3-14 不安と恐怖、そのたった二つ
執筆を終えたら、一度原稿を見てほしい。
マークの頼みに、トーマスは二つ返事で了承をくれた。
「マークさんのお話を、みんな楽しみにしているんですよ。魔女はもちろん、私たちも」
言論統制がしかれたイングレスでは、過去に出されていた多くの本が絶版となり、手に取ることすらできなくなった。
シネマも当然、規制の対象でほとんどが上映を取りやめているし、ちらほらと普及し始めたテレビも同じ。
外を出歩けない魔女の娯楽が減ってしまったことはもちろんだが、人々でさえ、外に出ることで、なんとかその退屈を紛らわせているだけだ。
「もしよければ、たまには息抜きに大聖堂へ遊びに来てください」
トーマスは、長居してしまったと椅子から立ち上がり、最後にもう一度頭を下げた。こういう念押しの礼儀正しさが、彼を優れた聖職者たらしめている。
「それではまた」
爽やかな笑みを残してトーマスが部屋を出ていくと、途端、重圧がマークにのしかかる。
「絶対、完成させなくちゃ」
ユノのために、と書き始めた物語が、魔女のためになり、いつしかイングレスの人々をも巻き込んで――この国を変えるものになってしまったような気がして、マークの体に、どっとプレッシャーが押し寄せる。
緊張からか、万年筆を持つ手にはじとりとした嫌な汗がにじんだ。
まだ書き上げなければならない物語も山のようにあり、執筆の終わりすら見えない。出版社も社長に任せきりで目途は立っておらず、その後のプランはもはや白紙だ。
真っ白な原稿用紙なら何枚でも埋め尽くすことが出来る気がするのに、白紙の未来には不安と恐怖のたった二つでしか埋められない。
司法裁判官に見つかってしまったらすべてが水の泡になってしまう、ということも、マークには気がかりだった。
司法裁判官は、音もなく忍び寄る。気づいたときには絞首台行きの片道切符を握らされている。
(自分だけならともかく、このままだと全滅もあり得る……よな)
そんな最悪の事態を想定し、マークの背中に悪寒が走る。軍が後ろに控えているとはいえ、司法裁判官だけが相手ではないのだ。
本当の敵は一国の王。そして、王が作った法律そのものなのだから。
「や、やめよう! こんなことを考えるのは! 今は、書くことに集中しないと」
マークはブンブンと頭を振って、余計な思考を追い払う。
「……ユノさんと、約束したんだから」
マークの物語を面白いと言ってくれたユノの無邪気な笑顔を思い出して、マークは万年筆を握りなおした。
ユノの島は気楽で良かった。書きたいものを、好きな時に好きなだけ書けた。気分転換に、と外へ出れば美しい景色が広がっていて、世界はこんなにも広いのか、と感じることが出来た。
(ユノさんに、会いたいな)
無意識のうちに、マークの欲望は物語の一部となっていたらしい。
原稿用紙に自らの万年筆が書き出した文字の羅列にハッとする。
「何を書いてるんだ、僕は」
マークは慌ててその原稿用紙を丸め、ゴミ箱へと放り込んだ。
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一週間が過ぎ、いまだ終わらぬ原稿と格闘しているマークのもとへやってきた彼女の姿に、マークは目を見開いた。
「……ユノ、さん?」
ジュリの魔法だろうか。姿はずいぶんと変わっているが、その顔の作りには見覚えがある。愛らしさと美しさが同居したような、それでいて懐かしい彼女の姿を、見間違えるはずがなかった。
ミディアムボブの、夕焼けとも夜空ともつかぬ髪色は、落ち着いたダークブラウンに。海とも空ともつかぬ瞳は、明るいアーモンドカラーに。
だが、それ以外のすべては、マークの知るユノそのものだ。トレードマークだったバイオレットのローブが、ロンドの街でよく見かけるような冬用のコートだったとしても。
ユノの隣にいるやや赤い短髪の男性は、おそらく……。
「ジュリさん、ですか?」
「大正解! 今度は完璧ね、マークくん」
パチン、とウィンクをした彼――もとい、ジュリの長い赤みがかったまつげが揺れた。
二人をソファへと案内し、マークは床に散らばった原稿用紙をかき集める。
