2-14 魔法の図書館
ユノは、扉の前でバクバクと高鳴る鼓動を抑えた。
こんなに緊張するのはいつぶりだろうか。
マークの等価交換を受けて、ユノは、マークに見せるための世界を――最後のとびらを用意していた。
二人の思い出に残るような、そんなとびらにしよう。
そう思ってはみたものの、それがどんなものかは想像もできなかったし、最後に見せたいものが何なのかも、うまくは描けなかった。
初めてマークに出会った日のこと。初めてマークに見せた魔法。二人で一緒に囲んだ食卓も、二人で一緒に見た夕焼けも。海も、空も、森も。
すべて、大切な思い出になった。
マークに見せたいものもたくさんあって、どうせなら魔法でしか見せることの出来ないような世界にしようか、とか、せっかくなら好きなものにしようか、とか。
様々な思いがユノを駆け巡っていく。
「困りましたね」
マークを振り返れば、マークも決めかねているのか苦笑する。
「僕も、これが最後の魔法だと思うと、何をお願いするべきか悩んでしまって。なかなか決められないものですね」
お互い、考えていることは同じだったようだ。
「でも……そうですね」
マークは顎に手を当てて、少し思案したのち口を開いた。
「せっかくなら、僕らが好きな、本がたくさんある場所、とかどうでしょう」
「本屋、ということですか?」
「うぅん……まぁ、そうなんですが……ロンドの街にあるような、地味な装丁の本ばかりじゃなくて、もっといろんな本が置いてあるような場所で」
マークの説明に、ユノはそんな夢のような場所が、と頭の中で想像する。
頭上高くに伸びる本棚、そこへしまわれた数々の本。赤に、黄色に、緑に、青に……様々な色や大きさの背表紙が並び、かと思えば本は鳥のように自由に行き交って。
ユノは、そこまで想像して「そうだわ!」と声を上げた。
「せっかくなら、魔法の図書館にしましょう」
魔法の図書館、とマークは復唱する。美しいフォレストグリーンがきらりと輝いた。
「いいですね! 僕も、行ってみたい場所です」
ユノは、そんなマークの表情につられて笑みを浮かべる。
「それじゃぁ……」
ユノは、深呼吸を一つして、ドアノブを握りしめた。
三つ目の、一番大きな部屋中を覆いつくすほどの本棚。天井には大きなステンドグラスがはめ込まれていて、そこから日の光が差すと、床には万華鏡を覗き込んだ時のように、鮮やかな模様が浮かび上がる。
静かな空間を、ゆっくりと鳥のように飛び交う本。床に積み上げられた本もあれば、本棚にきっちりと収まって、読んでくれる人を待っている本もある。
装丁は鮮やかに、美しく。開かれた本からは、星や蝶や、生き物たちが飛び出して。一人では抱えきれないくらい大きな絵本は額縁に飾られていて、小さな文字がびっしりと詰まった分厚い物語からは、たくさんの文字がこぼれている。
ユノにとっても、マークにとっても、それはこれ以上ない夢のような空間。
「オープンセサミ」
ユノはゆっくりと、扉に魔法をかける。今までで一番丁寧に呪文を唱えた。
静かな部屋に、カチャン、とドアノブがひとりでに回った音だけが響いて、ユノとマークは顔を見合わせた。
「これが、最後のとびらです」
「僕とユノさんの、魔法の図書館ですね」
マークは子供のようにキラキラと目を輝かせている。今すぐにでも、その扉を開けたい、と言わんばかりだ。
「それじゃぁ、マークさん! この扉を開けてください」
ユノが笑うと、マークは少しだけ緊張を顔ににじませて、ゆっくりとドアノブを握りしめた。
「オープンセサミ」
マークの穏やかな声と、カチャン、と再びドアノブが回る音。
――二人にとっての最後のとびら。
マークがゆっくりとそのドアを押し開く。
世界を作ったはずのユノも、ドキドキと高鳴る鼓動をしずめて、マークの後ろからそっとその扉の向こうへ目を向けた。
「「う、わぁ……!」」
二人の声が重なる。
