4-15 だから私は夢を見る
アリーから作戦を聞いた夜、ぼんやりと礼拝堂でステンドグラスを見つめていたメイのもとに、ふわりとラベンダーの香りが漂う。
メイが顔を上げれば、シエテがティーカップをメイの前に並べた。
まるでなんでもないという風に、シエテは自らのティーカップを置いて、メイの前へ腰かける。
「ありがとう」
「別に」
ロンドの冬は冷える。魔女協会は大聖堂の地下にある分、冷たい風が入り込んでくることはほとんどないが、それでも決してあたたかくはない。
どうせなら、暖炉のある談話室にでも行けばいいのに、とシエテはメイを見やるが、それを口に出すことはしなかった。
礼拝堂は、魔女にとっては落ち着く場所の一つだ。
机やいすが並べられていて、食堂か、ともすれば皆が集まって話をする場所になっていることは確かだが、祈りの場としての機能が損なわれているわけではない。
世界を作ったとされる、はじまりの魔女。
そんな彼女が描かれているステンドグラスは、魔女を導いてくれるようにも、魔女を守ってくれるようにも見える。
だからこそ、魔女たちはこの場所を好み――考え事をする時には、大抵ここへ足を運んでしまうのだ。
もちろん、ジュリという例外もいるものの。
「シエテも、てっきり反対するんだと思ったわ」
シエテはその視線を彼女に向けることもなく、ティーカップに注がれたハーブティーを覗き込んだ。ほんのりと薄いピンクの湖面に、青い満月が浮かぶ。
「マークさんのお話は、素晴らしかったものね」
別に、そういうつもりではない。
シエテは、胸の奥に潜んだ鈍い痛みを誤魔化すように、ティーカップを口へと運ぶ。
ラベンダーの香りと、ほんの少しだけレモンの香り。メイが良くシエテのために入れてくれた紅茶を真似ただけだが、それがシエテの心を落ち着かせる。
一口飲み干して、シエテは苦々しく呟いた。
「なぜ」
「え?」
あまりにも小さな声で、聞こえなかったのだろう。メイは不思議そうにシエテへと視線を向ける。
「なぜ、メイは断らなかった」
今度ははっきりと、そう口にした。
――もう長くはないとわかっていながら、どうしてこれ以上魔法を使うのか。それも、自分のためではなく、他人のために。
シエテは、そんな思いを飲み込んで、代わりの言葉を探す。
「あれくらい、夢を見ずとも叶えられる」
出来る限り慎重に選んだつもりだったが、口にしてしまえば、やはり何か違うような気がする。シエテはますます顔をしかめた。
そんなことが言いたいわけではないのだ。
ただ、メイに、もうこれ以上夢を見るのは……魔法を使うのはやめてほしい、とそう言いたいだけ。
でも、何かがのど元につかえている。不快なほどに。
「……そんな寂しいことを言わないで」
メイは笑っているような、泣いているような、そんな顔でシエテを見つめた。
魔法を使うということがどういうことなのか、当然分かっている。そして、そのことが、こんなにもシエテを苦しめてしまうことも。
それでも、自分だけが安全な場所にいることを選べないのは、メイも、ユノと同じだ。
魔女と人が手を取り合って、生きていく世界を作りたい。そのためには、なんだってしたいと思っている。
そして何より、魔女を守るためになら、どんなことだってできる、とも。
命の灯が揺らぐ。それは言いようのない恐怖だ。だが、それ以上に怖いのは、自分が逃げたことで、誰かが死んでしまうことだろう。
夢を見れば――魔法を使って、未来を知ることが出来れば、いくつも救える命がある。
トーマスのように。
「だが……」
「大丈夫よ。そんなにすぐの話じゃないもの」
メイはあえて明るく声を発して、笑って見せた。が、それがシエテの癪に障ったのか、シエテは鋭い視線をメイに向けた。
「未来は変わる。それは――メイが一番よく知っているはずだ」
低く、冷たい声が、礼拝堂を支配している冬の空気に混ざり合う。
ほんの一瞬ぶつかった視線。そこに、青白い炎を見るのは何度目だろうか。
