3-1 久しぶりの
空を飛ぶ、という不思議な感覚は、海の底へ沈む、という感覚に似ている。
ふわふわと足元が頼りなくて、どこかに吸い込まれてしまいそうな、そういう感覚に。
マークはその感覚と死がいつだってとなり合わせであることを知った。
「それで、あなたは一体何者なんです」
エリックの視線は、目の前に広がる真っ青な空へ向けられていた。対してマークは、真下に広がる海を見つめて、今の状況にただ膝を震わせている。
マークがこめかみに感じた冷ややかな感触。硬くて、ゴツリとした重量感のある漆黒の銃口が向けられている。
長い夢を見ているのではないか、とマークが考えてしまうのも無理はなかった。
いや、それは単なる現実逃避に過ぎないが。
「あの場所へはどうやって? 俺も、ジュリさんに案内をされるまで知らなかった。いや、おそらく軍の人間も、王族も知らないでしょう。地図にも記載されていない。秘密の楽園だ。そんな場所に、普通の人間が立ち入るなど」
エリックは、今にもマークを殺さんとする勢いだった。彼も、マークと同じく魔女に心底惚れ込んでいて、魔女を守りたいと思っているのだ。
いくら同じ人間同士といえど、魔女をかくまう立場の人間であれば、魔女の存在を知るマークのような得体の知れない人間を生かしておくわけがない。
「俺も鬼じゃありません。イングレスのあの、司法裁判官や、王族のバカどもとも違います。少なくとも、あなたがこちら側かどうか、それが知りたい」
嘘偽りなく話をしてもらうためには、これが一番手っ取り早いのです、とエリックは片手で器用に水上機を操作する。
エリックは、マークの言っていることが嘘か本当か、見抜くすべを知っているらしかった。軍人仕込みの何か、そういった特殊な能力があるのかもしれない、とマークは思う。自分の住んでいる世界とは、圧倒的に違うところにいる人間だ。
こういう人が、本当は魔女との架け橋になってくれるんじゃないだろうか――
だが。
「信じて、もらえるかは分かりませんが……」
このまま黙っていても、マークは撃たれて死んでしまうだけだろう。それでは、ユノとの約束も果たせない。本を作るどころか、物語を書くことさえ出来なくなってしまう。
マークはゆっくりと口を開く。出来る限り言葉は選んで。
「僕は、先日沈没したグローリア号の乗客でした」
エリックは、その言葉に少しばかり目を見開いたが、すぐにその表情を隠した。拳銃のスライドを引かないところを見ると、まだ打つ気はないらしい。
「グローリア号が沈没する直前、僕は海に投げ出されてしまって。そこからは、正直覚えていません。気づいたら、あの島にいて……島への到着の仕方も知りませんし、あの島がどこにあるのかも、わかりません」
だからもう、ユノのいるあの島へ行くことは出来ない。マークはそれを寂しく思う。
「ユノさんに助けていただいたんです。僕は、それから彼女の恩返しに、といくつか物語を書きました」
「彼女の魔法は見ましたか?」
「えぇ。見せていただきました。物語を書いている人間に、あれほど魅力的な場所はありません」
マークの言葉に、エリックは銃口をおろす。なぜ、真実だと判断できたのか、それはエリックだけが知っていた。
「もう、いいんですか」
マークがそう苦笑すれば、エリックは拳銃を自らの腰のあたりにしまい込んで、
「すみません。軍のやり方しか、知らないもので」
と小さく呟いた。
「名前を教えてもらっても?」
「マーク・テイラーといいます」
「作家だから、テーラー?」
「いえ、仕立て屋の……」
ユノとも同じやり取りをしたな、とマークはそれを懐古した。
「魔法は素晴らしいものだと、俺は考えています。でも、世間はそうじゃない。マークさんが、そういった偏見のないお方で安心しました」
