3-10 なけなしの勇気
どうしてここに、この車が。
そんなことは考えずともわかっていた。誰かが、マークを通報したのだ。いや、マークだけではないのかもしれない。社長や、新聞社の同僚だって、今頃身柄を拘束されているかもしれない。
マークの背中にツ、と冷たいものが流れる。
やがて、新聞社の周りに人が集まり始めると、マークはいよいよ過去のことを思い出し、顔から血の気が引いていくのを感じた。
膝は震え、呼吸が荒くなる。立っていることさえ難しい。
(僕のせいだ)
もしかしたら、魔女協会だって――ユノだって、無事ではないかもしれない。
マークは昨夜、社長にすべてを話してしまったのだ。物語を書いた原稿用紙だって、社長に手渡してしまった。
――今なら、まだ逃げられる。
幸いにもマークは自転車に乗っていて、ガソリン車ほどではないが、自分の足で走って逃げるよりは遠くまで行けるだろう。
車が入れないような細い路地に入ってしまえば、逃げ道はいくらでもあるような気がした。
(エリックさんに言って軍にかくまってもらおうか……いや、それともセントベリー大聖堂の方が……)
マークの頭にそんな考えがよぎり、マークは自らの頬をパン、とたたいた。
(ダメだ! ここで逃げちゃ!)
もう、自分はあの日の自分ではない。命惜しさに作家をやめたはずなのに、結局は死んでもいいとグローリア号から身を投げ出した、そんな自分ではないのだ。
彼は自分自身にそう言い聞かせて、まだ、何か出来ることはあるはずだ、と自転車を新聞社の前に止めた。
司法裁判官たちは人を殺さない。それは、彼らの仕事ではないからである。司法裁判官の仕事は、身柄を拘束して裁判所へと連行し、その罪を裁くこと。
ならば、まだ社長たちは無事なはずだ。自分がすべての罪を背負って、社長たちは解放してもらえばいい。
二度、三度と深呼吸し、「イングレスの伝統と歴史だ」と社長が言った左回りの時計を見つめた。
「よし」
マークは覚悟を決める。
扉に手をかけ――何も起きないとはわかってはいるものの、唱えずにはいられない。
「オープンセサミ」
マークにとっては、なけなしの勇気を振り絞る魔法の呪文だった。
マークはそうしてゆっくりと新聞社の扉を開け、不気味なほどに静まり返った新聞社の中へと足を踏み入れた。
やけに暗い社内。
すでに出勤していた数名の同僚が、拘束されて部屋の隅でうつむいているのが見えた。
「みなさん!」
「マーク!」
マークが彼らのそばへと駆け寄ると、全員が驚いたように目を見開いて、そんなマークに首を振る。
「お前だけでも逃げろ! お前のことはまだばれてない!」
「そんなこと出来ません! 僕のせいでみなさんが」
「いいから! 本を書くんだろう? 今ならまだ間に合う! 帰れ!!」
小声だが、はっきりとした口調でそう言われ、マークは口をつぐんだ。
だが、こんなところで引き返すわけにはいかない。
少なくとも、同僚たちの拘束をほどき、彼らだけでも逃がさなければ。
すべての責任は自分にあり、その罪は自分が背負うべきだ。
マークはあたりを見回す。幸いにも裁判官は事務所にはいない。逃がすなら今しかない。
マークは同僚たちをとらえている縄をほどこうと手をかける。彼らはその間も「何してる」「早く逃げろ」とマークをしきりに煽るが、マークはなりふり構わなかった。
「裁判官の方たちは?」
「今は、社長の部屋だ。社長が尋問にあってる」
一人は悔しそうに口を噛み、一人は悲し気にうつむいた。
「社長のところへ行ってきます」
マークが言えば、やめろ、と再び小さな声で叱咤される。
「皆さんは今のうちに逃げてください。空軍基地に、エリック・ブラウンさんという方がいます。そこまで行けば、必ず助けてもらえるはずです!」
縄をほどいたマークはそう言い残して社長室へと向かう。社長室へ近づけば、何やら声がしてマークは慌ててその扉を開けた。
ドアノブを回す瞬間に、魔法の呪文を唱えることは忘れずに。