(お茶を用意するどころか、片づけからだなんて)
「気にしなくていいわよ。お話を書いているところにお邪魔したのはワタシたちだもの」
ジュリは、マークの心を読んだみたいに笑った。
「元気にしているか、気になってきただけだから」
マークはジュリに座るよう促されて、ようやく二人の前へと腰かける。座る瞬間、ひじ掛けに置いた右手がインクで汚れていることに気づき、マークは慌てて左手を重ねた。
「あら! 隠さなくてもいいのにぃ。男の勲章じゃない」
「い、いえ。そういうわけには」
ジュリの物言いは、あまりにも女性的すぎる。今の姿とはちぐはぐで、マークとユノは落ち着かなかった。
「今日は、どうして」
「ユノちゃんがあんまりにも落ち着きがないから、心配で連れてきちゃった」
「ジュリさん!」
それは言わない約束です、とユノが抗議をした時には遅く。マークは「え」とその視線をユノへと向けた。
マークの視線に気づいたユノの頬がみるみるうちに赤く染まっていく。
ユノが、マークの本が無事に完成するか気が気でなかったのは、本当のことだ。それは別に何も恥ずかしいことではない。
ただその気持ちが、ファンだからか、友達だからか――それとも別の何かのせいなのか、それはユノにも分からなかった。
「そ、その! ご迷惑だって言うのは、わかってますし……魔女が外を出歩くのも、危険だって承知しているつもりで……」
ユノの言い訳はだんだんと小さなものになっていく。彼女の視線もそれにつられて下がっていった。
「……その、マークさんが、お元気かどうか……」
最後の言葉こそがユノの本音だということは、誰にだって明白だ。
ユノはしばらく自らの手を交差させたり、組みなおしたりしながら、まだもう一つ言いたいことがあるのだと体全体で訴えた。
なんと口にすべきか迷っているようだ。
ジュリはそれを決してせかしたりはしなかった。もちろん、マークも。
やがて、ユノはゆっくりと深呼吸をすると、意を決したように顔を上げる。
「何か、私に出来ることはありませんか」
きっぱりと言うユノの瞳は、ジュリの魔法によって、イングレスでも特段珍しくもないはずの瞳に変えられているが、マークの目にはいつもの――美しい、何色もの輝きを秘めたジュエルアイのように見えた。
「マークさんが危険だとわかっていながら……命を賭けて、私たちのためにお話を書いてくださっているんだって知っていて、自分が何もしないのはやっぱり落ち着かなくて」
「それで、危険を冒してまでロンドの街に?」
「大聖堂へはテレポートもありますし、ここへはジュリさんもついてきてくださいましたから」
こんなのは危険でもなんでもない、とユノは首を振る。
「私、いつも守られてばかりで……もう、そんなのは嫌なんです」
ユノは、秘密の楽園を――魔女の安寧の地を捨てる覚悟でここへやってきたのだ。
自らの心に鎮座する不安と恐怖、そのたった二つをマークに悟られぬよう、唇を強く噛みしめる。
ジュリは、そんな彼女の背中をそっと撫でた。
正直に言えば、ユノは今、この新聞社の事務所で座っていることすら怖くて仕方がない。
幼少期まで育ったイングレスの国も、初めて歩いたロンドの街も、あの楽園での生活が長いユノには、地獄のような場所と言ってもいい。人々とすれ違うたび視線が気になったし、踏みしめるアスファルトが音を立てるたびに体が震えた。
それでも、マークのことを思えば、本が完成するのを自分はただ安全なところで待っているだけ、なんてことは出来なかった。
「魔女と人が、手を取り合って生きていく世界を作りたいんです。マークさんと、手を取り合って」
だからのけ者になんてしないでください、とユノは緊張の混ざった顔でぎこちなく笑う。
マークはその手を取るべきではない、と分かっていた。
彼女を、危険な目には合わせたくなかった。
もう二度と、彼女とは会わず――死ぬときは一人で。そう決めていたのに。
だが、ユノはまるで魔法みたいに、そんなマークのためらいを消し去ってしまう。
マークのインクまみれの手を包んだ小さくて冷たい手は、まだ幼かったマークの親指をぎゅっと握った最愛の妹と同じ感触だった。