2-13 一冊目の本
ディーチェが帰ってからというもの、マークはより一層執筆活動に精を出した。
マークの話を「面白い」と言ってくれる人がいる。認めてくれる人がいる。それだけで、マークは今までにない幸せに包まれていた。
それだけではない。それらの気持ちが、やる気につながった。もっと多くの人を感動させたい、もっと面白い話を書きたい。そんなモチベーションになって、彼を突き動かす。
ユノが魔法を見せてくれるおかげもあって、自然とアイデアも沸いた。言論統制もない。魔法だって、魔女だって、自由に書くことが出来た。
マークの書いた原稿用紙はやがて分厚い束になり、ユノはそれを何度も何度も読み返した。
トントン、と部屋の扉がノックされ、マークはペンを走らせていた手を止める。
基本的に、二人は必要以上に干渉はしない。食事は一緒にとるし、会話だってする。たまに、一緒に海辺や森の方を歩くこともあった。でも、それだけだ。
だからこそ、夜更けにユノがマークの部屋をノックするなんて、とマークは立ち上がった。
マークが扉を開けると、夜空色の髪が目につく。それから、マークを見上げるユノの、ネイビーとも、ブルーとも、いや、何色とも表現のつかない美しい瞳が。
「すみません、夜遅くに」
「いえ……珍しい、ですね」
不思議な沈黙が二人の間に流れ、お互いに視線をさまよわせた。
――明日、マークはこの島を出る。
魔女協会の人が、マークを迎えに来るのだ。ロンドの街にある魔女協会へ行くために。もちろん、魔女集会にはユノも参加する。島を出た後もそこで顔は合わせるだろう。
だが、魔女集会が終われば、マークはロンドの街、元居た場所へと戻ることになるのだ。
この島に戻ってくるという選択肢もあったように思う。ユノはマークを拒みはしないだろうし、マークもユノといるのは心地が良かった。
だが、二人は家族でも、恋人でもない。マークは人間で、ユノは魔女。マークには、新聞社のことだってある。
少なくともこのまま――二人で一緒に暮らしていく、という覚悟は、お互いにできなかった。
互いに、相手の迷惑になる、と言葉を飲み込んだのである。
「あ、の……少し、落ち着かなくて」
ユノが曖昧な微笑を浮かべる。マークがそれにうなずけば、
「なんだか、あっという間でしたね」
とユノは切り出した。
たった二週間程度のこととはいえ、共に過ごした友人との別れ。
マークもユノも、寂しい、とずいぶん懐かしい感情を覚えた。
「本当は……マークさんが島を出るときにでも、と思っていたのですが。魔女協会の方が、いつ島に来られるかは分からないので」
「確かにそうですね。僕も同じことを考えていましたが……ユノさんとゆっくりお話をする時間もないかもしれませんね」
二人は互いに顔を見合わせ、ふ、と笑みをこぼす。
「物語を書くばかりで。その時間、ユノさんとお話をすればよかった、と今更ながら思います」
マークがはにかむと、ユノもうなずいた。
「私も、お話を読むばかりで。今更になって、もっとマークさんとお話をすればよかったかも、なんて思ってしまって」
それで夜更けに、ユノはマークの部屋を訪れたのだが。
二人はローテーブルに腰かけて、長い夜を過ごすことにした。
ユノが持ってきたティーカップからアールグレイの香りがして、これも最後だな、とマークは思う。
窓の外から、ザァン、と波の音が響き、月明りが柔らかに差し込む。
海も、空も、暗闇に溶けてしまって、水平線すら見えない。
だが、不思議と怖くはなかった。
「ロンドの街に戻って、何をしたいですか?」
「新聞社に行って、謝らなくちゃいけません。ご迷惑をおかけしたので」
「お話は、書きますか?」
「もちろんです。でも、仕事をしながらになるでしょうし……それに、ロンドの街では、言論統制もあって、思うようには書けないかもしれません」
――それにもう、読んでくれる人はいない。
書いても読まれない物語を、マークは書き続けることが出来るだろうか、と思案する。
