3-2 セントベリー大聖堂
マークが向かうのはセントベリー大聖堂。
イングレスの首都、ロンドの中心部に位置するそこは、イングレスの中でも歴史が長く、そして最も重要な大聖堂である。
エリックと共に降り立った海軍基地は、ロンドの街のはずれにあって、セントベリー大聖堂まではバスと鉄道を乗り継いで二、三十分といったところだ。
当然、海に流されたマークが金など持っているはずもなく……彼は慌てて、エリックのもとへと戻ったのであった。
「す、すみません……お金を貸してはいただけませんでしょうか」
そういったマークに、エリックがぽかんと口を開けてから、しばらくして「そりゃそうだ」と大笑いするのは当然のこと。マークは穴があったら入りたい、と顔を真っ赤にした。
そんなわけで、エリックから金を借り、マークは改めてロンドの街を移動する。
久しぶりに持った硬貨や紙幣に、マークは、ユノの「等価交換」という言葉を思い出す。人の暮らしには、金がすべてだ。
(魔女の世界の考え方は心地が良かったな)
マークはつい、ため息をこぼす。
エリックからマークが借りた金額は、セントベリー大聖堂までの交通費なので大した額ではない。だが、等価交換、と考えればそのわずかな重みでさえ、無駄には出来ない。ぎゅっと握った手をさらにコートのポケットに突っ込んで、ようやく少し、マークの気持ちは落ち着いた。
ユノの島は夏だったが、ロンドの街は冬だ。今にも、雪か、雨が降り出してしまいそうな灰色の雲に覆われた街は、看板の派手な色でさえどこかどんよりとして見せた。
(やっぱり、あの島は良かったな……)
街への懐かしさも感じきれないままに、ユノと暮らした島を思って、マークは二度目のため息をつく。
しばらくぶりのロンドでの生活。だが、バスの乗り方も、鉄道の乗り方も、忘れられるはずはなく。この街にいる間は、むしろ歩き方を忘れるような生活だった、とマークは自らの過去を振り返った。
新聞社まではバスで通っていたし、新聞配達は自転車だ。免許は持っていないから、バイクにも、車にも乗れないが、遠出の際はバスか鉄道を使うので問題もなかった。
マークが自分の足で長い距離を歩いたのは、ユノの島に着いてからのこと。
「少しくらいは歩くか」
マークは、セントベリー大聖堂の最寄りから一つ手前のバス停で下車した。
ロンドの街は、比較的交通量が多いからか舗装が進んでいる。砂浜の柔らかな感触も、ここでは固いアスファルトか、コンクリート。悪くても石畳の道がほとんどだ。水はけの悪い道が多く、水たまりのできやすい場所でさえマークは当たり前のように思い出していた。
マークは、セントベリー大聖堂の近くにあった大きな公園の脇を抜けて、その荘厳な建物を見上げた。天へと続く高い塔は、時計塔と並ぶこの街のシンボル。
新聞配達で、以前は毎日のように前を何度も往復していた場所だが、きちんと足を止めてみるのは初めてかもしれなかった。
空を渡るのは、カモメか、海鳥か。鳴き声と共にマークの頭上に影が落ちる。その先には、終わりすら見えない大聖堂の敷地。
「大きいな……」
当たり前のことだが、ここに魔女協会があり――魔女が潜んでいるのだと知ってからは、より一層大きな、神秘的な建物に見えた。
マークは、大聖堂の正面に見える女性の像を仰ぎ、何色にも輝く瞳を見つめる。
(もしかして、あれも……ジュエルアイ?)
