1-5 秘密の楽園
窓から差し込む光に、マークは寝返りをうつ。
「んぅ……」
カーキ色の柔らかなくせ毛は、湿り気を帯びた温かな潮風に揺れる。
外から入り込むのは、光と風だけではない。波の音や、聞いたこともないような鳥の鳴き声。潮の香り。
マークはもう一度寝返りをうち、まぶしい太陽の光に観念したとでも言うように、ゆっくりとその目を開いた。
真っ白な漆喰の天井。そこに取り付けられたまあるい月のようなランプ。マークの住んでいるアパートの、配管がむき出しになった殺風景な天井とは大違いだ。
(そういえば、アパートの電球が切れかかっていたような)
マークは不意にそんなことを思い出す。
過去を思い出せば、今に目を向けてしまうのは必然のこと。
「あれから、何日経ったんだろう」
固まった体をうんと伸ばしてカレンダーを探すも、ユノの寝室にそれは見つからない。
ロンドを出航した時は、まぎれもなく冬だった。
しかし、この島の季節は夏。こうも季節が違うと、体の感覚などあてになるはずもない。
まさか、半年近く眠っていたわけではないだろう。
マークはベッドから出て、青い窓枠に手をかけた。
眼下に広がる真っ白な砂浜も、しぶきを立てる渚も、その奥に永遠と横たわる海も。目に見える全てがまぶしく輝いている。
ロンドの街にいた時は、こんな光景を朝から見られる日が来るなんて思いもしなかった。
マークは、そこから見える風景を目に焼き付ける。
空を渡るカラフルな小鳥の群れの色を忘れないように。空に近づくにつれてエメラルドグリーンからコバルトブルーへと色を変える海の動きを一瞬でも見逃さないように。
すべて、全て物語の中に、文字として書き留められるように。
もしも、マークが夢を見ていたのではないとすれば、ユノは言ったはずだ。
――今までに読んだ、どんな物語よりも素敵。
その言葉に嘘偽りがないとすれば……あるいは、自分の書いた物語が命の恩人ともいえる彼女を喜ばせるに足るものなのであれば。
作家なら誰しも、物語を書くだろう。それ以外の選択肢など、存在するはずがない。
マークは一人決意する。
(もう一度……物語を書こう)
誰かを――目の前の少女を、笑顔に出来る物語を。
トントン、と扉がノックされ、マークは現実に引き戻された。
「おはようございます、マークさん」
マークが返事をすれば、遠慮がちに扉が開かれる。
彼女の瞳は、やはり宝石のようである。影になるとほの暗く、光が当たると淡く。青紫は、赤やピンクや、ターコイズに変化してきらめく。
「ご飯は食べられそうですか?」
扉の向こうから漂う香りに、マークの腹が音を立てる。マークは恥ずかしさで顔をしかめ、それとは対照的に、ユノの表情はほころんだ。
寝室を出た先はリビングになっていた。
白とミントグリーンで統一されたキッチンは整理整頓が行き届いており、可愛らしい黄緑色の冷蔵庫もまるで新品のように見える。主の使い方が良いらしい。
木製のテーブルには作ったばかりと思われる料理が並べられている。
トーストに、オニオンスープ。メインプレートの上には、目玉焼きが二つにベーコン、ソーセージ、焼いたトマトとアスパラガス、アボカドとチーズ。
ユノは、マークを手前の席へ案内し、自らはコンロにかけていたポットの火を止めた。
ティーカップに沸かしたお湯を注ぐ姿も様になっている。まだそんな年ではないだろうに、彼女の育ってきた環境が、彼女を年齢以上に大人びて見せた。
「お口に合うかどうか……」
ユノはマークの前にティーカップを置き、不安げな表情で彼を見つめる。見た目にはとても良くできた朝ごはんだ。
「こんなにおいしそうなのに」
「ずっと一人だったので、自分の好きな味付けしか知らないんです」
謙遜かと思ったが、理由を聞けば、なぜ彼女が不安げなのかマークにも納得出来た。
ユノとマークはそれぞれフォークとナイフを両手に、思い思いの料理へと手を伸ばした。マークは目玉焼き、ユノはトマトを口に入れる。
口の中でじゅわりと広がるうま味は、二人の体の奥底にまで浸透していくようだ。
「「おいしい……」」
意図せずして重なった声に、二人は顔を見合わせた。