エリックの言葉遣いは、少し気さくなものに変わって、マークもようやく安堵の息を吐く。エリックのアーモンド色の瞳が、穏やかな光をたたえていた。
エリックは、年齢こそマークとさほど変わらないように見えたが、軍人だからか、どこか落ち着いたふるまいに貫禄があって、マークはそんなエリックに視線を向ける。
(僕も軍人だったら、もっと正々堂々とイングレスの現状と戦うことが出来るのかな)
「今の……言論統制がしかれた国では、みんながそうなってしまうのも仕方のないことかもしれません。口にすると捕まってしまいますから」
魔女裁判さえなければ、この国ももっと豊かだったろう。
マークの言葉に、エリックは悔しそうに唇をかみしめた。
マークは再び、眼下に広がる海を眺める。風の影響か、それとも何かもっと別の魔法みたいな力で突如として波立つ海原の向こうに、見覚えのある建物を見つけた。
「時計、塔……」
マークの目にも見える文字盤は懐かしく、そこに時を刻む真っ黒な針も、ロンドの街にいたころのことを思い出させた。
「久しぶりのロンドの街はどうです?」
「空からみると、こんなに美しいんですね」
マークは遠くに小さく並んだこまごまとしたレンガ色の屋根や、海沿いに並ぶ工業地帯のグレーを見る。入り組んだ道路、青銅色の建物、カラフルな色の看板。それらが一度に視界へ飛び込んできても、不思議と騒がしさは感じない。
ユノのいた島に比べれば、当然活気であふれている。人々の営みに、どこかほっとしているマークがいた。
魔女裁判で多くの命が失われ、言論統制による息苦しさなど、外からではまるで分からなかった。
「こうしてみると、とても良い国のように見えるんですがね」
エリックも同じようなことを考えていたのか、そう嘆息した。
「さ、そろそろ降下します。また揺れますから、気を付けて」
水上機はゆっくりとイングレスの港――とはいえ、一般の人が立ち入ることはないであろう海軍の所有区域へと舵をきった。
ザァァ、と激しく海をかきわける音とともに水面を切り裂いて、水上機がプロペラをゆっくりと停止させる。耳をつんざくような音は、水上機の機体の中ではさほど気にならない。
どちらかといえば揺れの方が激しく、マークは機体が止まってからしばらくしても、視界が揺れているような気がしたくらいである。
「マークさん、あなたとは良い友人になれそうです。困ったことがあれば、いつでもご相談を。空軍中尉エリック・ブラウンに、と言伝をいただければ、助けになれることもあるかと存じますので」
エリックの、屈託のない笑みを初めて見た、とマークは差し出された手を握り返す。
二度目の握手は、一度目よりも固く――
互いに、このイングレスの地で魔女の居場所を奪還しなければ、という立場から結ばれた絆はそれ以上にかたかった。
エリックに水上機から降りる手伝いをしてもらいながら、
「エリックさんのことも、いつか物語にしてもいいですか?」
マークが尋ねれば、エリックは一瞬目を見開いてから、照れ臭そうにうなずく。
「その時はぜひ、ジュリさんとの恋物語がいいです」
言ってから、恥ずかしくなってしまったのか
「なんて、ちょっと夢を見過ぎましたかね?」
と耳まで真っ赤にして、エリックは頭をかいた。
「ロマンスは、あまり書いたことがないのですが……そうですね、書いてみます」
地上に降り立って、マークは一礼する。軍人への敬意の表し方も、敬礼の仕方も知らないが、マークの気持ちは伝わったようだ。
エリックは
「楽しみにしておきます」
と軽く手を上げた。
エリックに門の外まで送られ、マークは久しぶりに街の空気を吸い込む。
工場や車の排ガスでどこか煤けた空気が、どうしてこんなにも胸を締め付けるのだろう。
マークは時計塔の鐘の音を、人々の喧騒を、車の行き交うエンジン音を、しばらく感じていた。