- ・・・・ ・ - ・-・ ・・- - ・・・・
「社長!」
バン! と扉を勢いよく開けば、美しい深いブルーの瞳がマークを貫いた。濃紺の、バッサリと切りそろえられたショートヘアが揺れ、キッと吊り上がった眉がなお恨めしそうにマークへ向けられる。
「シエテ、さん……?」
マークがその名を呼べば、彼女はマークに明確な敵意を向ける。
彼女の前に座っていた社長はゆっくりとマークへ視線を移動させると、メガネの奥に潜むブルーの瞳をきゅっと細めてウィンクを一つ。
なかなかに茶目っ気のあるその仕草に、マークは困惑した。
シエテの隣に立っていた男二人がマークの方へゆっくりと振り返る。
一人は、中性的な麗しい男で、こちらも見覚えがあった。
「トーマスさん……」
もう一人は、真っ赤な髪がジュリを思い出させたが、マークの記憶にはない。男の瞳は明るいブラウンだし、ジュリの赤いルビーのような瞳とは違う。
だが――
「あらやだぁ! ワタシのことは分からないの?」
そう問われて、その声にマークはまばたきを繰り返した。聞き覚えのある女性の声。しゃべり方も、ジュリを思わせる。
しかし……マークの知っている限り、彼女は決して男ではなかったはず。
「それくらいにしたらどうです」
トーマスが困ったように眉を下げ、チラリと横目で赤髪の男を見やれば、男は笑った。
「ふふっ、ごめんなさい。あんまりにもマークくんが可愛らしいから」
彼がひらりと一周して見せた途端、マークは開いた口がふさがらない、と彼女を見つめた。
ボリュームのある真っ赤な長い髪がふわりと揺れ、直線的な男性の体は曲線を描く。
何より、明るかったブラウンの瞳は、美しい深紅のきらめきを灯している。
「ジュリ、さん」
「大正解! お見事よ、マークくん」
ジュリはパチンとウィンクをマークに飛ばす。
ジュリの姿の変化はもちろん、どうしてここに三人がいるのか、ということや、新聞社の入り口に止まっていたあのガソリン車は何なのかとか、聞きたいことが山ほどあった。
だが、山のようにありすぎて、マークはどれから口にすれば良いのか分からない。
処理しきれない情報と収集のつかない状況に、マークの頭はもはやパンク寸前であった。
「ほら、やはり困っているではありませんか」
咎めるようにジュリを見るトーマスを、ジュリは一瞥する。
「何よぅ。はじめたのはシエテでしょう? ワタシは付き添っただけ」
反省を見せないジュリの態度に、トーマスはさらに詰め寄った。
「変化までする必要はなかったのでは?」
「あら、その方がそれっぽいって社長さんが言うんだもの。それを言うなら、社長さんに言ってちょうだいな」
ねぇ、とジュリが視線を向けた先に、笑みをかみ殺す社長の姿。
マークはそこでようやく、どうやらこれには社長も一枚噛んでいるらしい、と気づく。
「いや、すまない。本当にすまなかった」
社長は自らの非を早々に認めて、両手を上げる。投降しよう、ということだろう。
「どういうことですか?」
全くわけの分からないマークが社長へようやく返事をすれば、社長の代わりにトーマスが口を開いた。
「すみません、マークさん」
大変ご迷惑を、というトーマスの顔には明らかな悲痛の色がにじんでいる。トーマスは、修道士という立場でありながら、このような事態に加担してしまったという罪の意識を誰よりも抱えていた。
「正直、謝って許されるようなことではないと自覚しております。人を信じよ、というはじまりの魔女の教えに背き、このようなことを」
「あら、トーマスが信じていないのは、マークくんじゃなくて、シエテの方でしょう?」
ジュリの言葉が核心をついたのか、トーマスはうぐ、と小さな声を漏らした。
当の本人であるシエテはツン、と顔を背けているばかりで一言も発しようとはしない。
「えっと……その、順を追って、説明してはいただけませんでしょうか」
マークが言えば、首を垂れるトーマスがゆっくりと顔を上げ
「実は……」
とことの顛末を丁寧に紐解いた。