思えば、誰かとこうして食事をするのは久しぶりのこと。
孤島で一人暮らしのユノは言わずもがな。
マークも、孤児院を出てからは一人暮らしで、知り合いと呼べるのは同じ新聞社の人間程度である。そんな新聞社の知り合いも、常に原稿に追われているか、配達に出ていて時間が合わず、一緒にご飯、などとしゃれこむ余裕すらない。
一人ではない。
それだけで、こんなにも食事が美味しいと感じる。
ユノは、目の前で次から次へと皿の上にのった料理をたいらげていくマークの姿に、思わず手を止めた。
魔女と食事をしてくれる人が現れるなんて。
ユノの頬を伝う涙に気づいたマークも、ぎょっとして手を止めた。
「ど、どうしたんですか!?」
慌てふためく彼に、ユノはただ首を横に振る。必死に手で涙を拭って、笑みを浮かべる彼女の姿は、年相応の少女の姿だった。
「いえ、その……ずっと、寂しかったのかもしれません。なんだか、嬉しくて」
ストン、とマークの胸の中に何かが落ちたような感覚だった。うまく言葉には表せないが、ユノが背負ってきた孤独感に触れ、マーク自身の心に巣食っていた死への情景がその孤独感によく似ていることに気づく。
ユノは再び、フォークとナイフを握りなおした。
「いつか、当たり前になる日が来るんですかね」
マークがうなずくと、ユノは嬉しそうにはにかんだ。
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食後の紅茶を注いでもらい、マークは椅子に座ったまま、シンクで食器を丁寧に洗うユノの後ろ姿を見つめた。
「さすがに食器くらいは洗います」
そう申し出たが、まだ本調子じゃないでしょうから、とやんわり断られてしまった。
キッチンにも採光のためか、窓が取り付けられていた。
そこには青い海ではなく、緑豊かな森が広がっている。ロンドではまず見られない緑の量。それだけでも素晴らしいのに、生えているのは南国の植物。マークが図鑑でしか見たことのないような珍しいものばかり。
ユノの夜空色の髪が、森から吹き抜ける風に揺れる。時折、その夜空色に夕焼け色が混じって、緑に目を奪われていたマークの目を惹きつける。髪の外側は濃紺に、内側は朱に分かれているらしかった。
瞳と同じ、不思議な色合い。
彼女の名前と同じ、夕暮れの輝き。
こんなにも美しい魔女を、どうして人は受け入れることが出来ないのだろうか。
「あの」
ぼんやりと彼女を眺めていたマークに声がかかる。
「あまり見られると……恥ずかしい、です」
食器を洗い終えたのだろう。ユノはすっかりマークの方を向いていて、愛想笑いを一つ浮かべた。
ユノは濡れた手をハンカチで拭き、マークの前に腰かけた。ティーカップを手にすることはなく、彼女はマークを見据える。
「ふふ、一人じゃないってこんな気持ちなんですね」
照れ隠しに冗談めかして笑う姿は、大層愛らしかった。
「私もっと、マークさんのことが知りたいです」
「僕、もっとユノさんのことを知りたいです」
キッチンから風が吹き込むと同時、二人の声が自然と重なった。
お互いに知らないことが多すぎる。
マークは、魔女のことを。この島のことを。そして、ユノのことはもちろん、何も。
ユノは、人間のことを。ロンドの街を。そして、マークのことを知らなかった。
話さなければならないことはたくさんあって、話題はそれ以上にたくさんあった。
幸いなことに、この限られた空間の中で、二人に与えられたものがある。
一つは、お互いに歩み寄るために開けられたまっさらな距離。
そしてもう一つは、空白を埋めるための膨大な時間。
現実から切り離された秘密の楽園。
孤島の魔女と、孤独な作家。
様々なものを失ってきた二人は今、ようやくそれに値するだけの大切なものを手に入れたのだった。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!
次回からいよいよ本格的にお話が動き始めます。よろしければぜひぜひ、続きもお手にとっていただけますと幸いです。
本当にほんとうに、いつもありがとうございます。