1-3 孤島の魔女
少女は、立てたままの人差し指にふっと息を吹きかけた。まるで、ロウソクの火を消すかのように優しく。
――瞬間。
幻想的だった空間が溶けた。夢でも見ているのか、女性らしい部屋に様変わりしている。水面だった床は白の絨毯に。宙を漂う光は室内灯に。扉の輪郭が浮かんでいた部分は、本物の扉が取り付けられている。
驚きのあまり、マークはつばを飲み込んだ。
マークがゆっくりと視線を左に動かせば、大きめのクローゼットが一つ。その奥にはドレッサー、手前には小さいながら本棚が置かれている。
真後ろには、白い漆喰の壁に青枠の窓。淡いブルーのカーテンがそこから吹き込む風に揺れていた。
右を向けば、ベッドの脇に小さな袖机。その上には花を模したようなテーブルランプ。
「あんまり見られると、恥ずかしいのですが……」
少女は目を伏せる。彼女のほんのりと赤く染まった頬に、マークはようやく今自分がいる場所がどこであるかを理解した。
どうやらここは、彼女の寝室らしい。
マークは慌てて頭を下げる。
「す、すみません! あの! その! やましい気持ちでは!」
「突然こんなことが起きたら、普通の人は驚きますよね」
苦笑する少女に、マークはただ視線をさまよわせるばかり。
「これは、その……」
今まさに自らが体験した不可思議な現象に、マークは言葉をつまらせた。何というべきか……いや、正しくは、その言葉を口にして良いものか、とためらった。
――魔法。
イングレス本土では、このたった一言で命を落とす者もいる。
いくつもの言葉を口の中で転がして、けれどそれらの所在はなく。降参と言わんばかりに、目の前の少女へと視線を戻せば、彼女も困ったように眉を下げていた。
美しい海のような、空のような、深い青の瞳。
「ジュエル、アイ……」
マークがなんとか言葉を絞り出せば、少女は小さくうなずいた。
「私はユノ。ユノ・トワイライト。――魔女です」
マークが目を見開く。
対照的に少女は、その美しい瞳を伏せた。
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魔女――魔法の力を持つ女性。
イングレスでは、いつからか、そして、どういう訳か、魔法と呼ばれる不思議な力を持つ女性が、数万人に一人の割合で生まれる。
美しい宝石のような瞳『ジュエルアイ』を持ち、赤子のころから魔法を使い、その力を持つがゆえに短命。
それが魔女という生き物だ。
使える魔法は魔女によっても違うという。
魔法の理屈や、魔法とその女性にどんな関係があるのか、なぜ男性にはその力が現れないのか。そういったことは一切分かっていない。
「神からのギフトだ」という者もいれば、「悪魔からの呪いだ」という者もいた。
それでも、昔から人と魔女は共存し、イングレスという国を発展させてきた。
魔女の持つ魔法の力によって人々は救われてきたし、魔女の短命で数奇な人生を救おうと人間は科学を学び、努力した。
残念なことに、その関係は百年ほど前に崩壊してしまったが。
「魔女は見つけ次第、即時捕縛せよ!」
これは、先代の国王が放った一言である。
富、名声、権力……。それにとどまらずこの国の全てを欲した先代の国王は、魔法という予想の出来ない力を恐れた。
「魔法は、力を持たぬ我々人間を簡単に殺めてしまう」
証拠など必要ない。イングレスでは、国王の言うことが絶対なのだ。その言葉は人々の恐怖心をあおり、数年と経たないうちに魔女は疎まれるようになった。
やがて、魔女に救われたことも忘れた人間は、魔女を処刑するための法律を作った。
魔女裁判という名の『魔女狩り』が始まったのである。
当然、魔女に拒否権はなく、この裁判をもって死刑宣告を受ける。理由はなくとも。そんな横暴が正式に、公にまかり通ることとなった。
現国王に代替わりしても、この法律が撤廃されることはなかった。それどころか、現国王は先代よりもさらに厳しく取り締まった。