メイは切りそろえられたシエテの濃紺の髪を見つめ、その奥に隠れてしまった彼女の表情を想像して微笑んだ。
「そうね、未来は簡単に変えられる。だから私は夢を見るの」
「それが……自分の未来を変えることになっても、か」
「自分の未来なんて、分からない方がいいもの」
自分が死んでしまった後の未来を見ることは出来ない。
あえて、一日でも長く生きていたい理由をあげるとするならば、それだけだ。
マークとユノが作り上げた本が、イングレスの国民に受け入れられ、魔女裁判が撤回される日が来るかどうか――
それを知ることが出来ないのは、メイにとっても残念でならない。
だが、だからこそ、今出来ることを精一杯にやろうと思えるのだろう。結末が分からないからこそ、未来に夢を見ることが出来る。
「ねぇ、シエテ。等価交換をしない?」
「いやだ」
「どうして。まだ何も言ってないのに」
「支払える対価なんてない」
メイは、メガネのフチをそっと押し上げて、ねぇ、ともう一度シエテを呼んだ。
「どうしても、約束してほしいの。シエテのことが、一番心配だから」
「こちら側に得がない」
「それじゃ、シエテの望むことを言ってちょうだい」
シエテはティーカップを持ち上げると、中に残っていた紅茶を一気に飲み干した。空になったカップがテーブルの上でカツン、と軽い音を立てる。
「死ぬな」
ようやくまっすぐにメイをとらえたシエテの瞳は、全てを吸い込んでしまいそうなほどの深さでそこにある。
その瞳が輝くことは、この先何度あるのだろう。
「それは無理ね。誰だって、いつかは死んでしまうもの」
メイが優しく諭しても、シエテは目を離さない。いつもなら、決まりが悪くなるとすぐに視線を逸らすのに。
「それでも、死なないでほしい」
シエテは、きゅっと口を引き結ぶ。気丈な彼女は、泣きそうな顔をしながらも、譲るつもりはないようだった。
「まるで、子供のころに戻ったみたい」
「……子供のままでよかったのに」
シエテの方へと身を乗り出して、メイは彼女をそっと抱き寄せた。
はじまりの魔女なら、時間を巻き戻すことも出来たのだろうか――
メイの胸元で、嗚咽をかみ殺すような声。手に伝わるのは、シエテの体の震え。
「意地悪なことを言ってしまったわ。ごめんなさい」
メイがそっとシエテの髪を梳くと、シエテはぎゅっとメイの服を掴んだ。洋服のしわが、痛々しく胸を締め付ける。
「……等価交換じゃなくいい。メイの願いなら、なんだって聞いてやる」
だから、死ぬな。
シエテの声は、ほとんどかすれていたが、静かな礼拝堂にはよく響いた。
「ありがとう」
「別に……」
「私がいなくなっても、無茶はしないでね。最近、ずいぶんと無理をしているみたいだから」
メイがそうお願いをすれば、シエテは「うるさい」と小さく答えた。
「トーマスをよろしくね」
「それは無理だ」
「あら、どうして。さっきはなんだって、と言ったじゃない」
「できない」
「みんなを、よろしくね。人とも、仲良くしてちょうだい」
「……メイが、すればいい」
「私がいなくなっても、泣かないで。あなたの笑った顔が好きよ」
メイはシエテを抱きしめていた手を優しくほどいて、それから美しく微笑んだ。
まばゆいエメラルドグリーンは、ほのかにハーブの香りをはらんできらめいた。
「夢を見るのは一度だ」
シエテが目元をぬぐって、小さく呟く。
「ジュリとディーチェが、ブッシュへ潜入する日だけなら、許してやる」
それじゃぁ、シエテが危険だ、とはメイも言えなかった。たくさんのわがままを、たった一つのお願いで手を打ってくれたシエテの言葉を、聞いてやれないわけがない。
シエテは、ゆっくりと息を吸って、吐いて、その瞳を礼拝堂のステンドグラスへと向けた。
それから、メイへと視線を戻して口角を上げる。
「一日でも長く生きて……魔女と人が手を取り合う世界を、一緒に見よう」
まるで、花が開く瞬間のように、シエテは美しく笑った。