4-13 物語はいつも
「というわけで、ワタシも決心を固めないと、と思ってね」
新聞社にユノと訪れたジュリは、ティーカップをそっと脇へよける。いつもの華やかさを携えつつも、つつましやかでしっとりとした笑みは、少しの緊張をはらんでいた。
マークは、ジュリから返された原稿用紙を受け取って、物語の続きに思いを巡らせた。
もしもジュリが許してくれるのなら、ハッピーエンドにしたい。
この物語は元々、エリックから頼まれたものであったし――彼は、ジュリとの恋物語を楽しみにしているのだから。
それに、イングレスの国のことを思えばこそ、マークはこれを幸せな物語にしたかった。嘘でも、偽りでも、なんだっていい。ただ、現状の苦しさから逃げることは決して悪いことではない、と多くの人に伝えたい。
それが出来ることが、物語の良さだ。
司法裁判官の話を聞いても、マークの気持ちは変わらなかった。
もちろん焦りはある。だが、今まで互いに手を取り合ってこなかったという軍と大聖堂が、ここにきて手を取った。そんな嬉しい出来事が現実でも起こっていると聞けば、物語も負けてはいられないとすら思う。
マークがジュリの深紅の瞳を見つめ返すと、彼女は柔らかに目を細めた。
「決めたわ。彼女を、幸せにしてちょうだい」
まるでそれは、プロポーズのような。
ジュリの隣で固唾を飲んでいたユノも、この言葉には目を見開いて……数瞬の後、その顔をほころばせた。
マークと同じくらいに頬を紅潮させ、横からジュリの体に抱き着くほどに。
ジュリもどこか晴れやかな表情で、ユノの柔らかに透き通った夜空色の髪を撫でる。
「たくさん迷惑をかけちゃったわね、ごめんなさい」
でも、もう大丈夫よ。続いた言葉に、ユノとマークの胸はキュ、と波打った。
「エリックに頼まれたんでしょう」
マークがピクリと反応すれば、ジュリはからりと笑う。その笑い方は、いつもの、ジュリらしいものだった。
「さすがに分かるわよ。ワタシをなんだと思ってるのかしら」
ジュリは子供のように口をとがらせて、ティーカップをひょいと持ち上げる。手でもてあそぶようにして、空になったティーカップを揺らす素振りが、愛らしさを秘めていた。
「エリックは、彼の後輩でね。とりわけ彼になついてたから、昔からよく知ってたのよ」
まさか、あんなに彼に似るとは思わなかった。
決して血縁ではないのに、軍で長らく一緒に過ごしていたからなのか、それともエリックが彼を尊敬していたからなのか、今ではまるで兄弟のようだ。
――彼に聞かせたら、どんな顔をするだろう。
そんなエリックが寄せてくれている好意に、まさか気づかないほど鈍感ではない。
ジュリは、恋多き魔女。いや、正確には、一夜限りの恋愛にも似た感情で寂しさを紛らわせていただけに過ぎないが。
ただ、他人よりも彼に似たエリックの気持ちにだけは、あえて無視をし続けた。
ジュリはティーカップのフチに指を滑らせる。指が陶器を撫でる音は、胸が締め付けられる音のよう。
「愛する人を失うのは怖いわ」
だから、エリックの愛に答えることが出来ない、とジュリは自らの弱さを痛感する。
恋を知らないユノでさえ、ジュリの言っていることが他人事のようには思えなかった。
魔女のみんなや、マークが、もしも司法裁判官に連れ去られてしまったら――
考えただけでも背筋に寒気が走る。
マークもまた、失った家族や妹のことを思い出してうなずいた。もちろん、孤児院の院長や、新聞社の社長に同僚、魔女や、エリック、トーマスのこと。出会った人々のことを思えばこそ、ジュリの気持ちは痛いほど分かる。
みんな同じ気持ちなのだ。思う人は違えど。
だが、いつかはその感情に決別をして、踏み出さなければならないことも、皆わかっていた。
「でも、怖がっていても変わらない。物語はいつも、勇気を出したところから始まるものね」