頭上まで覆いつくす本棚。見上げればその頂上にステンドグラスがチラチラと鮮明な色を描いている。何十、何百という本がページをゆっくりと上下させて飛び交い、開かれた本からは星があふれ、本棚にきっちりと収まっている本でさえ、開かれる日を心待ちにしているように見えた。
「すごい! すごいですよ、ユノさん!」
マークは思わず子供のようにはしゃいでしまう。
足元に積み上げられた本を避けながら、時折頭上を越えていく本を眺めながら。きらびやかな金文字の装丁に口を開けたり、文字がこぼれてしまっている本を見つめたりもした。
「ユノさん?」
返事がない、と彼女を振り返る。
「自分が作った世界のはずなのに……」
そこには、ただ呆然とその景色を眺めるユノの姿があった。
夜空色の瞳に何千と映し出される星空も、今は、本の装丁を映し出して色を変えている。
夢のような光景だった。本に触れることは出来ないし、その本を読むことも出来ない。だが、ユノにとっても、マークにとっても、これ以上ないほど素晴らしい場所だった。
「本当に、素晴らしいとびらをありがとうございます」
「こちらこそ。こんなに素敵なとびらを作ったのは、私も初めてです」
実際にこんな場所があったらどんなに良いだろう。ユノ一人では、きっとこんな場所は思いもつかなかった。
しばらく二人は床に座り込んでその光景を眺めた。マークは、この日のことを忘れないように、と目に焼き付けて。ユノもまた、この光景を忘れないように、と胸に刻んだ。
夜も更けてきたせいか、だんだんと二人の瞼が重くなっていく。
マークは、羽ばたく本を見つめて、ごろん、と床に寝転がった。ユノも、
「それ、いいですね」
とマークの隣に横になる。
天井のステンドグラスを仰ぎ見ている二人の上に、時折横切る本の影が落ちた。
「いつか、イングレスの国にも、こんな場所が出来る日が来るんでしょうか」
明日、ロンドの街に戻るマークは独り言のように言葉をこぼした。ユノと一緒に、この秘密の楽園で暮らしていけたら、どんなに良いことだろうか。そう思うが、それは夢物語だ。
マークの故郷は――帰るべき場所はロンドの郊外にあるアパートである。
ちらりと隣にいるユノを見れば、彼女はステンドグラスを見上げたまま答えた。
「人と、魔女が手を取り合えば、きっと出来ると信じています」
ユノは、珍しくきっぱりと言い切って、マークの方へ笑みを向ける。
「その時は、マークさんのお話もここにたくさん並べなくちゃいけませんね!」
彼女の夜空色の髪が、内側に隠れた夕焼け色の髪と混ざり合う。宝石のように光を散乱させる瞳は、たくさんの本に囲まれたマークの姿を映し出した。
「魔法の図書館を、実現させましょう」
約束、とユノは小指をマークの方へ差し出した。
マークは自らの小指をそっと絡めて、力強くうなずいた。
二人は、そのまま眠りへと落ちていく。
絡まった小指から二人の体温だけが優しく伝わる。それが妙にくすぐったくて、心地よかった。
-・・ ・- ・-- -・
カサ、と衣擦れの音でマークは目を覚ます。固い床の上で眠ってしまったせいか、いつもより体が痛い。マークが体を伸ばせば、隣でユノがスヤスヤとねむっていた。
まだ、起こすには早い時間。
ユノを起こさないように、とマークは細心の注意を払って立ち上がる。自分が羽織っていたベストをユノの体にかけてやり、マークは本に囲まれた部屋を見つめた。
「僕は、本を書きます。これからも。たくさん」
まだ眠りの中にいるユノに、そっと約束すれば、ユノはむにゃむにゃと口を動かした。
朝日だろうか。
ステンドグラスから差し込む日の光が、床の上に万華鏡のような色彩を描きだす。
マークとユノの間に小さな虹がかかり、マークは思わず右手をポケットに突っ込んだ。
ズボンのポケットに入れられた万年筆と、小さなメモ帳。
マークはそれを取り出して、安堵のため息を一つ吐き出すと、サラサラとペンを動かした。
――これは、僕と魔女の、『扉を開く』物語である。