以前はなんとも思っていなかった。いや、美しいな、くらいには感じていたかもしれないが、その瞳に何かを感じたことはない。
しかし、ユノの話を聞いた今では、この女性こそが世界を……今のイングレスを作り上げた最初の魔女である、と実感する。
おとぎ話みたいだ、とユノは言ったが、それこそが真実なのではないだろうか。
(この人から、僕らは生まれてきたんだ)
そう思うと、マークは彼女を祀るセントベリー大聖堂も、そしてそこに魔女がいることも、不思議なことではないような気がした。
「もし、大聖堂にご興味をお持ちなら、ご案内いたしましょうか」
突如後ろから声をかけられて、マークはびくりと体を揺らした。
「あぁ、すみません。驚かせてしまって」
その声に振り返れば、中性的な見目麗しい男性が立っていた。
セントベリー大聖堂の修道服だ、とマークは彼の姿を見つめる。
烏の濡れ羽色、とでもいうのだろうか。珍しいツヤのある黒の髪。その髪の隙間からエメラルド色の小さなピアスが左耳に光って見えた。
「私はここの修道士でして。ずいぶんと興味がおありのようでしたから」
さわやかな微笑みを見せる彼は、マークよりも落ち着いている。中性的な見た目のせいか、どこか大人の色香があって、同性のマークでさえドキリとしてしまった。
マークはどうするべきか、と言葉を探す。
まさか、魔女集会に出席するため、魔女協会へ来たというわけにもいかない。聖職者の男のことが信じられないわけではないが、だからといっていきなりそれを口にするのはためらわれた。
マークが悩んでいるさまを、彼はただ穏やかな瞳で見つめた。濃紺とも、黒ともつかぬ、髪の色と似たような色の瞳。それは、ジュエルアイほどではないにしろ、ロンドでは少々珍しかった。
「以前から、よくこの大聖堂の前を通っていたんですが。改めて見ると、立派だな、と思いまして」
マークが当たり障りのない言葉を口にすれば、男は、ふっと目を細めた。
「なるほど。そうでしたか。セントベリー大聖堂は、どなた様も、いつでも歓迎しておりますよ。よければ、中もご覧になってください」
言われるがまま、マークは開かれた大聖堂の正面をくぐる。
高い天井にはめ込まれた大きなステンドグラスが最初に目についた。それから祭壇、白く伸びた石柱、長い身廊、そしていくつもの手入れの行き届いた長椅子へと、マークは視線を移動させる。
「素晴らしいですね」
マークが漏らしたため息に、彼は柔らかな笑みを返すだけ。歴史や構造のうんちくを語ることもなく、隣でただ静かに、マークの反応を見守っているようだった。
マークはポケットに右手を入れて、万年筆とメモ帳を取り出す。美しい光景を見ると、どうしても文字に残しておきたくなってしまう。
「それは?」
聖職者の男が不思議な顔でマークを見つめるのも、当然だった。
「もしかして、作家の方ですか?」
言葉を変えて尋ねられ、マークは思わず手を止めた。
「今はまだ、違います」
そう答えるので精いっぱいだった。ロンドの街ではまだ、マークは一冊も本を出してはいないし、自ら作家を名乗るにはおこがましかった。
「今は?」
男はマークの言葉を反復する。
「それでは、いつかは、ということですね」
言い換え方が、なるほど聖職者だ、とマークは苦笑する。否定も肯定もせず、ただ歩むべき道を示す人。
「私は、セントベリー大聖堂の修道士、トーマス・ベケットと申します。ようこそ、マークさん」
「へ?」
「ふふ、すみません。つい、からかってしまいました。あなたのことは、存じ上げております。魔女協会から、お聞き申し上げておりますよ」
マークが数度まばたきを繰り返す間にも、トーマスは先を歩く。
「ついてきてください。あぁ、このことはご内密に」
祭壇の方へと歩いていくトーマスの靴が、コツコツと床に敷かれたモザイクタイルを鳴らす。
祭壇の方へ近づけば、ステンドグラスにはめこまれたその人物の輪郭がよりくっきりとマークの瞳に映し出された。
「この人は……」
建物正面に飾られた女性と同じなのではないだろうか。
トーマスが足を止めて、マークを振り返る。カツン、とやけに天井へと足音が反響した。
「あぁ、この方は」
――はじまりの魔女。
彼は確かに、そう言った。