1-2 天国の入り口
いくらか落ち着きを取り戻し、あたりを見回すマークの目に飛び込んだのは、それは大層鮮やかな色彩。
ロンドで目につくレンガや石膏、アスファルトとは比べ物にならない。
眼前に広がるエメラルドグリーンの海。陽の光を受けてきらめく波は何色にも変化した。
まっすぐに伸びるのは、銀に縁どられた水平線。その先にはどこまでも続く青空。海と空の隙間から生えそろう入道雲の白がまぶしい。
視線を右に向ければ、真っ白な砂浜に横たわるグレーの流木。
無造作に生えたヤシの樹皮はオフホワイトで、それらを覆うツタや草花のグリーンが背後へと視線を誘導していく。
点々と咲くハイビスカスのコーラルオレンジや、極楽鳥花のサンライトイエローがよく映えていた。
それらの植物たちは、なだらかな丘陵を描きながら、海岸線の緩やかな弧にそってどこまでも続いている。
そうして、気づけば、マークの視線は再び眼前の海へと戻ってきているのだった。
「これはすごい……」
まさに、楽園。
誰もが一度は夢見る、常夏の島である。
波にさらわれたのだと分かってはいても、右手は無意識に万年筆を探してしまう。
「そうだった」
いつもの場所にないことを確認して、何度この動きを繰り返すんだ、と嘆息する。
それくらいで諦めるつもりは毛頭なかった。マークは、万年筆と紙の代わりに、指を砂浜へ滑らせる。
――この景色を書きたい。
あんなに死にたいと思っていたはずなのに、今や、マークの心にはその衝動の影もない。
目の前に広がる夢のような光景を、楽園の全てを、文字にしなければならない。
そんな義務感とも、使命感ともつかぬ気持ちに支配されていた。
マークの右手人差し指が、楽園を文字に変えていく。
砂浜にきらめくシーグラスも、割れたヤシの実でさえも、彼にとっては物語という宝箱を彩る金銀の財宝。
時折吹く柔らかな風が砂をさらって、文字の輪郭を曖昧にぼかしても、マークは手を動かし続けた。
彼の周囲に広がった砂浜ほとんどが文字で埋め尽くされた時。
マークはようやく重たい腰を持ち上げた。自分と同じようにこの島へ漂着した細長い枝を拾い上げると、今度はそれを使って執筆を続ける。
ガソリン車の排気ガスや、汽車の黒煙が燻るロンドの辛気臭い空気とは、まったく一線を画す、新鮮で爽やかな空気が肺を満たす。
呼吸をするたびに、それらが脳をクリアにしていく感覚。
体中をめぐる血液がスピードを上げた。
それは、恋をした時のときめきによく似ている。
マークは無我夢中で書き続ける。
どこまでも続く砂浜は、どんな言葉でも綴ることの出来る白紙によく似ていた。
次第に言葉の欠片は物語になってゆく。
『美しい黄金色の夕日が空と海の間に溶ける。そこに少女が現れ――』
「あなたが、このお話を書いたんですか?」
「うわっ!?」
マークの瞳をのぞき込む、ブルーともパープルともつかぬ輝き。優しく広がるココナッツの甘い香り。潮風にさらわれる柔らかなミディアムボブは、夜空と夕焼けの色が混ざっている。
今まさに、彼が書いていた物語の主人公にふさわしい……いや、それ以上の存在。
尻もちをついたマークに差し出された少女の手は、白磁のように透き通っていて滑らかだった。
「大丈夫ですか?」
太陽の逆光に映る彼女。彼は、そんな彼女に吸い込まれるかのように手を伸ばす。
「だ、大丈夫……じゃ、ない、か……も……」
マークの言葉は、意識と共にそこで途切れた。
- ・・・・ ・ ・・-・ ・- - ・
マークは目を覚ます。
(今度こそ、死んじゃったのかな……)
あたりを見回すも、暗闇が続いているだけだ。天国というよりは、生と死の境――人生において最後の扉を開く場所――という方が近そうだ。
マークが横たわっているキングサイズのベッドだけは、やけにリアルだった。
マークの動きに合わせて、スプリングが軋む。マットレスは彼の体に合わせて形を変え、優しく、だが、しっかりと体を支えている。
ミルキーホワイトの上質な掛け布団は滑らかな肌触り。その上にかけられているラベンダー色のブランケットは、端の方にドレープ状の細工が施されていて、随分と手間がかかっていることがうかがえた。
頭を預けているベビーブルーの枕には、シルクの生地が使われている。
どれも高級品だ。
仕立て屋の跡取り息子として育てられたころの知識を頭に巡らせながら、マークは寝ぼけ眼をこすってベッドから起き上がる。
「ここは一体」
たゆたう暗闇に恐怖感はなく、宙を浮いているぼんやりとした小さな光のせいか、むしろ心が安らいだ。
そっと、ベッドの外へ足を放りだしてみる。
「……水?」
マークの足は長い毛のふかふかとした絨毯のような地面に触れた……はずだが、目に見えている地面は、波紋の広がる水面である。
「なんだろう、これ」
目の前を漂う淡い光には、触れることすらできなかった。
(これも、物語に加えなくちゃ)
マークは再び右手で愛用の万年筆を探し――落胆する。
「そうだった」
この癖だけは、死んでも治らないようだ。
カチャン、と幻想的な空間には似合わない、扉の開く音がした。
音の方向に視線をやれば、マークの世界に長方形の……ちょうど扉と同じようなサイズの輪郭が浮かびあがる。
「もしかして、天国の入り口が……」
「目が覚めましたか」
マークの言葉をさえぎって、少女が顔をのぞかせた。
少女の背後には、湯気の上がる皿が並ぶテーブル。その奥の壁には、鍋やら泡だて器やらがかけられている。
(リビングと、キッチンがある)
天国なのに、とマークは首をかしげた。
「ご飯は食べられそうですか?」
対して、少女は幻想的な空間には目もくれず、マークを見つめている。その表情には不安と心配の色が浮かんでいた。
「それとも、まだお眠りになられますか?」
返事をしないマークが気になったのだろう。少女はゆっくりと彼の方へ近づいて、彼の隣に腰かけた。
ギシ、とベッドが音を立てる。
少女の整った愛らしい顔がマークに迫り、彼は思わずのけぞった。
マークがあまりの緊張に目を閉じると、何かが彼のおでこに触れる。柔らかな指先と、ひやりとした温度が、少女の手であることを教えてくれた。
「ひとまずは大丈夫そうですね」
少女の吐息は優しいものであった。
ギシ、と再びベッドが音を立てる。
同じ音だが、今度のそれは、少女が離れたことを意味する。マークは薄目でそれを確認し、少女が隣にいないことが分かると、ようやくまじまじと少女を見つめた。
ベッドの数歩手前。少女は水面の上に立ち、穏やかに灯る光に包まれていた。
まるで、なんてことない、普通の光景だというように。
「え、っと……」
マークの声に振り返る少女。彼女の動きに合わせて、バイオレットのローブがふわりと広がる。
「ふふ、残念ながらここは天国ではないですよ」
「で、でも!」
こんな光景、とマークが口を開こうとすれば、少女は人差し指を自らの口元にあてる。
マークが言葉を飲み込んだことを確認して、少女はそのピンクの唇から指を離した。
「ほかの人には、秘密にしてくださいますか?」
彼を見つめる少女の瞳は、宝石のようであった。