一度、読んでもらう喜びを知ってしまった人間が、誰にも読まれない物語を書くなどと。
「書いたら、また、読ませてもらえますか?」
「え?」
マークが顔を上げると、ユノはにっこりと微笑む。
「マークさんのお話を、魔女協会の人に頼んで送ってもらいます」
「そんなことできるんですか?」
ユノの言葉に、マークは目を見開いた。
だが、もしもそれが叶うのなら……。
「きっと大丈夫です。だってもう、マークさんのお話は、私の生活にとって必要なものですから」
ユノの瞳に星がまたたく。
マークはその輝きを、この世界を照らす無数の星を、これからもずっと忘れないだろう。
マークにとっては、願ってもないユノからのお願いだった。
「もちろんです! 出来る限りたくさん、たくさん書きます!」
マークは前のめりに承諾する。マークの貴重な読者であり、初めてのファン。そんなユノが待ってくれている、と思うだけでもマークのモチベーションになる。
「あ!」
マークが喜びに笑みを浮かべたのもつかの間。思い出した、というようにユノが
「どうしよう!」
と声を上げる。
「等価交換じゃなくなってしまいます! マークさんがロンドへ戻ったら、新しいとびらをご用意できません……」
この話はなかったことに、と言い出しそうなユノを、マークは必死に遮る。
「僕のわがままみたいなものですから!」
「でも!」
「大丈夫です!」
二人はしばらくそんな押し問答を繰り返した。どうしてこんなことに、と互いに思ったことだろう。
ユノとマークは顔を見合わせ、それから、クスクスと肩を揺らした。
「お別れの前に、何をしているんでしょうね。僕たちは」
「ふふ、本当に。お互い頑固ですね」
「なんだか、出会った頃のことを思い出します」
あの時もこんなやり取りをして、ユノが等価交換を、と言い出した。その時は確か、マークが半ば押し切られる形でユノの提案を飲んだはず。
「では、こうしましょう」
今度は、マークが提案をする。
「僕は必ず、物語を一冊の本にして出版します。ユノさんは、僕に、最後の魔法を見せてはくれませんか?」
「え、でもそれじゃぁ……」
「一冊の本と、一つの扉。等価交換です」
書いた物語をすぐにユノに見せられないことは残念だが、それも仕方がない。
マークの今の夢は、魔女も人も関係なく、皆が幸せになれる物語を書くことなのだ。
――本という形にして。
ユノは、渋々、といった様子でため息をつく。
「わかりました。マークさんのお話がすぐに読めないのは残念ですが……私にはこれがありますし」
ユノは、バイオレットのローブから原稿用紙の束を小さくまとめた、一冊の本のようなものを取り出した。
「それは?」
「実は、マークさんの書いたお話を、小さな紙に写して持ち運べるようにしたんです。これならどこにいても読めるし、原稿を汚す心配もありません」
ユノはにっこりと微笑んで、パラパラと紙をめくる。
製本こそされていないが、それこそまさに、マークが書いた一冊目の本に間違いなかった。
マークの瞳から、ツ、と音もなく涙が流れる。
「マークさん!? も、もしかして、勝手なことをしてしまいましたか!? すみません、勝手にこんなことを!」
ユノは本をしまい、あたふたとティッシュやらハンカチやらを取り出して、マークに差し出す。
人の作った物語を勝手に、とユノは思ったらしい。
「ち、違うんです! これは、その、うれしくて……」
マークは慌ててユノが差し出したハンカチで涙をぬぐい、ティッシュで鼻をかむ。情けないと思うが、思い返せば、ユノにはそんな姿ばかりを見られているな、とマークは苦笑した。
海風が室内に入り込んできて、ユノの髪を撫でる。外側の夜空色と、内側の夕焼け色。それが混ざり合った。
マークは、ユノと丘の頂上で夕暮れを見つめた日を思い出す。
マジックアワー。
マークにとってそれは、この島に来てからの時間すべてだった、と思う。
ユノもまた、マークとの日々を思い返して、魔法とはこういうことなのかもしれない、と思うのだった。