魔女を処罰するに飽き足らず、その家族をも厳罰の対象としたのだ。
これにはさすがの国民も黙ってはいなかった。世間からは多くの反発があったが、国王は、それすらも魔女の呪いだと騒ぎ立てた。
「人々は魔女に操られているのだ!」
思い通りにならないことが余程腹立たしかったのだろう。
腹いせだと言わんばかりに、国王は魔女や魔法という言葉を使った者まで刑に処するようになった。それらを想起させるようなもの全てをも、徹底的に排除した。
イングレスの国全土に言論統制がしかれ、ありとあらゆるものが消え去った。
そんな中でも小説家を目指していたのがマークだ。彼は物語を書いては出版社へと持ち込んだが、それらの小説はあっけなく燃やされた。
ただ物語がつまらなかったから、という理由だけではない。
物語は特に、言論統制の規制が厳しかった。
マークはあきらめなかったが、ついには
「お前を魔女裁判にかけてやろうか」
出版社の編集長からそんな言葉を浴びせられ、脅された。
マークは、引き下がるしかなかった。
マークの家族は――両親と、生まれたばかりの幼い妹は、魔女裁判で死刑になった。
残されたマークは、家族のためにも生きなければならない。だからこそ、自殺と魔女裁判の二つだけは避けなければ。家族に顔向けが出来ないのはもちろん、マーク自身も、その二つが死因では「死んでも死にきれない」と思っていた。
そうして、マークは出版社へ物語を持ち込むことをやめ、やがて、万年筆を折った。
彼は無力で、魔女裁判に……今の世の中に対抗する術をもたなかった。
そうこうしているうち、魔女は、イングレスの地から姿を消した。
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マークはユノと名乗った目の前の少女……魔女という存在がにわかに信じられなかった。
「魔女って……」
「今はもう存在しない者。架空の生き物として扱われているようですね」
ユノの笑みは儚く、マークの胸を締め付ける。
――魔女は皆、殺されてしまう。
魔女裁判のせいだけではない。自らの子が魔女だと分かった瞬間に、親が子を殺めてしまう事件もたびたび起きている。
そういった歴史の中で、最近は魔女という存在自体がもはや稀有なものとなり、皆、そんな現状に何も感じなくなってしまった。
「魔女裁判が制定されてから、多くの魔女がイングレスの地を去りましたし、仕方のないことですが」
「イングレスの地を去った?」
「はい。全員が全員、殺されたわけではありません」
ユノは続ける。
「隣国に亡命するもの、もっと遠くへ逃げたもの……私のように、こうして生きている魔女はたくさんいます」
深い青をたたえていたはずの彼女の瞳に、燃え盛る劫火の赤が揺らめいた。
「私もそうです。幼いころは、イングレスで幸せに暮らしていました」
ユノはそこで目を伏せた。おそらく、彼女の家にも、魔女裁判の執行人を乗せたガソリン車がやってきたのだろう。
「両親には、魔女の友人がおりました。そのおかげで、私は奇跡的に助けられたのです。その魔女の方が、私にこの島を与えてくれました」
「ご両親は……」
マークの問いに、ユノは首を小さく横に振った。
「私を匿った上、国外へ逃がしたのですから、裁判で死刑になるのは当たり前です」
他人事のような表現だが、彼女の声は確かに震えていた。か細く、消えてしまいそうだった。
「だけど」
ユノはまっすぐに前を向く。
「魔女は昔のイングレスがそうだったように、人と手を取り合って生きていきたいと願っています。もちろん、私も。その日が来るまでは、死ねない。両親が私の代わりに亡くなった時から、そう決めて生きるしかなかったんです」
マークが死にたい、と思っていたいつの日も、目の前の少女は孤独に、けれど、生きていかなければともがいていたのだった。
「……それとも、あなたが、私を殺してくれますか?」
孤島の魔女、ユノ・トワイライト。
彼女は今日まで、一人、生きてきた。
死に時を探して――