハァ、と浅い呼吸を繰り返すのが関の山で、声など出そうものならまたたく間に撃ち抜かれてしまうだろう。

「まさか、ない、とは言わないだろうな」

 ニッと怪しげに上がった口角。それが意味するところとは……。


 男は、どこで間違えたのだろうか、と今までの人生を振り返る。

 先ほどの魔女に、さっさとファイルを渡しておけば、もっと違う道があったのだろうか。あのブルーの瞳が、今はよほど美しいと思えるなんて。


 バカな同僚を助けたことも、間違いだったかもしれない。

「魔女が」

 隣でうめくように同僚がそう言った時、男の頭には、そんな考えすらよぎる。


 直後、再びの発砲音がブッシュに響く。


 司法裁判官二人が最後に聞いたのは、

「久しぶりに、キツネ狩りが楽しめそうじゃないか」

 愉悦(ゆえつ)に浸る裁判長の笑い声だった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 63/63 ・キャー、シエテさーん。お見事です [気になる点] んでヤロー! まさかの銃撃。めっちゃ楽しそうにしやがって [一言] やばいですねこれ。荒れますよ
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