なんて素敵な言葉だろうか、とマークは思わず万年筆を探す。机の上に転がったままのそれに手を伸ばしかけ――
「すみません、つい」
反射的な行動に理性でなんとかブレーキをかけた。
ジュリとユノは顔を見合わせ、それからふっと息を吐いて笑う。
「やだ! マークくんってば、本当にユノの言う通り」
「へ!?」
「マークさんは万年筆を探す癖があるんです、なんて。どういうことかと思ったら」
いつの間にそんなやり取りをしていたのだろう。
マークが顔を赤く染めれば、今度はユノが「ごめんなさい」と怒るに怒れない愛らしさで謝罪した。
「ワタシをモデルにしたんだから、必ず完成させてちょうだいね」
ジュリはパチン、とウィンクを一つ投げかけて、それからすいと体をマークの方へと近づけた。
あまりにも自然な動作に、マークは反応できなかった。
頬に触れた柔らかな感触。
チュ、と軽い音を立てて離れていった温度と、花のような甘い香りが、赤に紛れて心地よかった。
「ありがとう、マークくん」
ジュリは華やかな笑みと「応援してるわね」の一言を残して、そのまま軽やかに新聞社を後にした。
真っ赤な髪がゆれるその後ろ姿を、ただ呆然とマークは見送る。
ジュリのストレートな愛情表現をよく知るユノは、真っ赤な顔のまま固まったマークを見て、ほほえましい、と目元を柔らかに細めた。
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おかえりなさい、とジュリを出迎えたのはアリーで、ジュリはいつもより少しだけ早足で、そして力を込めて彼女を抱きしめた。
絹糸のように滑らかなプラチナブロンドの髪が、ジュリの手をくすぐる。
アリーはただ何も言わず、ジュリの背中を優しくなでた。
「これで少しは、アリーに近づけたかしら」
ジュリの甘えたような声に、アリーは苦笑する。
「追い越されてしまったかもしれないわ」
ジュリは、もう一度だけきつくアリーを抱きしめた。
ジュリがゆっくりと手をほどくと、アリーの瞳にはジュリの深紅が映り込んだ。エントランスホールの白に囲まれて、ほのかに灯る赤やピンクの輝きが冬の終わりを告げている。
アリーのプラチナブロンドの髪にも、同じようにジュリの赤毛が反射した。
「夜明けが近いみたい」
アリーの言葉に、今は昼前よ、なんて野暮なことは言わない。
彼女の「夜明け」が何をさすのか、作家でなくても分かる。
「ワタシにとっては、二度目の夜明けよ」
ジュリの言葉に、アリーは不思議そうに首をかしげた。そんなありふれた動作でさえ、彼女の美しさを際立てる。
――そう、二度目だ。
初めての夜明けは、目の前にいるこの美しい魔女が、魔女のために魔女協会を設立したあの日だった。
彼と出会った日も、夜明けに近いけれど……明けきる前に沈んでしまった。
ジュリは、今度こそいつまでも照らし続ける光を見せてちょうだい、とマークに祈りを込める。
夜空を閉じ込めたような魔女が連れてきた青年。
彼がこの国に夜明けを告げる日が待ち遠しい。
「本当に待ち遠しいわね」
テレパシーで心を読んだのか、それとも、アリーも同じことを考えていたのか。
ジュリに微笑みかけるアリーは、ゆっくりと白銀のドレスをひるがえして歩き出す。
「やるべきことはまだまだあるわ。夜明けを見るために、私たちも出来ることをしなければ」
「そのためにもまずは、司法裁判官ね」
「えぇ……。あなたには、また苦労をかけるけれど」
ジュリは「苦労なんかじゃないわ」とアリーから向けられた心労を否定した。
魔女のためになることならば……愛した彼と、そしてこれから愛するかもしれない人と、何より愛するロンドの街で、胸を張って生きていくためには、どんなことだって苦労ではない。
「こんなにドキドキするのは久しぶりよ」
「魔女らしくいきましょう」
アリーの瞳には、光にあふれた未来が見えた。